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第一章
第九話 救助
しおりを挟む「ヒッ、、ヒッ」
どうして忘れていたんだろう。
あの娘は大丈夫だろうか。
この瞬間もあの場所で一人で凍えているとしたら忍びない。
結局、俺は何もできなかった。あの娘を助けることも、自分が生きながらえることも、最後に一緒にいてやることすらできなかった。
ただ、いたずらに命を引き延ばしただけだ。
願わくば、あの娘が誰かに救助されていますように。
こんなことを自然に思えるなんて、自分でも信じられない。
身体の熱と一緒に、心の奥底にヘドロのように溜まった澱みも、この海に溶けてきれいさっぱり消えてしまったのかもしれない。
悪くない気分だ。
きっと、この身体も心も命も、一切合切が海に呑み込まれて、消えてしまうのだろう。
最後の時を誰かの無事を祈りながら迎える。
無責任かもしれないが、何となく許されたような気がした。
(なんで救命胴衣を着てなかったのか不思議だったけど、あの娘にあげたんだった)
凍え切った心の深奥に仄かな暖かみを感じた。
自分もそんなに捨てたもんじゃないと思える。
きっと、彼女と、あの娘のおかげなんだろう。
(…………)
「ヒッ、、、ヒッ、、、、ヒ、、、、、」
穂積の意識には靄がかかり、静かに沈んでいく。
夕陽を背に近づいてくる船影に、気付くことはなかった。
**********
懐かしい揺れと身体を包み込む暖かさを感じつつ薄っすら目を開ける。
天井の木目を見て、ぼんやりしていると、真紅の瞳が飛び込んできた。
まん丸の目を見開き驚いているようだ。
「――っ」
声が出ない。身体がだるい。でも、生きている。
涙が出てくる。後から後から、涙があふれて止められない。
拳を握りしめ、歯を食いしばり、しゃくりあげ、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら泣き続けた。
そっと、顔に手ぬぐいが触れた。
真紅の瞳が心配そうに揺れ、涙と鼻水を優しくふき取ってくれる。
その優しさに感極まって、また涙があふれてくる。そんなことをしばらく続けているうちに、なんとか気持ちを落ち着けて、声を絞り出す。
「ぁりが、ゴホゴホっ」
お礼を言おうとして喉が詰まり咽せてしまった。
すると、顔を拭いていた手ぬぐいを口元に当て、急須のような容器を差し出してくる。先端に口をつけると、温めの白湯がゆっくり注がれる。
「ゆっくり飲んでください……」
言われるままに口に含み、こくりと飲む。何度か繰り返し、ようやく喉に潤いが戻った気がする。
「……ありがとう」
「いえ、ボクの役目ですから……」
「俺の他には?」
「……?」
「他には誰か救助されたりは……」
「すみません。ボクにはわかりません……」
真紅の瞳をまっすぐ見つめると目を逸らされた。左の目元の泣きぼくろが印象的な線の細い子供だ。
真っ白な肌と瞳の色から察するにアルビニズムの子だろうか。短く切られた髪は薄い水色をしているので違うのかもしれない。
瞳の色にコンプレックスがあるのか、前髪が長めに切り揃えられていて、俯くと目元が隠れる。
(ん? 水色の髪? 染めてるのか?)
雰囲気にそぐわず、なかなかファンキーな感性の持ち主なのかもしれない。
(でも、結構白髪も混じってる。色落ちして美容院も行けてないとか?)
ボクと言っていたから少年なのだろう。彼は少し身を引いて俯き、目元を隠してしまった。
(それにしても、随分と痩せているな。ガリガリじゃないか。ちゃんと食べさせてもらってないのか? ――って、えええ!?)
折れそうなほど細い首には、不釣合いなほど無骨な黒い首輪がついていた。
(ファンキーにもほどがあるだろう! それで恥ずかしそうにモジモジするとか、ギャップどころの話じゃないぞ。なんなんだ、この子?)
あまりの衝撃に助かった感動すらちょっと消し飛んでしまったが、彼が涙と鼻水を拭い、水を飲ませてくれた事実は変わらない。
ひょっとすると、ずっと看病してくれていたのかもしれない。
ここはイカれたファッションセンスは無視して、優しいけどシャイな少年の事案として取り扱うべきだろう。
「その……、本当にありがとう。助かったよ。俺は新高穂積って言います。君の名前は?」
「あ。ボクはクリスです……」
「クリス君か。いい名前だね。どこの出身なの?」
「出身ですか……? 大陸南部です……」
(ん?)
