魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~

古道 庵

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墜天の章

第四十九話 終生

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高野山での日々が四年を過ぎ、五年目に入っていた。

未だに陰湿な仕打ちを受けるものの、そんなものを気にするほど繊細でもなくなっていた。

しかし、碌な食べ物を食べられないのは、問題だった。
それに近頃止まらなくなった咳も気になる。

当然、医者になど掛からせてもらえない。

日々、己の中の何かが破けて漏れ出していくのを、横たわりながら感じていた。



皆が寝静まった夜半。
咳が酷く、寝付けなかった。

部屋を同じくする若僧から出ていけと怒鳴られたので、仕方なく外に出て月を眺めていた。
不意に、喉ではない場所から突き上げてくるような感覚があり、大きく咳を吐いた。

押さえた手には、べったりとした黒い液体が付着しており、思わず足の力が抜けて座り込む。

「……この生も、終わりに近いか」

口に広がる鉄の味を飲み込み、掌を草で拭う。



『何も為せない、つまらぬ生だったな』

重苦しい声が、不意に頭に響いた。
見上げれば、黒い影が月を背負って立っている。

「……なんで今更、出てくるんだ」
『お前がそれを、望んだからだ』
「望む……つまりは、お前は俺を地獄に連れていくために、現れたのか」
『知らぬ』

俺の返しに、興味が無さそうに背を向けて空を見上げるような動作をする。

「まあ、死の間際に幻を見る、というのもよくある話だ。俺は、ここで終わるのだな」
『知らぬと言っている。それよりも、良い月だな。舞のひとつでも、舞いたくなる。そんな月夜だ』
「勝手なことを……」

そこでまた酷い咳が起こり、咽る。

「俺を連れていくか分らぬなら、何故出てきた」
『であるから、我は知らぬ。その答えは、いつでも己の中にあったろう』
「だから、俺の死を予期して……」

と、そこで、風が変わったのを感じた。
初夏であるというのに冷ややかで、どこまでも無慈悲な高野山の夜風が、不意に熱っぽく感じられたのだ。

『我が現れる時は、どんな時だ? 今が、再び訪れるその時なのだろう』

信長の亡霊は高らかに嗤う。

『さあ、つむじ風が来たぞ。どうするかは、お前が決めろ』

月光に溶けるように、亡霊の影は薄れて消えていく。


山道から馬蹄の音が鳴り響いてきた。
幾つもの馬の群れ。それらが、一直線に駆け上がってくる。

そして一騎が突っ込んできた。
手には松明が握られている。

「危ねえな! 起きてる奴が居たか!」

慌てる声に、聞き覚えがあった。

亡霊に代わり月を背負う男。
炎に照らされ、その顔がはっきりと見えた。

「……忠政」
「はっ、なんでお前が出てきてんだよ。まあ丁度いいか……遊びに来てやったぞ、三法師」

俺を幼名で呼ぶ唯一の男。

森忠政が、目の前に現れたのだった。





織田秀信の足跡は、高野山麓にて途絶える。

慶長十年、五月二十七日。享年二十六歳という若さで、人生の幕を閉じたようだ。

高野山側の記録によれば、下山した五月八日を没日としているらしい。

何故、高野山を下りて山麓に移り住んだのか。そして下りてからひと月足らずの内に亡くなったのか。
その死因は分からない。

子が居たという説もあるものの、その後信長の嫡流を名乗る者が現れた記録はなく、信長嫡流の織田家は秀信を最後に途絶えているという事だけは、確かである。


三法師、織田秀信の物語はこれにて終幕となる。

魔王・信長の血を色濃く受けた若武者は、岐阜城の戦いでの無様な負け戦を最後に、織田家の崩壊と共に消え去っていった。

関ヶ原の後、大阪城での戦を経て、世は徳川へ、江戸幕府の時代へと進んでいく。

戦国の世の終わりに豊臣諸共織田が滅んだのは、歴史の必然だったのかもしれない。













「僧侶様、本当に腕が立つのですね。助かりました」
「いえ……」

荒涼とした、そこまでも広がる草原の平野。
そこで小規模の隊商が足を止めていた。

「たった一人で五人も倒してしまうなんて。出発の時のご無礼についてはお許しを」
「いえ、言葉が拙いもので」

隊商の頭領らしき男が頭を下げると、僧侶と呼ばれる男が頭を上げるように促す。

「それにしても、随分と変わった格好をされておりますね。明の僧のような、宣教師のような……いや、それらとも違うような」
「これは、全ての人と関われるように、と。この世はどこまでも広いと、思っておりましてね」
「ほう……どのような教えを信じているのですか?」
「あまねく全てを。人が信じる、全てを信じております」
「……しがない商人の私には、どうにも理解できない話ですな」

話にならないと思ったのか、商人の男は頭を掻いて離れていく。

「あの、このまま進めばエウロパまで行けるのですか?」
「ええ。望むのであればその先にも」
「そうですか……よろしく、お願いします」
「こちらこそ、また盗賊共が現れた時には頼りにしてますよ」

そう返す商人の男に僧侶は一礼し、空を見上げる。



「秀吉、お前が見れなかった景色を、俺は見るぞ」

派手な色の着物を幾重にも重ねた珍妙な恰好をした坊主頭は、どこまでも続く空と草原を見つめ、一人、満足そうに笑っていた。





『魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~』  ー  完  -
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