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雛鳥の章
第七話 元服
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三法師にとって聚楽第での生活は、あの日を境に再び色褪せ、つまらぬ毎日となった。
景色が白黒に近い程に暗くなり、畳に伏せている時間も増えた。
秀吉と会うことはあったが、何事も無かったかのように接してくるあの男がただ憎かった。
しかし、だからといって己にできる事など何もない。澄ました人形のようにして、ただやり過ごす事に徹していた。
この聚楽第に来て、既に一年を過ぎようとしていた。
母と引き裂かれてから、人生で最も長い時を、この城で過ごしている。
「のう、三法師。うぬは、いくつになる」
「はい。もうすぐ九つになります」
秀吉に呼び出され、いつものように自慢語りを聞いていた時の事だ。珍しく、僕の事を聞いてきた。
「そうか。そろそろ、元服するべきじゃろうかのう。織田の家督を継いで六年。いつまでも幼名でおるのも恰好が悪かろう」
「はい」
正直に言うと、興味の無い話だった。僕は、自分の三法師という名前が気に入っていたのだ。
母上が呼ぶ僕の名を。
けれど、そんな事を言えばまた、あの目で見られる。
仮面の奥から狂気が覗くような――ぞっとするような目で。
だから僕は、小さく頷くしかなかった。
「うむ。名は……そうじゃのう。『信』の字は、当然継がねばなるまい。信長公の血を引くうぬならば、避けてはならぬ」
そう言って、秀吉は機嫌良さそうに笑った。
畳の向こうで小鳥が一声、啼くのが聞こえる。
最近秀吉が飼い始めた、外国の鳥らしい。菊の花びらのような、鮮やかな黄の羽をもつ鳥だ。
「信……」
声に出してみた。何故か僕の中で、父の姿ではなく、祖父の姿がよぎった。
燃える屋敷の奥に立つ、あの影。
焼け落ちる天井、嵐のように巻く炎の中で、漆黒の影の目が輝き不敵に嗤う。
「もう一字は、儂が考えて与える。信の字……大事にいたせよ」
そう言って、秀吉は立ち上がった。会話はそれで終わりだった。
それ以外のこと――なぜ、今なのか。なぜ、急に思い立ったのか。
何も、語られなかった。
◆
元服の日取りは、すぐに決まった。
豊臣の家臣達が揃い、装束が整えられ、祝宴の準備が粛々と進められていく。
なのに僕の胸の中には、何一つ湧き上がるものはなかった。
ただ、流されるままに身を置いているだけだ。
名前が変わっても、僕は僕。
名を変えたところで、何が変わるというのだろうか。
「織田三郎……『秀信』様」
仰々しい儀式が執り行われ、長々とした口上の後、最後に告げられた名。
織田三郎秀信――
それが僕の新しい名前だった。
どこか、遠くの人の名前のような気がした。
三法師と呼ばれている自分とは、まるで別の誰かのようで。
でも、きっと、それで良いのだ。
誰かの「人形」として都合よく動くならば、名など……
『本当にそう思うか? 童』
あの声が頭の中に響いた。
うるさい。
◆
滞りなく元服の儀を終え、邪魔な装束を脱いでいつもの着物姿に戻った時、秀吉に呼ばれていると告げられた。
先ほど会っていたばかりなのに何故か、と疑念が渦巻いたが、すぐに向かうことにした。
「織田三郎秀信、大儀であったぞ」
いつもの広間に通され、そこには大層上機嫌な様子の秀吉の姿があった。
「はっ」
短く返事をして頭を下げる。
「これで名実共に織田家の当主。家名に恥じぬ働きをせよ」
扇子を広げながら高笑いをする秀吉に、先ほどと変わらぬ返しを続ける。
心底どうでもいい。さっさとここから去りたい。
それしか頭になかった。
「――して、どう思った? うぬの名は」
「と、申されますと?」
「織田家の象徴たる『信』の文字、それに儂の名から『秀』の文字を付けてやったのじゃぞ」
「誠、恐悦至極にございまする」
わざわざそんな事を告げるために呼んだのか?
「ふむ、つまらぬ童よの。まあよい。ここに呼んだのは、元服祝いにうぬに贈りたいものがあってな。きっと喜ぶぞ?」
パチン、と音を立てて扇子を閉じ、後ろに控える者に何やら指図をする秀吉。
僕が喜ぶ?
