愛は優しく、果てしなく

端本 やこ

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夫、成悟の愛しき憂い

2-3

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 帰宅するとカレーの匂いが充満していた。
 知ってたら昼飯に食べなかったのに。変なところで気が合っちまった。
 昼休みに連絡を入れなかった俺も悪いが、被りそうなメニューの時は連絡してくれてもいいと思う。

「おかえりなさい」

 耳に心地良い声に出迎えられると、一日の疲れがジワ~と絞り取られていく。しかし、ここであてられてしまうと有耶無耶になってしまう。夫婦関係において、それだけは絶対回避せねば。
 今日一日悶々と過ごしたのは、話し合いによる解決に間を空けてしまったからだ。

「ただいま」

 一言返すと、背中を向けたままの百華の肩から力が抜けた。
 あからさまにホッとした様子に罪悪感が募る。
 あー、ごめん百華。恰好つけてごめん。
 後ろから強めに抱き締めて、百華の匂いを堪能する。
 首筋に鼻をこすればカレーに負けない百華で一杯になる。
 なんだろな、このかぐわしい香りは。薔薇のように上品で、優雅で、それでいて主張しすぎない。そのくせ、醸し出されるフェロモンはむせかえりそうなぐらいだ。

「ねぇ、もも。今朝さ」
「待って」

 いや、だから。
 これでも一応、俺も折れようと思ってだな。

「成悟さん、ごめんね」
「ぇっ」

 クルリと反転して真正面で謝る百華は、はっきりと緊張している。

「朝。ごめんなさい」

 そうなんだよなぁ。
 俺より百華の方が真面目で気にしぃなんだよ。
 俺以上に、今日一日を気重に過ごしたに違いない。

「うん。俺も、ごめん」

 人一倍、人目を惹き付ける百華は、それだけ周りに注目され評価される人生を送ってきた。取るに足らないことにすら、他人と違う目を向けられる。
 百華がまだ就職したての頃、トイレの回数が増えたと注意を受けたらしい。女性特有の体調によるものだったのにさぼっているとされた。注意をする側は日に何度も煙草休憩をするくせにだ。話はそこで終わらず、百華の体の周期を知って、セクハラ紛いに口説く輩までいたらしい。
 気張るなだなんてどうして言ってしまったのか。
 今朝の自分が恨めしい。

「せー君はいつも応援してくれる。特別扱いせずに見てくれるの知ってる」

 顔を上げてフワリと目元を綻ばせた。百華がデレるのは俺の前だけで、甘えるのも俺にだけ。

「それは違う。全力で特別扱いしてる」
「ふふっ、そっか。そうだね」

 うんうんと嬉しそうに微笑んだ。俺の腰に腕を回し、胸に額を押し付けてぎゅとしがみついてくる。それだけで、昼間抱えていた後悔が昇華されていく。

「今夜はリクエストのカレーだよ。バターチキンにしたんだ」

 早く着替えてこいと急かされる。
 ちょっと待って。
 俺はリクエストをした覚えがない。

「カレー食いたいって言ったっけ?」
「せー君からの伝言だって、帰り際に中澤さんから聞いたよ」

 不思議そうな顔をする百華の後ろで含み笑いをする中澤が見えた気がした。
 くっそ中澤、やっぱアイツ腹立つ!
 昼飯が蕎麦だと知った中澤なら、俺がカレーセットを食べたのもお見通しだっただろう。

「いい感じにナンも焼けたよ。ほら早く」

 チンと陽気な音を立てたオーブンを開けた百華が満足そうに微笑んだ。
 研修は定時で終わり、電車に揺られながらレシピ検索をしたと言う。買い物に寄って帰宅し、カレーとナンを仕込んで待っていてくれた。

「うまっ」
「ん、上出来だね。定番にしちゃおっかな」

 市販のカレー粉で簡単にできたというわりに、深い味わいは本格的だ。手抜きだというナンもチーズ入りで食べ応えがある。

「百が料理上手で俺幸せ」

 俺の奥さんは初挑戦の料理でも平均点以上を叩き出す仕様なんだよな。

「ふふっ。レシピ検索サイトのお陰だね」

 穏やかな百華の笑顔も最高のスパイスってやつだ。
 俺は二倍速で平らげて、カレーをおかわりする。ルーと同じく、多めに用意されている2枚目のナンに手を伸ばした。

「研修どう?」
「内容はつまんないけど、新人さんたちと一緒なのは新鮮」

 会社の歴史に提携会社やらグループ会社やらの話は百華にとって目新しい情報は少ないのだから、その感想は頷ける。

「明日も午前はマナー研修だけど、午後からは通常業務だって」

 明日の午後が少し気掛かりでもあり、待ち遠しくも思う。
 俺のデスクは業務課を一望できる位置にある。間にビジネスサポート事業部を挟むが、人数はあまり多くない。ただ、ビジネスサポートは男性比率が高い。俺と百華の間に野郎を挟む状況は、未だかつて経験したことのないポジショニングである。

「どうかした?」

 考えている内に手が止まっていたらしい。
 ナンを千切る手に百華の華奢な手が乗せられた。

「いや。ちょっとシミュレーションをね」
「何の?」
「仕事中にどうやって百を愛でるか」
「意味わかんない。ちゃんと仕事してよ」

 心配して損をしたと、触れていた手を引いてしまった。ちゃっかり俺が千切ったナンをお土産に掠め取り、悪戯が成功したガキみたいな顔をする。

「こら百、それ俺の!」
「チーズいっぱいの美味しいとこ~」

 見せつけるようにしてカレーをたっぷりつけた。細長い指先まで浸ってしまっている。

「はい。あーん」
「ぬ?」

 予想していなかった行動に間抜けな声が出てしまった。「いらないならあーげない」と、少し不貞腐れた百華の手首をがっちりホールドした。

「食う。俺の」

 わざとねっとり時間をかけてカレーのついた指も舐め取る。口内でピクッと反応したのが分かる。少し驚いて頬を染める百華を満足して眺めてから指を解放してやった。

「んまぃ」
「もうっ」
「カレー付いちゃったことだし、あとで一緒に風呂入ろな」
「入らない!」

 間髪入れず断られ、俺は寂しい顔で非難する。
 百華は視線を外して、明日も仕事だとかなんとかゴニョゴニョと呟いた。
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