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墜天の章
第四十八話 高野山
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予想の通り、高野山真言宗からの入山は拒絶された。
信長の紀州攻めの記憶は、未だこの地域には根深く残っているようだ。
ひと月ほど待たされてようやく入山が許可されたものの、善福寺という小さな寺に宛がわれ、それからはただ心が削られる日々となった。
最初の数日は、己ひとりでは何もできない事を身に染みて感じた。
着物を正しく着る事にさえ、難儀した。
これまで誰かにやってもらっていた全てのことを、自分でやらなければならないのだ。
何もできない自分が、ただ歯痒くて仕方がなかった。
十日を過ぎた頃から、住職や他の僧から嫌がらせをされるようになった。
最初は小さな事だったのだが、次第に大きくなっていき、俺が声を上げても誰もが無視した。
そこからひと月が過ぎた頃には、日常的に殴られたり蹴られたりすることが増えた。
まだ幼い小坊主たちですら、面白がって加わった。
三月を過ぎる頃、命の危機を感じた。真冬の寒さの中冷水を浴びせられたり、布団を隠されたりしたのだ。
碌な食べ物も与えられなくなり、体が衰弱する一方だった。
それでも、ひたすら僧としての修業は続けた。
そうする事でしか、己を保てなかったのだ。他に何も考えられない、考えたくもなかった。
一年を過ぎた頃には、随分と静かになっていた。
しかし、新しい僧が増えるたびに、古い者が新しい者にけしかけてくるので、仕打ちが途絶える事はなかった。
だが、もう何も感じない。
心が毀れぬように、遠巻きに己を見ているような感覚になっていた。
これまで、己がどれ程恵まれ、贅沢な生活をしていたのか。今になって理解できた。
生まれながらに恵まれていたのだ。
それも、遠い過去に思える。
皆は、どうしているだろうか。
時々、そんな事を考えるようになっていた。
秀則、綱家、長政、正守、元忠、徳玄、左近、太兵衛……生き残った者達は、無事に過ごしているだろうか。
――願わくば、皆の心が平穏である事を。
仏を前に祈るのは、あの頃を共に過ごした者達の無事だけだった。
◆
ある日、俄かに騒がしい気配が漂ってきた。
延々と変わらぬ日々を繰り返す山だ。たとえ些細なことでも、大事として感じられてしまう。
入山者があった気配ではない。
これは、大勢の俗世の者の気配だった。
それらは二日ほど高野山を掻き回しはしたものの、つむじ風のように慌ただしく去ってしまった。
後から聞いた話では、どこぞの大名が見分に来たらしい。
だが、その目的までは耳に入る事は無かった。
俺にとっては、酷くどうでもいい事だ。
◆
「そこのお坊様、宜しいですか」
一人で落ち葉を掃いている時、俺に声を掛ける者が居た。
見れば老いた女であり、服装を見るに旅の尼のようだ。
「尼僧にて旅の途にございます。御施飯を頂戴つかまつりたく……」
「これは、御仏のお導きにございましょう。どうぞ庫裏にお越しくださいませ」
尼は深く一礼し、俺は庫裏へと案内する。
何故か、この初老の尼の事が気になった。
案内を終えて、軒先で托鉢を乞う姿にも、何故か見とれてしまった。
目が離せない。
尼の所作の一つ一つを見逃したくないと、頭が言っているようだ。
しかしそんな邪念を振り払うようにして、山門へと戻った。
他に二人の若僧と掃き掃除をするようにと指示されていたのだが、俺に押し付けてどこかに行ってしまった。
もう、飽きる程に繰り返されている事なので、気にはしていないが。
そうして掃き清めている内に、尼が戻ってきた。
「お坊様、助かりました。これも御仏のお導きでございましょうか」
「同じ仏門を歩む者同士、助け合うは当然の事でございます。このまま、また旅を続けられるのですか?」
「はい。四国を回ろうと」
「それは過酷な旅路を。どうか、御身の無事を祈らせてください」
「ありがとうございます。……あの、お坊様」
「なんでございましょうか」
「――……いえ、私の勘違いのようです。それでは」
尼は何かを言いかけたが、口を噤み、そして俺に背を向けて山道を下っていく。
「……雨か」
その背を見送っていると、不意に、頬に何か流れたのを感じた。
頬に雨が当たったのだろうと見上げるが、空は清々しいほどの秋晴れ。
幾つかの薄雲が流れていくのみ。
「何故」
己が泣いているのだと気が付いたのは、小さくなる尼の姿が歪んだからだ。
瞳に、止め処なく熱い雫が溢れてくる。
「何で、泣いているのだ。俺は」
袖で拭っても、拭っても、涙が止まらない。
こんな感覚は初めてだった。
……いや、初めてでは、ない。
胸に去来するのは、己の出発地。
母の腕の中。
『さん』
『ぽう』
『し』
母の、俺の名を呼ぶ声が脳裏に蘇る。
あれから、随分と経った。
