世にも甘い自白調書

端本 やこ

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東京編

デート(中)

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「絶対スリムフィット」

 スーツ専門店で生地見本を手にした橙子の発言は揺ぎない。

「緩いほうが動きやすい」

 試着した徹が鏡の中から橙子を見下ろした。橙子の真剣さがひっかかる。重要会議にでも挑んでいるかのような口調だ。
 
「だめ。フィット感があるほうが動きやすいでしょ」

 橙子の目は徹に釘付けだ。徹が羽織っているのはデザイン見本なだけに丈も袖も短い。そんなサイズ感を差し引いても評価できる。普段のくたびれたスーツと比べものにならないぐらい見映えがする。要するに最上級でかっこいい。

「このタイプで採寸してください」

 橙子が店員に告げた。徹は「走ることもあるんだぞ」と渋っているが聴こえないふりだ。もう橙子には他の選択肢は考えられなかった。

「では腿周りに余裕を持たせましょう」

 察しのよい店員の提案に、徹が要望を伝えはじめた。どうやら観念したらしいと、橙子は口元を緩める。脳内で盛大にガッツポーズを決めたのは言うまでもない。

「こっちもいいなぁ。どうしよ?」
「数着分選んどけ。細かいのも全部任せる」

 セミオーダーといえど、裏地、ポケットの形、ボタンなど細かく指定できる。体に合わせて貰えるのはありがたいが、こだわりがない徹には些か面倒だ。

「でた殿様~」
「何か言ったか」
「言ってない!」

 不要な一言でこれまでの決定事項が覆ってはたまらない。まとめ買いのつもりなら橙子の好みを存分に取り入れられる。やる気まんまんで生地見本を勢いよくめくり始めた。

「二週間後、超楽しみ♡」
「スーツなんぞ見慣れてんだろ」
「は? あれをただのスーツだとでも? 全っ然わかってないね。無頓着もマジ大概! って、あああああっ!」
「急になんだ。往来で叫ぶじゃねぇわ」
「あーどうしよう。私ったらまたやらかした。マズイかも」

 徹は軽く首を捻る。選択は橙子任せにしたが、注文は一緒に確認した。無茶無謀は見当たらなかった。支払いだって一括前払いで終えている。

「若い子のおっぱい! 張り! 弾力! あああああっ!」

 錯乱しかけた橙子の思考は止まらない。警視庁には若い女性警察官も多く、特異性からか職場結婚率が高い土壌があると俊樹から聞いたことがある。

「うるせぇ」
「やだ困る。徹さんがモテちゃうぅぅ」
「落ち着け。かわらん」

 真剣な顔つきでおっぱいだの腕捲りの絶対領域だのと繰り出されても徹は対処不可能だった。接待とやらで教わってきたのなら実害に看過できない。

「スーツ変えるだけだぞ。頭ん中メルヘンか」
「おっさん丸出しの辛気臭い柄で背広感溢れるダブルにしとけばよかった」
「さすがに俺でも選ばん」
「もー! お願いだから危機感持ってってば!」
「マジか。お前にだけは言われたくない」

 やいのやいの言い合ううちに、目当ての靴屋に到着した。有名ブランドのアウトレットだ。
 革靴は注文したスーツに合いそうなものを吟味する。靴の目利きも橙子の担当だ。徹はこだわりがないというのは本当らしい。橙子が厳選した中からサイズと履き心地であっという間に決めてしまう。そして靴もまとめ買いだ。

「私も少し見ていい?」
「ごゆっくり」

 橙子の買い物は時間がかからない。徹にとっては大変ありがたい。橙子いわく、買い物はフィーリングだ。現に、スーツも靴もさっさと見繕った。流行りに左右されず、手渡してくる品はどれも洗練された雰囲気があった。洒落くさいということもなく、徹もスムーズに買い物を終えられた。ひとりで買い物をするより楽なぐらいだ。

「私も仕事用に定番欲しいんだよね。どうしよっかな」

 何たらトゥだの、ヒールがどうのと言われても徹はサッパリ分からず適当に相槌を打っておく。女性の買い物には付いて歩くな、が鉄則であるはずなのに不思議と飽きない。ブツブツ言いながら買い物をする橙子を眺めるのは面白くさえある。

「あ、これも素敵。迷う~」

 橙子が試し履きをしたのはヌーディカラーのアンクルストラップだ。職場に履いていける大人可愛さに惹かれてしまう。先にシンプルな黒のパンプスを選んだが、就活生でもあるまいしと心が揺れる。
 アウトレットと言えどブランドだ。衝動で何足も買うのは躊躇われる。横目で黒を睨みつつ、橙子はアンクルストラップを外す。

「これと、さっきのも。全部まとめて貰います」

 橙子が自前の靴に履き替えている内に、徹は雑に箱を重ねて店員に託す。

「え? 徹さんちょっと待って」

 橙子は焦って靴を引っ掛けたまま徹を追うが、片足だけではガタついて追いつけない。
 徹は革靴と一緒にさっさと支払いを済ませてしまった。

「アウトレットなんて安いもんだろ。黙って受け取っとけ」

 店を出てから支払いについて掛け合う橙子の真面目さに辟易する。いつかホテルの支払いも最後までごねていたのを思い出した。橙子の性格か金銭感覚の問題なのか、いずれにせよ徹にとっては一様に邪魔である。

「安いけど安くないの! しかも二足も。絶対だめっ」
「付き合わせた分と、頑張ってるご褒美分で二足。それでいいだろ」

 徹が諭すと、橙子は「あー」「うー」と唸りだした。反論が途絶えて徹は満足だ。自らねだる女もいれば、買ってもらって当然だという顔をする女だっている。徹が買ってやりたいと思ったのも、自然と買ってしまったのも初めてだった。

「似合ってた。俺が買いたかったのだから文句いうな」

 徹が話を畳みかけると、橙子は「ずるい」と目に涙を溜めて見上げてきた。ぷるぷると小刻みに震えるのは想定外だった。

「いい歳して泣くかよ。意味がわからん」
「だって徹さんが」
「はいはい。ったく、こんな買い物ぐらいで」

 上目遣いに睨まれると誘っているのかと揶揄いたくなる。色々な意味で場所を考えろ、などと思っていると橙子にシャツを掴まれた。遠慮がちに引っ張る指にそっと手を重ねる。

「ありがとうございます。大切に使います」

 少しはにかんだ橙子から一切の不満が消えていた。清々しい顔を向けられて、徹のほうがバツの悪さを感じる。なんだかんだで可愛いと思ってしまう。妙齢を過ぎて熟しかけた美女が至近距離で屈託なく微笑むと、それなりの衝撃がある。鷲掴みにされた心臓に爪を立てられては万事休すだ。どこまでも引きずり込まれる。

「ああ。ついでだ。他も見てくか」

 徹は内心をひた隠し、橙子の機嫌伺いに転じた。徹から添えた手は離す。意外と鋭いところがある橙子だ。触れた部分から伝わってしまいそうな気がして、とてもじゃないが手を繋いではいられなかった。
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