「えっと、先生を呼んできます……」
「え? ああ、ドクターがいるんだ? 頼むよ」
「はい……。少し待っててください……」
そう言うと、クリスは足早に部屋を出ていった。
(微妙に会話がかみ合ってない気がするし、何か違和感が……)
寝かされていたのは八畳くらいの部屋だ。木製のベッド、固めの革製マットレスに清潔なシーツが敷かれている。マットレスはビニールのような独特の手触りで撥水性がありそうだが、見たことのない鱗模様がある。室内には消毒薬の匂いが染みついているのでおそらく医務室だろう。
壁、床、天井のほとんどが木製で、壁には嵌め殺しの丸窓が一つだけ。カーテンがかかっているが隙間から光は漏れていない。今は夜なのだろう。足元を見ると壁際に机と本棚があり、出入口の扉が見える。
一定の振幅で感じる揺れ方はなじみ深い、船の横揺れだ。ザァーザァーという波音に混じり、揺れに合わせて船体からギギィと軋音が響く。
どうやらこの船に救助されて九死に一生を得たようだ。
木造船なのだろうか。就航している船はあることにはあるが、自分が知っているのは訓練やイベント興業向けの帆船ばかりだ。帆走中の揺れ方ではないので、今は主機を使って航行しているのだろうか。
しかし、それにしては静かすぎる。ディーゼル機関特有の縦振動をまったく感じない。振動の少ない主機関もあるが帆船にはそぐわない気がする。一体どんな船なのだろう。
ベッドに横になったまましばらく待っていると、クリス君が『先生』を連れて戻ってきた。
派手目の若い女医だ。金髪碧眼で北欧系の美人。緩いウェーブのかかったセミロングの髪。
メリハリのある暴力的な肢体を胸元の大きく開いたシャツに押し包み、その上から白衣を羽織っている。
穂積は思わずゴクリと唾を飲み込み舌を湿らせる。できるだけ滑らかに回るように。
今までネイティブの英語圏の人と直接話したことはない。母国語が英語かはわからないが、白人というだけで少し身構えてしまう。
「おっはよう! だいぶ顔色よくなったかしら。治療の甲斐があったわよね」
「……へ?」
「あら? まだ混乱してるのかしら?」
いきなり流暢な日本語で話しかけられて驚いた。
「ええと、いえ。はじめまして。俺は新高穂積と言います。この度は助けていただき、ありがとうございました」
「うふふ。どういたしまして。ジェシーは、ゼーク・ジェシア・アジュメイルって言います。気軽にジェシーって呼んでくれるかしら?」
「はい。では俺のことはホヅミと」
「ホヅミ、ホヅミ……ホヅミンね!」
「ホヅミン?」
ジェシーさんが頬を赤くして腰をくねくねさせながら近づいてくる。やけに近い。
「ジェシーのことも呼んでみてくれるかしら?」
「はぁ。はい。しぇしーしゃん――っ」(いかん。噛んだ)
想定していたものとまったく違う滑舌を要求され、見事に噛んだ。昔からサ行は苦手だ。
(ていうか、この人セックスアピールがすごい)
なぜかシャツのボタンをもう一つ外し、ご立派な爆乳の下で腕を組み、こぼれんばかりに持ち上げて迫ってくる。
(なんだ? なんなんだコレ)
ジェシーさんはコロコロと笑いながら、人差し指を穂積の胸板に這わせて、さらに迫る。近すぎる距離感。
「うふふっ。ホヅミンってかわいいわよね。ねぇ、もう一回、呼んでくれるかしら?」
「……じぇしーさん」
「ちょっと硬いわよね。もう一回」
「シャシーさん」
「もう一回」
「ジェシーしゃん!」
「十回連続で言ってみてくれるかしら?」
「無理です! 苦手なんです!」(あなたのニックネームも、他の諸々も)
ジェシーは指先をくりくりやりながら考え、ニッコリと微笑んだ。
「もう、しょうがないわね。なら、ホヅミンが呼びやすい名前を付けてくれるかしら?」
「え?」
「どうしても呼びにくいのよね? でも、ジェシーは気軽に呼んでほしいの」
(もう、なんなのこの人。感謝の念とか薄れる。しかも、俺と年は変わらないだろうに、自分を名前呼びとか)
「ねぇ~。早くぅ~」
(ヤバい。イライラしてきた。……もういったれ)
「じゃあ、ゼクシィさんで」
「え?」
「ゼーク・ジェシア・アジュメイルさんですよね? ゼクシィさんでお願いします」
(決めた。俺の中でこの人はゼクシィだ。ぴったりだ)
某結婚情報誌と関係はない。
「ゼクシィ、ゼクシィ……うん、なんかいいわね。なぜか燃えてくるわ」
「気に入ってもらってよかったです。ゼクシィさん」
「うん。本当に気に入ったわ。私は今日からゼクシィよ!」
「……よかった、です」(笑うな、笑ってはいけない)
「なんでプルプルしてるのかしら?」
「いえ、なんでも」
「そう?」
名付けが気に入り満足したのか、ゼクシィさんはようやく離れてベッド脇の椅子に腰掛けた。足を組み替える仕草がいちいち妖艶だ。
これから軽く問診をするそうだ。それはいいのだが、クリス君が部屋の隅っこで立っぱなしだったのに気付いて声をかける。
「クリス君も座ったら? 椅子もあるみたいだし」
「えっ……」
なぜかクリス君が驚いた顔をしてオロオロし始める。ゼクシィさんも珍しいものを見るように俺を見ている。
(なんだ? なんか悪かったか?)
