海の彼方のトティアス 〜船員さん、異世界へゆく。海に沈んだ世界で絆を育み生き抜く、普通の男の物語~

万年ぼんく

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第二章

第八九話 修行? クリスはやる気です

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「いかん。忘れてた……」
「ホヅミさま……?」

 三方に壁をこしらえて、露天風呂特有の開放的でありながら、プライバシーは確保される空間を創造した。壁が風防の役目も果たすので、肌にべたつく潮風も入ってこない。

「完璧な空間だと思ったのに……」

 船尾を見れば、開かれた視界に映る大パノラマ。水平線に分かたれた海と空、二色の青の絶景が広がる。

「青い空。白い雲。どこかにあるはず……衛星魔堰」
「あっ……。『宇宙』の『静止軌道』を回ってる魔堰……?」
「ちっ! 覗き趣味の皇帝ゼトめっ! ……天井がいるなぁ」

 愛しい恋人たちのあられもない姿を、スケベな出歯亀皇帝に見られるわけにはいかない。

(日光浴にも使えるかと思ったのに……。薄暗い浴室じゃあ風情に欠ける……)

「ホヅミさま……。暗いお風呂になっちゃう……?」

(おのれっ! 皇帝ずぇとぉ~! 可愛いクリスを悲しませるとはっ! 許すまじぃ~! もぅ~、許さん。本人じゃないし、一万年も立ってるから時効でいいかと思ってたけど。クリスを泣かせる奴は全員、EDの刑に処するぅ! 呪ってやる……。EDの呪いだ……。そしてオマエにキンタマはやらん!)

 穂積は海と空を睨み付け、衛星魔堰越しに皇帝ゼト目掛けて邪念を送り始めた。

佛説ぶっせつ摩訶まぁかぁぁ~般若はんにゃぁ~波羅はぁらぁ~蜜多みぃた心経しんぎょ~ぅ! 観自在菩薩かんじぃざいぼぉさぁ行深般若ぎょうじんはんにゃぁ波羅はぁらぁ蜜多時みぃたぁじぃ~! 照見五蘊皆空しょうけんごぉうんかいくぅ度一切苦厄どぉいっさいくぅやく舎利子しゃぁりぃしぃ~! 色不異空しきふぅいぃくぅぅ 空不異色くぅふぅいぃしきぃ 色即是空しきそくぜぇくぅ~!」

 皇帝に呪怨EDを掛けてやろうと『般若心経はんにゃしんぎょう』を唱え出す穂積。

「ホ、ホヅミ……さま……?」

 怒りに震えた怖い顔で、何やら荒々しい意味不明の言葉を唱え始めた男を見て、クリスの頬が引き攣る。穂積のことは大好きだが、たまに本当に分からない時があるのだ。

空即是色くぅそくぜぇしき 受想行識じゅそぅぎょうしき 亦復如是やぁくぅぶにょぜ 舎利子しゃぁりぃし 是諸法空相ぜぇしょほぅくぅそぅ~ 不生不滅ふぅしょうふぅめつ 不垢不浄ふくふぅじょ~ 不増不減ふぅぞうふぅげん 是故空中ぜぇこぉくぅちゅ~ 無色むぅしき無受想行識むぅじゅ~そうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意む~げんにぃびぜっしんい~ 無色声香味触法む~しきしょうこうみ~そくほぉ~」

 穂積の黒歴史。若気の至りが爆発し、和風の異能力ちゅうにに目覚めていた頃。『般若心経って響きがカッコイイ!』と思って全文を暗記した。今でも空でぎんじることが出来るというだけで、意味は知らないし、ただの音の羅列でしかない。

「ホズミさま……。おいたわしい…………」

 クリスは痛々しいものを見るように、悲しげに穂積に向かって手を合わせた。日本の祈りのカタチであると、教わっていた通りに合掌する。

無眼界乃む~げんかいない 至無意識界し~む~い~しきかい 無無明亦む~む~みょうやく 無無明尽む~む~みょうじん 乃至無老死ないし~む~ろうし~ 亦無老死尽やくむ~ろうし~じん 無苦集滅道む~く~しゅうめつどう 無智亦無得む~ち~やくむ~とく 以無所得故い~む~しょうとくこ~ 菩提薩埵ぼ~だいさつた~ 依般若波羅蜜多故え~はんにゃ~は~ら~みった~こ~

