愛は優しく、果てしなく

端本 やこ

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夫、成悟の愛しき憂い

1-3

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 くっそ! 基礎練習きっちぃー。
 目に染みる汗を親指の付け根を使って乱雑に拭う。体力低下はあるまじきと、この歳になって父親にしごかれている。

「成悟、お前その腹。だらしねぇ」
「うっせぇわ」

 師匠相手に憎まれ口を叩くべきではないのだが、水分補給の休憩中はただの親父おやじとみなす。
 それにしても昔はなかった贅肉の類が腰回りに乗ってきたのは否めない。この肉を撫でた百華が「せー君ふっくらしても素敵だね」と不思議なことを言ってくれた。
 嫌じゃないらしい。
 「熊さんみたいになっても大好き」だなんて言われて、身体を絞る気にはならず放置した結果だ。

「あの百ちゃんが、いまだお前なんぞと一緒に居るとはな」

 何万回と聞かされてきたその台詞は、今や「こんにちは」と同じ様なものだ。

「幸せ太りするに決まってんだろ」

 実際はただの運動不足だけどな。

「フン。新婚でもあるまいし。もっと頻繁に来い。愛想つかされるぞ」

 はい、ダウト。
 百華に会いたいだけな。
 近くで聞いている門下生も目をキラキラして俺の返事を待っている。
 道場は週末も開いていて、俺が行くと言えば必ず百華もついて来る。今現在、歯科健診中の百華も、運動不足解消と護身術代わりに手習いをすることもある。運動も得意な百華が細長い手足を動かす姿は見栄えがいい。

「しばらく来ないかも」

 百華が転勤になったと報告をする。慣れない環境で仕事をする百華には週末ぐらいゆっくりさせてやりたい。
 そうかと頷く親父は心得ている。

「えー! 百華さん来ないのーっ」
「百華は見世物でも、ましてお前らのマネージャーでもねぇっつーの」

 ワーワー騒ぎ出すのは学生たちだ。親父は近くの高校の空手部のコーチも務めており、土曜は学校の道場は他の部とバッティングするのだとかでここを使うことも多い。

「ともあれ少し心配だな」
「目が届く範囲に居てくれるだけマシになる」

 親父がもう一度頷いた。
 会社で俺が既婚者であるのは公然だが、妻が百華であると知っているのは同期の中澤朋己なかざわともきだけだ。

「次、組手」
「もうガキの相手は勘弁して。俺そんな元気ねぇ」

 あいつら、俺が相手だと本気で掛かってくるからなー。
 俺を倒せば百華に褒められるとでも思っているのだろう。

「ちょっと見てくるわ」

 体力の心配だけではない。実の兄が診療中だと分かっていても落ち着かない。兄と言えども、男と個室に二人きりにさせたくない。特に独身でそれなりに遊んでいる類の男とは。

匠真たくまの仕事だ。任せて置け」

 始めるぞと野太い声を出す父親を恨めしく睨むしかない。一言号令を発すれば、親父から師範に変わるのだから本能で従ってしまうのだ。これはもう条件反射で、育った環境がそうさせる。
 俺、普段は内勤の事務職よ? 親父や兄貴と一緒にして欲しくないんだけど。
 次から次へと入れ替わる学生たちを相手にしながら、筋肉の軋みを感じる。持久戦用に静の動きで受け流していてもあるていどの負担がある。
 相手の動きと呼吸に合わせなければないのだから、より高い集中を要する。
──あ。
 視界に入った出入口に、兄貴と並んで戻ってきた百華を見つけた。

「っと! あっぶな」
「成悟」

 ギロリと睨まれた。
 ガキは誤魔化せても親父は無理だった。
 修業が足らないと言うのもわかるけどさ。
 俺だけでなく、順番待ちの学生たちが色めき立って練習どころでなくなっている。

「こんにちは。お義父様、お邪魔します」
「いらっしゃい」

 かく言う親父もデレている。
 鬼コーチも渋い館長もあったもんじゃない。
 百華の登場で再休憩に突入しているがこれでいいのか。
 人集りの後ろから近づけば、百華が表情を和らげる。

「成悟さん」
「サンキュ」

 差し出されたハンドタオルを受け取って、汗を拭う。タオルはあっちに置いてあるが、バッグから出された物をこれ見よがしに使う。

「遅かったな。虫歯でもあった?」
「バーカ。俺が診てるのに虫歯なんぞあるか」

 うるさい。
 百華と話してんだから邪魔するな。綺麗にクリーニングして頂いたと白い歯を光らせる百華の横で、勝ち誇った顔を見せる兄貴を蹴り倒したい。

「診療前にお義母様とお茶してたの」
「あぁ、それで」

 百華を気に入っているのは母親も同じだ。家族で百華を取り合うのは止めろと言っても、そんなつもりはないと全員が口をそろえ、そしてまた百華に声を掛けに行く。

「近くにカフェがオープンしたんだって。でね、ランチがおいしいんですって」
「まさか」
「へへっ。これからご一緒させてもらおうかなって」

 いい? って、まぁいいけど。ただ、この汗臭い集団の中で小首を傾げてお願いするのはダメ。

「待ってて。着替えてくる」
「お義父様たちの分と一緒にご用意してくださるみたい」

 女子会とか何とか言って百華を独り占めする気だろうが、そうはさせるものか。

「百。俺もおしゃれランチ食いたい」
「たまにはおふくろの味がいいのでしょ?」

 あのババァ、口八丁言いやがったな。

「百ちゃん、今日は運動していかないのかい?」

 親父まで引き留めようとしてんじゃねぇ。

「ごめんなさい。今日は遠慮させていただきます」

 肩をすくめると余計に華奢に見える。親父に上目遣いするのも止めなさい。……ただの身長差だけど。
 真っ直ぐ顔を見て話すだけで、相手は勘違いしてしまうと何度言っても理解しない。人の目を見て話さないのは失礼だと引かない。それは当たり前なのだけど、百華に限っては違うと上手く理論立てできず言い負けてしまう。醜い嫉妬に聞こえるらしい。

「午後からでもいいよ」
「今日はちょっと、その、腰が」

 おや? という顔をする親父は国家資格を保有する柔道整復師だ。腕は確かで、看板を下ろした今でも近所のご老体にせがまれて診ることもある。

「百、それは言わなくていいから」
「ぁっ」

 しまったという顔を見せて、助けを求める様に道着の裾をキュッと掴んだ。恥じる百華を見れば大人は察する。ガキは相変わらず見惚れているだけだから会話にはついてきていない。

「ま、心配するな成悟。俺がついてくから」

 含み笑いの兄貴に半目になる俺の横で、百華は会話が逸れてあからさまにほっとしている。

「百華の検診サンキュね。俺もう体力の限界。悪いけど交代頼むね、師範代」

 兄貴の肩を叩いてバトンタッチだ。
 難癖つけてくる隙を与えないために、百華の肩を抱いて「行こ」と母屋を目指す。

「残念。成悟さんの練習見たかったのに」
「さっき見たでしょ」
「一瞬だけだよ」
「はいはい、また今度ね」

 不承不承と引き下がる百華は、道場の緊張感とそこに佇む俺が好きだと言う。普通一般的に道場に出入りする機会のある女子は少ないだろうから、独特な雰囲気に圧倒されるのはわからないでもない。

「シャワー行ってくるから、母さんと待ってて」

 分かったと嬉しそうに頷き、少し回りを見渡して唇の端にキスをしてリビングに駆けて行った。
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