忘れていた声色。母の口の形。それが鮮明に思い出せる。
もしかしたら……
涙を拭い、山道を見下ろす。
尼の姿は既に無く、秋風が無情に枯れ葉を攫っていく様が、ただただ続いていた。
信長の紀州攻めの記憶は、未だこの地域には根深く残っているようだ。
ひと月ほど待たされてようやく入山が許可されたものの、善福寺という小さな寺に宛がわれ、それからはただ心が削られる日々となった。
最初の数日は、己ひとりでは何もできない事を身に染みて感じた。
着物を正しく着る事にさえ、難儀した。
これまで誰かにやってもらっていた全てのことを、自分でやらなければならないのだ。
何もできない自分が、ただ歯痒くて仕方がなかった。
十日を過ぎた頃から、住職や他の僧から嫌がらせをされるようになった。
最初は小さな事だったのだが、次第に大きくなっていき、俺が声を上げても誰もが無視した。
そこからひと月が過ぎた頃には、日常的に殴られたり蹴られたりすることが増えた。
まだ幼い小坊主たちですら、面白がって加わった。
三月を過ぎる頃、命の危機を感じた。真冬の寒さの中冷水を浴びせられたり、布団を隠されたりしたのだ。
碌な食べ物も与えられなくなり、体が衰弱する一方だった。
それでも、ひたすら僧としての修業は続けた。
そうする事でしか、己を保てなかったのだ。他に何も考えられない、考えたくもなかった。
一年を過ぎた頃には、随分と静かになっていた。
しかし、新しい僧が増えるたびに、古い者が新しい者にけしかけてくるので、仕打ちが途絶える事はなかった。
だが、もう何も感じない。
心が毀れぬように、遠巻きに己を見ているような感覚になっていた。
これまで、己がどれ程恵まれ、贅沢な生活をしていたのか。今になって理解できた。
生まれながらに恵まれていたのだ。
それも、遠い過去に思える。
皆は、どうしているだろうか。
時々、そんな事を考えるようになっていた。
秀則、綱家、長政、正守、元忠、徳玄、左近、太兵衛……生き残った者達は、無事に過ごしているだろうか。
――願わくば、皆の心が平穏である事を。
仏を前に祈るのは、あの頃を共に過ごした者達の無事だけだった。
◆
ある日、俄かに騒がしい気配が漂ってきた。
延々と変わらぬ日々を繰り返す山だ。たとえ些細なことでも、大事として感じられてしまう。
入山者があった気配ではない。
これは、大勢の俗世の者の気配だった。
それらは二日ほど高野山を掻き回しはしたものの、つむじ風のように慌ただしく去ってしまった。
後から聞いた話では、どこぞの大名が見分に来たらしい。
だが、その目的までは耳に入る事は無かった。
俺にとっては、酷くどうでもいい事だ。
◆
「そこのお坊様、宜しいですか」
一人で落ち葉を掃いている時、俺に声を掛ける者が居た。
見れば老いた女であり、服装を見るに旅の尼のようだ。
「尼僧にて旅の途にございます。御施飯を頂戴つかまつりたく……」
「これは、御仏のお導きにございましょう。どうぞ庫裏にお越しくださいませ」
尼は深く一礼し、俺は庫裏へと案内する。
何故か、この初老の尼の事が気になった。
案内を終えて、軒先で托鉢を乞う姿にも、何故か見とれてしまった。
目が離せない。
尼の所作の一つ一つを見逃したくないと、頭が言っているようだ。
しかしそんな邪念を振り払うようにして、山門へと戻った。
他に二人の若僧と掃き掃除をするようにと指示されていたのだが、俺に押し付けてどこかに行ってしまった。
もう、飽きる程に繰り返されている事なので、気にはしていないが。
そうして掃き清めている内に、尼が戻ってきた。
「お坊様、助かりました。これも御仏のお導きでございましょうか」
「同じ仏門を歩む者同士、助け合うは当然の事でございます。このまま、また旅を続けられるのですか?」
「はい。四国を回ろうと」
「それは過酷な旅路を。どうか、御身の無事を祈らせてください」
「ありがとうございます。……あの、お坊様」
「なんでございましょうか」
「――……いえ、私の勘違いのようです。それでは」
尼は何かを言いかけたが、口を噤み、そして俺に背を向けて山道を下っていく。
「……雨か」
その背を見送っていると、不意に、頬に何か流れたのを感じた。
頬に雨が当たったのだろうと見上げるが、空は清々しいほどの秋晴れ。
幾つかの薄雲が流れていくのみ。
「何故」
己が泣いているのだと気が付いたのは、小さくなる尼の姿が歪んだからだ。
瞳に、止め処なく熱い雫が溢れてくる。
「何で、泣いているのだ。俺は」
袖で拭っても、拭っても、涙が止まらない。
こんな感覚は初めてだった。
……いや、初めてでは、ない。
胸に去来するのは、己の出発地。
母の腕の中。
『さん』
『ぽう』
『し』
母の、俺の名を呼ぶ声が脳裏に蘇る。
あれから、随分と経った。
忘れていた声色。母の口の形。それが鮮明に思い出せる。
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