 荒々しかった穂積の読経が穏やかになってきた。

 そもそも、般若心経は呪いの言葉でも、呪術的な儀式の詠唱でもない。数あるお経の中でも最も有名なものの一つであり、仏教の真髄をまとめたものである。

 正式には『般若波羅蜜多心経はんにゃはらみったしんぎょう』という。

 『般若』は智慧ちえ、すなわち物事の道理を見抜く力という意味。『波羅密多』は悟りを得て彼岸じょうどへ行くこと、『心』は重要な部分という意味を持つ。

 つまり、仏教で最も重要な悟りを得る方法の、最も重要な箇所を謳ったものであり、修行僧を導くテキスト的な経典なのだ。

(え……? なんだか…………)

 クリスは合掌したままで静かに目を閉じ、穂積の般若心経に耳を傾ける。

 怒りに突き動かされて悟りに至れる者などいないだろう。穂積には、その道に進むつもりは全くなかったが、般若心経の説く『くう』の思想は、読経の響きの中に確かに息づいていた。

心無罣礙しんむーけいげー 無罣礙故むーけいげーこー 無有恐怖むーうーくーふー 遠離一切顛倒夢想おんりーいっさいてんどーむーそー 究竟涅槃くーぎょーねーはん 三世諸仏さんぜーしょーぶつ 依般若波羅蜜多故えーはんにゃーはーらーみったこー 得阿耨多羅三藐三菩提とくあーのーくーたらさんみゃくさんぼーだい 故知般若波羅蜜多こーちーはんにゃーはーらーみったー

 独特な響きが三方の壁に反響し、空間を仏心ぶっしんの和音が満たす。

「……………………」

 クリスの心は異世界の神、というか、観音様の教えに触れた。

 般若心経の響きに乗って、トティアスは別として、この世のあらゆる苦しみから解放された観音様の心が染みわたる。

『クリスや。世のあらゆるものに実体はない。故に、生まれることも滅びることも、汚れることもきれいになることも、増えることも減ることもないのだ』

「……………………」

 本当に観音様の言葉が聞こえているわけではない。意味のある音が響いているわけでもないのだが、クリスの心は曖昧にそれを感じた。そこに天才性の発揮はない。

 穂積の読経は益々、穏やかに、静かに、されど不思議と荘厳な響きで木霊する。

 壁で囲まれた船尾楼上甲板で、水平線に向かって般若心経を唱えるその表情は、菩薩のように凪いでいて、黒目は睫に薄く煙り、薄っすらと微笑んでいるようにも見える。

 先ほどまで皇帝にEDの呪いを送り付けようとしていた男とは思えない。

是大神呪ぜぇだいじんしゅ 是大明呪ぜぇだいみょうしゅ 是無上呪ぜぇむぅじょうしゅ 是無等等呪ぜぇむぅとうどうしゅ 能除一切苦のうじょいっさいくぅ 真実不虚しんじつふぅこぉ 故説般若波羅蜜多呪こぉせつはんにゃはぁらぁみったしゅ 即説呪曰そくせつしゅぅわつ 羯諦ぎゃぁてぇ 羯諦ぎゃぁてぇ 波羅羯諦はぁらぁぎゃぁてぇ 波羅僧羯諦はぁらぁそうぎゃぁてぇ

『老いも死もない。老いや死がなくなることもない。苦しみやその原因もないし、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす方法もない』

「……………………」

菩提薩婆訶ぼぉじぃそわかぁ 般若はんにゃぁ心経しぃんぎょう――…………」

『クリスや。心安らかであれ――…………』

「……………………」


(……はて? 俺は何をしようとしていたんだったか? ……どうでもいいか)

 穂積の般若心経が終わりを告げ、二人黙って海を眺める。

「ホズミさま……。さっきの……教えてください……」

 クリスは改装作業をほったらかして、お経を教えてくれと強請ねだってきた。

「いやぁ、悪いんだけど、俺も意味は知らないから教えられないんだ」
「それでも構いません……。教えてください……」
「え~。なんか恥ずかしいな。そんなに気に入ったの?」
「気に入った……というか……なんとなく……なんか……?」
「ん? どうしたクリス? よくわからん」

 クリスにしては珍しい。言葉が出てこない様子だが、クリスに本気でお願いされて、穂積に否やはない。

 その日の午後は海を見ながら、一緒に般若心経の暗唱を繰り返して終了した。


**********


「本当なんだ! 夜のワッチ中に、変な女の呻き声が!」
「居眠りでもしてたのか? くだらねぇ。夢見ゆめみが悪かったんだろ」

 翌朝、朝食の席でそんな会話が聞こえてくる。

「俺も聞いたぞ! なんか、ずっとブツブツ呟いてて、気味が悪かった! 不吉な前兆じゃないか!?」
「クジラが近くにいるのかもしれん。俺たちにとっては吉兆じゃないか? はははっ!」
「クジラの呪い歌だぁ~! みんな死んじまうんだぁ~!」

 夜間、どこからともなく謎の女の声が聞こえてくると言って、震える乗組員がいた。

(クリスのやつ……ずっと練習してたからな)

