世にも甘い自白調書

端本 やこ

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東京編

デート(上)

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 とある昼休み、橙子はスマホを凝視して固まった。

〈仕事終わったら教えろ。迎えに行く。〉

 徹からとは思えない内容に目をしばたく。短い文章を理解した橙子は焚付けられた。
 ぜぇぇったいの絶対に定時で上がってやる!!
 午後の予定は全て組み直し、一心不乱に机に向かう。その集中力たるや、電話の音さえ耳に入らない。

「おーい川原ぁ。何かあったん?」

 隣の席の矢田が、橙子のモニター前で手を振った。

「何も。早く帰りたいだけ」

 橙子は矢田の手を無視してキーボードを叩き続ける。

「だよなぁ」

 興味を失った矢田は背凭れに体を預け、両手を後頭部で組んだ。完全に緊張感を捨てている。

「ねぇ。何かあった?」
「何も。あんまデート出来てねぇからフラれそうではある」

 橙子が一瞬手を止めて、

「だよねぇ」

 と、溜息交じりに吐き出した。
 繁忙期でなくとも多忙を極めている状況だ。
 橙子は課長職に昇進したことを皮切りに営業的な業務が加担され、皺寄せ的に矢田の業務量も増えた。ふたりとも明らかに公私のバランスを乱している。
 橙子にいたっては、徹の部屋で過ごす夜も寝つきが悪く、起き出してリビングで作業をする。そのままソファでウトウトして朝を迎えることもある。初めの何度かは徹に注意されたが、そのうちうるさく言わなくなった。その代わり、ベッドでの濃密なスキンシップは封印されている。

「やってられんつーの」
「確かに。やってられんな」

 あっさり肯定され、橙子は思わず隣を見た。
 矢田が「何か?」とでも言いたげな顔で見返してくる。

「帰るか」
「帰ろうよ」

 二言目は完全に一致して、ふたりで噴き出してしまった。
 橙子がコホンと一息入れると、矢田も姿勢を正した。本気モード全開のふたりは鬼気迫るものがある。圧倒される周囲は話しかけることすらできなかった。
 そして終業時間を迎えた瞬間、競うように片付けを始めた。

「お疲れさん!」
「お先に!」

 矢田に続いて橙子もダッシュでエレベータに駆け込んだ。と、どちらからともなく笑いを押し殺した音が漏れた。

「ふふっ。やればできるものね」
「川原、デートだろ?」
「まあね。そっちは?」
「約束してねぇけど、このまま迎えに行ってみる」

 互いの健闘を称え合い、矢田とは会社の前で別れた。
 橙子は達成感を抑えきれず徹を呼び出す。

「今どこですか?」

 もしもしすら煩わしく問いかける。

『家』
「今、会社出ました」
『あ? 早いな』

 それならばと、主要駅で待ち合わせを指定された。徹の指示の的確さが好きだ。普段指示を出す方が多い立場になりつつあるからだろうか。引っ張ってもらえるのが単純に嬉しい。
 高性能徹探知機搭載の橙子は、人の多い駅でも簡単に対象を見つけられる。改札を抜ける長身の男を見つけ一目散に駆け寄った。

「徹さんっ」
「早いな」

 徹は気が付いていなかったらしい。電話で聞いたセリフを生で聞いただけで勝手に頬が緩む。

「飯には早いだろ。茶でも飲むか」

 まただ。「どうする?」じゃなくて先に提案してくれるところが好きでたまらない。橙子はゴキゲンに「うん!」と頷いて穴場のカフェに誘導した。

「良いことでもあったか?」

 当初、徹は迎えに車を出すつもりでいた。予定を変更したものの、待たせてでも迎えに行くべきだったかと案じていた。橙子と落ち合い心配無用であったかと思う反面、安心してはならないような勘も働く。

