世にも甘い自白調書

端本 やこ

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東京編

その先輩、日野(下)

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「日野さん。久我島なんとかしろ」

 俊樹の次は上司ときた。

「いいじゃねぇか。キレッキレで怒涛の逮捕劇。なかなかのもんだろう」

 年下の上司の苦言を鼻で嗤い飛ばす。検挙率が上がっているのに文句など筋違いというものだ。

「あちこちから苦情きてんだ」

 上司の困ったアピールは右から左へ通過させる。
 徹を一番近くで見ている日野こそ、どこの女子も怯えていると知っている。それで全部が全部、捜査一課の案件を優先させてくれていることも。
 他部署にとっては迷惑なことこの上ない事実さえ、愉快だ。

「なんだその苦情」

 日野はあえて素知らぬふりを通す。
 痛手のない苦情なぞ訊く必要がない。課員なら感謝こそすれ、というやつだ。
 とはいえ、さすがにそろそろ潮合いだ。上司に言われるまでもなく、すでに一手を打ってある。

「日野さん、これ見て」

 俊樹に探りを入れさせると、直ぐに情報を得てきた。差し出されたスマホの画面を、日野は老眼を凝らして追う。

〈そっか。忙しくてお疲れなんだね。トッシーも体調に気をつけてね〉

 橙子からの返信は拍子抜けするほど当たり障りのない文章だった。
 徹は喧嘩だと言外に認めていたのにかかわらず、だ。
 どういうこった?
 もともと徹の愛想は最悪で、仕事に対する厳しさも持ち合わせている。が、周囲を巻き込んでしまうほどコントロールが利かないのは初めてのことだ。
 日野の疑問を肯定するかのように、俊樹も首を捻っている。
 おのずとふたりの視線が徹を捉えた。
 今日も今日とて徹は黒いオーラを発している。

「よくわからんな。いずれにせよ、橙子ちゃんに世話頼むしかないが」
「ですよねぇ」

 ちょっと電話してきますと、俊樹は日野から受け取ったスマホを軽く掲げて踵を返した。
 徹には効果がなかった俊樹の聴取も、橙子相手なら話は別なはずだ。友人の間柄にもまた信頼関係がある。それに、社会の荒波に揉まれまくっている橙子だが素直さを失ってはいない。橙子の弱さでもあり魅力でもあるのだと、日野は理解している。

「それはないわ~。危ないに決まってんじゃん。俺でもキレるね。ああ? いやいやいや。橙子が悪い! さすがに先輩に同情する。マジ、それでお預けなんて鬼畜の所業。謝れ。とにかくお前が悪いんだから、謝れ。ったく、どんだけ迷惑かかってると思ってんの? は? 関係なくないわ! 上司も他部署からもだって。嘘じゃねーよ。公防で逮捕するレベルやぞ。反省しなかんって。くっそ面白いけどいかんやつ。やべぇ、でら笑えるっ」

 俊樹が通話を続けながら戻ってくる。
 俊樹が訛り全開で話すのは珍しい。付き合いの長い日野が初めて聞くぐらいだ。
 謎はますます深まるばかりである。
 懸想する橙子の幸せこそ最優先に考えるのが俊樹という人間だ。本気で別れを望んでいるとは思えない。そのくせ俊樹はやたらと楽しそうなのだ。

「しぇーんぱい。ほら出て。いいから!」

 俊樹は嫌がる徹に無理やりスマホを押し付ける。
 笑い過ぎた涙を拭いながら、俊樹が日野の隣に腰を下ろした。

「日野さぁん♪ くっそ面白ぇの。橙子がやらかしてた!」

 俊樹の話聞きつつ、日野は次第に横隔膜がひくつくのを感じてきた。

「ぶっ。ちょっと待って。少しずつ話せ、な?」

 尾野よ。俺の上戸スイッチを押すんじゃない!
 橙子の話を聞いた俊樹が大喜びだった理由がわかってしまった。ついでに、数日間に渡る徹の機嫌の悪さの要因まで。
 くだらない。まったくもってくだらない。
 男女の仲とは今も昔も変わらずそういうもので、夫婦喧嘩は犬も食わぬと言う。夫婦でなくとも同じだ。深刻さに欠けた痴話喧嘩なぞ、放っておけばいい。
 それにしても橙子ちゃん、と日野は虚飾まとわぬ橙子の笑顔を思い出す。
 バリバリのくせに本当の本当に天然なのだ。確かに俊樹の手には余るし、もったいないと言える。見た目は美人で中身は可愛らしいときては、徹ほどの朴念仁がしてやられるのも納得だ。日野はますます彼女のことを気に入ってしまう。

「久我島、今日こそ早く帰らねぇとな」
「彼シャツ橙子を取り逃すなんて愚行でしょ! 捜一課員にあるまじきだわ~」
「こら尾野! バカっ。腹痛いっつうの!」

 日野が脇腹をさする。
 徹はヒマラヤ山脈も逃げだすほど眉間の皴を深くして「さっさと仕事しろ」と悪態を吐いた。

「検挙したぶん、どんだけ書類溜めてると思ってんだ」

 声の低さも底を這っているが、日野と俊樹は気にしない。執務室の黒い霧が晴れていくようにすら感じる。
 徹も俊樹も、いまや捜査一課になくてはならない存在だ。殺伐とした一課でエースに育ったふたりが、たったひとりの女に振り回されているなんて滑稽……いや、最上級の見ものだ。
 徹はもちろん、俊樹にとっても、橙子は重要な存在だ。
 どれだけ世の中の闇に触れようと、人として忘れてはいけないものがあり、失くしてはならない部分を満たすのだから、女神と言って差し支えない。
 闇の中で影を探り当てるのが生業の刑事にとって、どれほど貴重でありがたい存在か。
 何があっても絶対に手放すな。
 そう言って聞かせたい。だが、人に教えられることではない。日野は誰にも悟られないようにそっと笑いを噛み殺す。

 日野が定年を迎えるまで、まだ何年かある。
 今しばらく楽しませてもらうとしよう。
 目の前の若造と、ここにはいない女神を思って、日野は息を整えることに集中した。
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