 よほど気に入ったのか、クリスは般若心経にご執心だった。居室でも寝る前に唱えていたが、夜中に起きて抜け出していたのだろうか。

「クリス? 寝られなかったのか?」
「いえ……。ちゃんと寝ましたよ……? 一度、外の空気を吸いに出ましたけど、居住区の出入り口までです……」
「そうか。今日も大掛かりな作業になる。魔力が辛いようなら早めに言えよ?」
「それは大丈夫です……。調子はいい……というか……変な感じです……」
「変な感じって? 『レギオン』が悪さしてるんじゃないだろうな?」
「そうじゃなくて……よくわかりませんが……。たぶん、今日中に終わります……」

 今までになく、魔力が充実しているという。ビクトリアも似たようなことを言っていた気がするが、具体的にどういうことなのだろうか。

「今の魔力保有量ってどんなもんなの? 魔力容量を鑑定した時と比べてさ?」
「えっと……。よく分かりません……。満ち足りている感じはしますが……、鑑定の時みたいに気持ち悪くはなってないので……」
「ふーん。まぁ、健康の秘訣は腹八分目って言うしな。満タンならいいってもんでもないか」
「はい……。そうですね……」


**********


 昨日の続き、浴場の屋根を造る作業に入る。昨夜から考えていたことを試すことにした。

「スケベオヤジに天からプライバシーを侵害されるわけにはいかない。なので、屋根が必要だ」
「はい……。ボクも、ホヅミさま以外には見られたくない……」
「しかし、スケベオヤジのせいで、日照権が侵害されることも腹立たしい。そこで……」
「そこで……?」
「透明な木材を作ろうと思う」
「透明な……木……!?」

 木材を構成する化学物質は、主に炭水化物とポリマーである。

 それらを分子レベルで仕分けて再構築することで、半透明にすることも可能ではないかと考えたのだ。

「ホヅミさま……! すごいです……! そんなの誰も考え付きません……!」
「あの水タンクは古代の遺物ということだが、おそらく精製魔法で人工的に造られた素材だ。色からして、俺の知る炭素繊維に近いものだと思う」
「なら……アレを参考にすれば……。わかりました……! 水タンクの分子構造は覚えてます……!」
「一度、材木を基礎的な分子化合物にバラして、種類別に分けられるか?」
「やってみます……!」

 クリスは材木を魔法で砂のように分解していく。更に、類似した分子構造を持つ粒を集めて、いくつかの砂山に分けた。

(砂粒が生き物みたいに動いてる……。精製魔法ヤバイな……。ハガ〇ンっぽい……)

 大きい砂山が一つに、中くらいの砂山が二つ。ごく小さな砂山がいくつか。

「主に三種類か」
「はい……似たもので仕分けました……。小さいのは色々混じってます……。不純物……?」
「ふむふむ。白い山が二つあるな?」

 大きい砂山と中くらいの山の片方は白色。残りの山は濃い茶色だ。

「白い二つは似てます……。大きい山の方が……分子がいっぱい手を繋いで長い……です……」
「高分子化合物か……。一番多いってことは、たぶんセルロース? 茶色いのが木の色の原因だな」

 もう一つの白い山の分子は、短く分岐した構造をしていて、セルロースよりも単純なカタチらしい。

「白い二つで試しますか……?」
「そうだな。とりあえず、大きい白山しろやまを『甲種』、中くらいの白山を『乙種』、茶山くろやまを『丙種』と呼称する。他は少なすぎるので廃棄でいい」
「わかりました……。タライに仕分けておきます……」
「ちなみに水タンクの分子はこの中にあったか?」
「いいえ……。どれも違うものです……。同じ元素は含んでますけど……」
「すべてを原子から組み立てるなんて、精製魔法でも不可能だろうな。手元にある分子化合物を操作して繋げていく方が効率的だ」
「はい……。すっごく時間が掛かります……」
「はははっ! 可愛いクリスがお婆ちゃんになっちゃうなぁ」
「可愛いクリス……えへ……。ホヅミさま……好き……」

 涎を垂らして抱きついてきたので、いつも通りに撫でてやる。胸を擦り付けてアピールしているが、ゼクシィの爆乳に比べれば可愛いものだ。

 クリスはやる気が漲ってくると涎も滴ってくる。生唾を啜り上げて飲み込む音が響き続けていた。

「よしよし。ホントにクリスは可愛いなぁ」
「ぐへっ……うへへへぇ~……たまんない……たまんないぃ~……ずごっぐん」

 いくら読経しようと、涎を仕舞えるようにならなければ悟りはひらけない。修行の道は長く険しいのだ。

 クリスよ。心安らかにあれ――。

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