「うん! だって初めてのデートだもん」

 ちょっと待て。
 確かに徹が「デートしよう」などと誘ったことはないが、何度かふたりきりで出掛けた。食事をしたり、夜景をみたり、なんなら東京タワーにまで登ったのだ。デートの定義まで擦り合わせを要するとなると、さすがに面倒に感じる。

「告白前のはノーカン!」

 不覚にも橙子に思考を読まれてしまった。会話は噛み合わないくせに、稀に鋭い指摘をする。なんにせよ勝ち目のない内容だと判断した徹は話題を動かすことにした。
 
「忙しいのは越えたか?」
「うん? どうかな」

 橙子が視線を外す。ずずっと音を立ててアイスコーヒーを啜った。すっきりしない物言いが珍しい。徹には疲れが滲み出ているように見えてしまう。

「話せ」

 徹の命令口調に、橙子は手元のグラスから視線を上げた。
 徹の心配がわかってしまう。会社で隠し続けているやさぐれた気持ちを察してくれた。喜ばしいはずなのに、伝わり過ぎてしまったようで、胃に流れ落ちるアイスコーヒーで体温が下がったような気がした。

「徹さんと同じで一日が24時間で足らないってだけですよーだ」
「職種が違う」
「ここのとこ初体験ばっかで許容量一杯になりつつある」

 本音を愚痴にするのは照れが生じる。橙子はストローを咥えたまま上半身を揺らしてお道化てみせた。
 が、徹の冷ややかな目つきに探られてはストローを噛み潰すしかない。

「んーっとね。ゴルフにクラブでしょ。あ、ママがいる方のクラブね。あとストリップにおっパブも体験しちゃった。他人のおっぱい初めて揉んだ~」

 オジサマたちのやんごとなきお戯れに同行しただけの話だ。有益な話し合いが叶う類の遊びではなく、橙子にとって無駄でしかない。それでも同行することに意義がある。ご機嫌伺いというのもまた仕事なのだ。

「悪い。わかるように話してくれるか」

 徹は事件の捜査ならまだしもという思いだ。プライベートに、しかも自分の恋人から聞くにはあるまじき単語が羅列された。

「だから、こう」

 橙子がおもむろに両手を掲げてエア揉みの実演を始める。
 それはやらんでよし。
 徹は無言で橙子の手を掴んで下ろさせた。

「いちおう聞くが、それ仕事か?」
「自腹で行くわけないじゃん。接待したりされたり、数字欲しさにエグイ商談するよね。

 橙子の自嘲が痛々しい。

「ったく、いいように使われやがって」

 山藤物流では未だに接待の文化が残っているらしい。接待後に宿題・・を片付けていては嫌になるのは当たり前だ。どう考えても一般会社員の仕事の範疇を超えている。

「これ飲んだら帰るぞ」
「へっ。何で? やだ」
「ガキか。疲れ溜めすぎだ」

 徹が厳しめに睨んでみても、橙子は「帰りません」と頑なだ。心を鬼にしても家で仕事をさせるべきでなかった。

「そういえば、どこ行くつもりでした?」

 橙子は今更ながら待ち合わせを指定された理由を考えた。愚痴ならじゅうぶん聞いてもらった。折角のデートにこれ以上水を差したくない。

「スーツと靴買おうと思ってな。この辺だったろ、セミオーダーの店。ま、気にするな」

 徹の回答で橙子のボルテージが急上昇する。噛み潰したストローを勢いよく引き抜いて、アイスコーヒーを一気に飲み干す。
 大した用じゃないから帰るだとぉぉぉ!?
 どれだけ初デートを楽しみにして、本気で仕事をやっつけたと思っているのか。今回ばかりは徹の優しさも的外れだ。
 絶対許せんっ!
 ドンッとグラスを置くと、氷が音を立てて崩れた。

「徹さんも早く飲んで! 行くよ! スーツも靴も私が選ぶ。はい、決めた。頑張ってんだからご褒美あっていいでしょ!」

 呆れ顔の徹を急かして、橙子は鼻息荒くずんずん歩いた。
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