ふざけるな。お前如きがこの僕を喜ばせる品など考えつく筈もあるまい。
強いて言うなら、お前の首でも差し出してみろ。
内心、そんな事を思いながらも適当な感謝の言葉を並べて秀吉を持ち上げる。
ここ最近は、わざとこういう事をしていた。
癇に障ると、時折不快そうに鼻を鳴らすのだ。それを見ると、してやったりという気分になる。
背後の襖が開く音がして、二人分の足音が近づいてきた。
そして、僕の隣に二人が並ぶ。
見れば不恰好に頭を下げる男児と、その母らしき年齢の女だった。
二人は秀吉に挨拶の向上を述べると、秀吉はよう参ったと労いをかけている。
「さて、秀信。これをうぬの家来にやろう」
「私の…?」
秀吉の言っている意味が分からない。
形だけとは言え、織田に臣従している家臣などごまんと居る。元はお前もそうではないか、と言いたくなった。
「おう、童。己の名を名乗れ」
「はい、関白殿下。……お初お目にかかります、兄上。私は織田吉丸。兄上の異母弟にあたりまする」
「は……?」
僕に、弟?
そんな話、今まで誰からも聞いた事などないぞ。
目の前で恭しく頭を下げる幼子に、ただ戸惑うしかなかった。
「言っておくが、正真正銘の弟じゃぞ。そこの者は信忠殿の側室。吉丸にはうぬと同じ、信忠殿の、そして信長公の血が流れておる。――どうじゃ? ん? 今の心持ちを申してみい、秀信」
秀吉の煽るような言葉に思考が縛られる。
秀信?
……ああ、僕の事か。とにかく、落ち着け。
「……突然のこと、すぐに受け入れるには難しゅうございます。しかし、引き合わせていただけたこと、感謝申し上げます」
僕の言葉を聞いた秀吉はさも面白そうに笑い声を上げ、広間は秀吉の声だけが響く空間となった。
ひとしきり笑いえ終えると、ひとつ手を叩く。
「生き別れの兄弟の再会じゃ! いやあ目出度いのう。これからは兄弟二人、仲良く織田の御家を盛り立てい!」
「はいっ」
「……はっ」
隣の幼子に続いて応え、二人で頭を下げる。
いきなり弟だと言われても、実感など全く感じられなかった。
それに加えて「秀信」という名。自分を指しているとは思えず、ところどころ上の空となってしまった。
僕の名前は「三法師」だ。秀信じゃない。
僕は独りだ。弟など、知らない。
満足そうな笑みを浮かべる秀吉。僕に対し、何か期待するような眼差しを向ける幼い少年。
どちらも受け入れがたい。
気色の悪さで胸を搔きむしりたい気分になった。
景色が白黒に近い程に暗くなり、畳に伏せている時間も増えた。
秀吉と会うことはあったが、何事も無かったかのように接してくるあの男がただ憎かった。
しかし、だからといって己にできる事など何もない。澄ました人形のようにして、ただやり過ごす事に徹していた。
この聚楽第に来て、既に一年を過ぎようとしていた。
母と引き裂かれてから、人生で最も長い時を、この城で過ごしている。
「のう、三法師。うぬは、いくつになる」
「はい。もうすぐ九つになります」
秀吉に呼び出され、いつものように自慢語りを聞いていた時の事だ。珍しく、僕の事を聞いてきた。
「そうか。そろそろ、元服するべきじゃろうかのう。織田の家督を継いで六年。いつまでも幼名でおるのも恰好が悪かろう」
「はい」
正直に言うと、興味の無い話だった。僕は、自分の三法師という名前が気に入っていたのだ。
母上が呼ぶ僕の名を。
けれど、そんな事を言えばまた、あの目で見られる。
仮面の奥から狂気が覗くような――ぞっとするような目で。
だから僕は、小さく頷くしかなかった。
「うむ。名は……そうじゃのう。『信』の字は、当然継がねばなるまい。信長公の血を引くうぬならば、避けてはならぬ」
そう言って、秀吉は機嫌良さそうに笑った。
畳の向こうで小鳥が一声、啼くのが聞こえる。
最近秀吉が飼い始めた、外国の鳥らしい。菊の花びらのような、鮮やかな黄の羽をもつ鳥だ。
「信……」
声に出してみた。何故か僕の中で、父の姿ではなく、祖父の姿がよぎった。
燃える屋敷の奥に立つ、あの影。
焼け落ちる天井、嵐のように巻く炎の中で、漆黒の影の目が輝き不敵に嗤う。
「もう一字は、儂が考えて与える。信の字……大事にいたせよ」
そう言って、秀吉は立ち上がった。会話はそれで終わりだった。
それ以外のこと――なぜ、今なのか。なぜ、急に思い立ったのか。
何も、語られなかった。