「クリス、座ったらいいんじゃないかしら」
「先生……、でも、ボクは……」
「ホヅミンはいいって言ってるし、ゼクシィも気にしないわよ」
「わかりました……」
クリス君はベッドの脇に置かれていた丸椅子に遠慮気味に腰を下ろした。
「じゃあホヅミン、問診を始めるわよ」
「よろしくお願いします。ゼクシィ先生」
「うふふ。先生だなんて。ゼクシィって呼んでいいって言ってるのにね」
「いえ、俺は患者ですから、医師を先生と呼ぶのは当たり前です」
「律儀な人ね。まあ、嫌いじゃないわ。むしろ……うふふ」
一般的な質問に一つ一つ答えていく。名前、性別、年齢、身長、体重、職業、出身地、魔法適性。
「すみません。ゼクシィ先生、もう一度、お願いできますか?」
「いいわよ。ホヅミンの魔法適性は何?」
「……」
「恥ずかしがることないわよ。隠していても意味ないしね」
「……いや、魔法って」
「どうかしたかしら?」
「……いやいや、いやいやいや、魔法ですか?」
「ん? そう言ってるじゃない」
「すみません。意味がわかりません」
そこから先はよく覚えていない。魔法と名の付くあれこれを聞かれた気がするが、答えようがない。
どさくさに紛れて、年上か年下か、キレイ系か可愛い系か、スレンダーかグラマーか、幼女か熟女か、で言ったらどっちが好きかというような質問があった気もするが覚えていない。
クリス君が真っ赤になってうろたえていたことは覚えている。
「かなり記憶に混乱が見られるようだから、今日のところは食事を取って休んだほうがいいわね。何かあったら、クリスに言ってくれればいいからね」
「はぁ」
「――クリス、厨房に行って重湯をもらってきて。ホヅミンの食事の世話をしたら、身体を拭いて、服を着替えさせておいてちょうだい。体力が回復するまでは二、三日かかると思うから、その間、あなたはここで寝起きしてもらうことになるわ」
「わかりました……」
ゼクシィ先生は俺がかなり重症だと判断したようだ(特に頭が)。先ほどまでとは打って変わって、凛々しいやり手の女医といった風にテキパキとクリス君に指示を出している。
展開にまったく付いていけず、圧倒され続けていたが、これだけは聞いておかなければならない。
「あの、ゼクシィ先生」
「なぁに、ホヅミン?」
「俺の他に救助された人はいませんでしたか? あるいは……ご遺体とか」
「……本船が見つけたのはあなただけよ」
「……そうですか。ありがとう」
「それじゃ、ホヅミン。おやすみなさい。さみしくなったら、いつでもゼクシィを呼んでね!」
ゼクシィ先生はそう言って投げキッスをすると部屋を出ていった。
「……クリス君。ゼクシィ先生はいつもあんな感じなの?」
「いえ……。今回はいつにもまして……その……」
「……なるほど」
(クリス君、ゼクシィ先生……濃すぎるよ。この船なんなの?)
疲れ果てた穂積はクリスが持ってきた食事を取り、身体を拭いてもらって(さすがに手の届く範囲は自分で拭いた)、服を着替えると深い眠りにつくのだった。
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