魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~

古道 庵

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墜天の章

第三十二話 決断

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湿り気を含んだ風が障子の隙間から吹き込み、燭台の灯心は朱く燃え、狭い寝室の空気をわずかに焦がしている。火の匂い、畳の香、衣に染みた汗のにおいが入り混じり、重たく胸にまとわりつく。

耳に届くのは、夜鳴く虫の声と、遠くでときおり響く川の音。長良川のせせらぎが、高台の城にも静かに届く。雨は上がったばかりらしく、木々の葉が風に撫でられて、濡れた音を立てていた。

秀信は寝床には入らず、燭台を背に、座していた。

揺れる灯が己の影を畳に落とし、影と睨み合っているような様だった。


『何を悩む必要がある、三法師』

己の影が揺らぎ、ぐっと伸びる。
朱と紅の色に染まる部屋の中で、影が飛び出たように輪郭を帯び始め、そして俺のとは似つかない男が映し出された。

『徳川につけばよい。お前の肚はそう決まっているのだろう?』

信長の亡霊は音を立てず滑るように歩き出し、俺の視界から消える。

『家臣どもも、忠や義の話を抜けば家康につくのが妥当であると進言していただろう。石田の坊主へつくと言っていた者達は、ほぼ忠義と臣下の礼の話だ。石田方なら勝てると言った者は、ほぼ居ない』

そんな事は、分かっている。
そもそも、綱家と長政が徳川方を支持した時点で、家臣内の意思は決定していると言っていい。
しかし……

『儂を、拾を裏切るか、秀信』

背後から、ぬっ、と影が俺を抱えるようにして現れた。
そして俺の頭を撫でながら顔を寄せる。

『儂がどれ程うぬに目を掛けてきたか、我が倅よ。儂の死に際の願いを反故とするのか? 秀信』

現れたもう一つの影は、秀吉の声を放っていた。
懐かしく、吐き気を催すほどに醜悪で、それでいて何故か拠り所にしたくなる、この世で最も嫌う声。

『拾はうぬに大層懐いておるな。家康をこのまま勝たせて、大人しく豊臣の臣で満足すると思うか? あの老いぼれが、僅か六つの秀頼を殿として扱うか? 否だ。家康は儂と同じ。いずれ己の天下とする為の足掛かりとするのみだろう』

秀吉は俺の背から離れ、ずっしりとした重みが消える。

『豊臣の為に生きよ。うぬの生は、儂あってのもの。ならば豊臣の為に命を懸けよ。誰が織田を守ってやったと思うのだ』

二つの影は、俺の目の前に回り込み、並び立つ。

『徳川につけばお前の願いは成就されよう。誰がお前を導いてきた? お前のその短い生の中で最も重い問題に対した時、誰がお前を助けてやったと思う? 我の言に従う限り、お前のくだらぬ望みを叶え続けてやろう』

『三成につけ。そして秀頼を助けよ。それでこそうぬを育て、生かしてきた意義があるというもの。この儂の命に背くつもりか? うぬの命と今の地位、誰が与えてやったのだ』

二体の亡霊がそれぞれに、好き勝手に宣う。

『これまで通り、我の言う通りにせよ。それでお前は美濃でぬくぬくと生きていけるだけの策と知恵をくれてやる』

『儂からの恩を違えるなよ? 豊臣こそが天下。うぬが秀頼を担ぎ、そして真の天下を征服する一槍となるのだ』

『我に』
『儂を』

「……黙れ」

はた、と亡霊の声が止んだ。

信長の亡霊に顔を向けて、口を開く。

「お祖父様……いや、信長。確かに、俺はこれまでずっとあなたに導かれてきた。俺が迷う時、進む時に臆した時、必ず現れ導いてくれた」

次は秀吉の亡霊をへと向き直る。

「秀吉、あなたには育ててもらった恩がある。恨み、憎んだが、それでもあなたの器の大きさに憧れた。故に、海向こうを取る話には心を動かされた」

一度瞑目し、息を吐く。
そして、再び二つの亡霊を睨んだ。

「……だが、それではいけないと、気づいた。そして、俺の見るあなた達は……」

「――幻だ」

その一言で、二つの影は揺らぐ。


「もう、いいんだ。俺は、もう決めたから」

訥々と、語り聞かせるように言葉を紡ぐ。

「もう俺は二人の影は追わない。俺は、会ったこともない信長という”魔王”に、そして目の前で見てきた秀吉という”覇王”に、ただ憧れ、縋っていた」

影は、靄のようなものを纏い始める。

「ここから先は、”信長の孫”でも”秀吉の駒”でもない。俺は、俺として生きる。だからもう……消えろ」

『良いのだな、三法師』
「ああ」
『そうか』

そう告げると二つの影は重なり、小さく縮む。

現れたのは、童の影。

幼き日の己。


「忘れはしない、俺をここまで支えてくれたこと。忘れはしない、先を恐れて進めなかった俺を導いてくれたこと」

影は、頷く。

「俺は決めたよ。だから……見ていてくれ」

再度、影は大きく頷くと、天井を仰ぎながら薄れていき――そして、消えた。

同時に燭台の灯が消え、月明りが部屋に差す。

立ち上がり、縁側に出て空を見る。
月が異様に蒼い夜なのだと、初めて気づいた。





「私は川瀬かわせ佐馬助さまのすけと申します。主君である石田三成より、書状のお返事を聞きに参りました」

現れた川瀬と名乗る男は、三成の家臣らしく、生真面目そうな雰囲気を漂わせている。

「書状について、昨晩家臣たちと話し合った。一つ、確認したい事がある」

昨晩集まった家臣団共々、三成の使者を迎えた。
全員が俺に注目し、俺の次の言葉を見守っている。

「何でしょうか」
「この……戦に勝てた暁に、美濃と尾張を我らにいただけるというのは真か」
「間違いなく」
「相分かった。戦働きに応じては、それ以上の加領もあり得るか?」
「殿に聞かねば分かりませぬが……しかし、私の口添えを約束しましょう」
「分かった」
「して、御答えは如何様に」

再びの問いに、二つ三つ、呼吸する時間を置く。

去来するのは、これまでの日々。
慌ただしくも穏やかな、岐阜城で過ごす日常だった。
今日を以て、これを手放さなければならない。その、覚悟の時間だった。

「我ら織田家は……石田殿にお味方致します」
「それは重畳な御答え、誠にありがたきことと存じます」
「殿!」
川瀬が頭を下げる中、咎めるように俺を呼ぶ長政。

「殿、今一度ご再考いただけませぬか」
冷静な声で提案するのは綱家だ。

しかし、そんな二人に向かって俺は首を横に振る。

「これは、俺が考え抜いた末の決断だ。川瀬殿、この後はどのようにするつもりだ?」
「はっ。まずは我が殿の元に赴いていただければと。そこで詳細につきまして詰めましょう」
「そうか、ではすぐに支度しよう。正守」
「……はい」

呆気に取られる家臣達を置いて、俺は立ち上がる。

「すまぬ。戻ったら話す」

去り際、秀則に耳打ちし、騒然とする広間を後にした。
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