◆
元服の日取りは、すぐに決まった。
豊臣の家臣達が揃い、装束が整えられ、祝宴の準備が粛々と進められていく。
なのに僕の胸の中には、何一つ湧き上がるものはなかった。
ただ、流されるままに身を置いているだけだ。
名前が変わっても、僕は僕。
名を変えたところで、何が変わるというのだろうか。
「織田三郎……『秀信』様」
仰々しい儀式が執り行われ、長々とした口上の後、最後に告げられた名。
織田三郎秀信――
それが僕の新しい名前だった。
どこか、遠くの人の名前のような気がした。
三法師と呼ばれている自分とは、まるで別の誰かのようで。
でも、きっと、それで良いのだ。
誰かの「人形」として都合よく動くならば、名など……
『本当にそう思うか? 童』
あの声が頭の中に響いた。
うるさい。
◆
滞りなく元服の儀を終え、邪魔な装束を脱いでいつもの着物姿に戻った時、秀吉に呼ばれていると告げられた。
先ほど会っていたばかりなのに何故か、と疑念が渦巻いたが、すぐに向かうことにした。
「織田三郎秀信、大儀であったぞ」
いつもの広間に通され、そこには大層上機嫌な様子の秀吉の姿があった。
「はっ」
短く返事をして頭を下げる。
「これで名実共に織田家の当主。家名に恥じぬ働きをせよ」
扇子を広げながら高笑いをする秀吉に、先ほどと変わらぬ返しを続ける。
心底どうでもいい。さっさとここから去りたい。
それしか頭になかった。
「――して、どう思った? うぬの名は」
「と、申されますと?」
「織田家の象徴たる『信』の文字、それに儂の名から『秀』の文字を付けてやったのじゃぞ」
「誠、恐悦至極にございまする」
わざわざそんな事を告げるために呼んだのか?
「ふむ、つまらぬ童よの。まあよい。ここに呼んだのは、元服祝いにうぬに贈りたいものがあってな。きっと喜ぶぞ?」
パチン、と音を立てて扇子を閉じ、後ろに控える者に何やら指図をする秀吉。
僕が喜ぶ?
ふざけるな。お前如きがこの僕を喜ばせる品など考えつく筈もあるまい。
強いて言うなら、お前の首でも差し出してみろ。
内心、そんな事を思いながらも適当な感謝の言葉を並べて秀吉を持ち上げる。
ここ最近は、わざとこういう事をしていた。
癇に障ると、時折不快そうに鼻を鳴らすのだ。それを見ると、してやったりという気分になる。
背後の襖が開く音がして、二人分の足音が近づいてきた。
そして、僕の隣に二人が並ぶ。
見れば不恰好に頭を下げる男児と、その母らしき年齢の女だった。
二人は秀吉に挨拶の向上を述べると、秀吉はよう参ったと労いをかけている。
「さて、秀信。これをうぬの家来にやろう」
「私の…?」
秀吉の言っている意味が分からない。
形だけとは言え、織田に臣従している家臣などごまんと居る。元はお前もそうではないか、と言いたくなった。
「おう、童。己の名を名乗れ」
「はい、関白殿下。……お初お目にかかります、兄上。私は織田吉丸。兄上の異母弟にあたりまする」
「は……?」
僕に、弟?
そんな話、今まで誰からも聞いた事などないぞ。
目の前で恭しく頭を下げる幼子に、ただ戸惑うしかなかった。
「言っておくが、正真正銘の弟じゃぞ。そこの者は信忠殿の側室。吉丸にはうぬと同じ、信忠殿の、そして信長公の血が流れておる。――どうじゃ? ん? 今の心持ちを申してみい、秀信」
秀吉の煽るような言葉に思考が縛られる。
秀信?
……ああ、僕の事か。とにかく、落ち着け。
「……突然のこと、すぐに受け入れるには難しゅうございます。しかし、引き合わせていただけたこと、感謝申し上げます」
僕の言葉を聞いた秀吉はさも面白そうに笑い声を上げ、広間は秀吉の声だけが響く空間となった。
ひとしきり笑いえ終えると、ひとつ手を叩く。
「生き別れの兄弟の再会じゃ! いやあ目出度いのう。これからは兄弟二人、仲良く織田の御家を盛り立てい!」
「はいっ」
「……はっ」
隣の幼子に続いて応え、二人で頭を下げる。
いきなり弟だと言われても、実感など全く感じられなかった。
それに加えて「秀信」という名。自分を指しているとは思えず、ところどころ上の空となってしまった。
僕の名前は「三法師」だ。秀信じゃない。
僕は独りだ。弟など、知らない。
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