世にも甘い自白調書

端本 やこ

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東京編

橙子の休日(下)

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「徹さーん、ドライヤー──」

 置きたいんだけどと言いかけて、橙子は無音で「ごめんなさい」と肩を竦める。ドライヤーは新しく買ってきた。
 徹は曖昧な視線で答えただけだった。

「とにかく余計なことはするな」

 態度とは裏腹に電話口には粗暴そのもので、切り捨てたといっていいほどの口調だった。無遠慮な物言いに、橙子は俊樹との通話だろうと当たりをつける。

「お仕事?」
「いや。なんでもない」

 コーヒーでもいれるかと、普段通りの口調に戻した徹はその足でキッチンへ向かう。すれ違いざま、徹の手に握られたスマホに視線を這わしてみたものの、すでに画面は消えていた。
 食事にはじまり、部屋着と電話にコーヒーと、徹の言動に違和感がある。正と負、どちらの感情に傾いているようでもなく、ただただ橙子の胸に小さなわだかまりが漂うだけだ。そのわだかまりさえ羽が生えているかのようにふわふわとつかみどころがない。 
 橙子は「ま、いっか」と気を取り直した。
 荷物置き部屋の隅に座りこみ、スキンケアをはじめる。徹の家に持ち込む私物は、台所用品を除けば小振りのボストンバッグひとつだ。着替えも洗面用品もここにまとめてある。洗濯物もなるべく持ち帰って中身を改めることにしている。徹の家から直接出勤することもあるからだ。
 いつも通り荷物をまとめ終えた時、徹が入り口に凭れ立ったのがわかった。

「どこに消えたかと思えば。また痕跡を消すのか」
「え?」

 徹の抑揚を抑えた声色に、橙子の背中がぎくりとした。機嫌がよかったはずが、そうでもなくなったと直感した。冷淡なのは声だけではなかった。橙子の意思を無視して立ち上がらせ、ほとんど担ぎ上げるようにして抱き上げられた。抱っこというより運搬というほうがしっくりする運び方でベッドに投げ捨てられる。

「ぎゃふっ」

 色気も雰囲気もあったものじゃない。徹らしいといえば言えなくもないが、橙子は自身が感じていたわだかまりが負の色に染まりつつあることを肌身で感じる。

「急になに? 何のこと?」
「荷物」
「服を入れ替えてこようって思っんーっ」
 
 橙子の返答は最後まで聞いてもらえなかった。
 台所で何があったんだと頓珍漢な勘繰りをしてしまうほど、徹の行為は突如としてはじまり橙子を困惑させる。徹の機嫌が急降下した理由がわからない。考えようとしても、肌を撫で上げる手に遮られてしまう。

「ハァ、ぉるさん? ぁっ、、、聞ぃて?」
「聞いてる」

 たぶん、本当に聞いてくれている。息継ぎを塞ぐ唇に邪魔をされて、まともに話せていないのは橙子のほうだった。
 
「おい。息吸えよ。持たんぞ」

 生理的な涙で滲んだ視界の中で、徹の目が光る。伝えたいことがあるのに言葉が繋がらない。

「んああっ!」

 結局啼かされ続けて、力尽きた橙子はシーツに沈み込んだ。力を抜いて転がって、息を整えればまどろんでくる。こうなると真面目に話をするのが億劫だ。ものぐさな態度で、後処理をする徹に背を向けた。

「ぃしょっと」

 徹の体温を背中に感じた。背後から回された手が橙子の片胸を包む。欲情を掻き立てる動きはせず、ただ単にそこに胸があるから揉んでいる自然な行為だ。

「……なぁ」

 徹の問いかけに「なぁに」と応答したつもりが、喉からくぐもった音が洩れただけだった。
 徹も後を続けない。背中に当たる呼吸による静かな振動と、分かち合う体温で、橙子の眠気はますます濃くなる。

「どこにも行くな」

 囁く言葉に、橙子は一瞬で目を大きく見開いた。
 転勤になりそうだと話した時ですら、徹は仕方がないという雰囲気で聞いていたのだ。落ち着いて状況を判断し、出張なのだろうと慰めてくれたぐらいだ。
 橙子が答えあぐねると、徹は誤魔化すかのように橙子の首に埋まって肩に噛みついた。聞き間違いではない、と確信する。
 だったら──、

「絶対三か月で終わらせます。それ以上になるなら、今度こそ会社辞める」

 胸に宛がわれていた手が止まった。徹が静止モードに切り替わり、橙子の不安が煽られる。
 徹の厄介になろうとしての発言ではなかった。まして結婚を迫るつもりもない。変に勘繰られないように、蜂須賀財閥から直接オファーがあったと繋げた。

「簡単に男に付いていくな」
「小高さんだよ? 信頼できる先輩ですって」
「友だちの尾野に拉致られただろ」

 俊樹の悪ふざけは忘れて欲しい。とはいえ、珍しく俊樹にすら嫉妬を見せた徹が可愛くて、胸が締め付けられる。橙子は反転して徹の胸に収まった。

「お盆休みは帰省して、ちゃんと家族に話してきます。それで福岡から戻ったら、、、本当に引っ越してきていいですか?」

 橙子の髪を梳いていた徹の手が、そのまま首裏に滑った。しっかりと支える手で器用に顎を上げさせ、真っ直ぐなキスをされた。
 優しいキスが徹の肯定を伝えて、橙子は目頭がぎゅっと縮んだのを感じた。鼻の奥の刺激が熱を持つ。

「悪い。気が回らなかった。一緒に住むなら俺も挨拶に行ったほうがいいな」

 もうだめだった。泣き笑いが止まらない。
 橙子の感情には触れず、徹は「日帰りできる距離だから休みをねじ込むか」と独り言のシミュレーションをしている。徹の気付かぬふりも何度目か。心遣いは同じでも、さりげなさからかけ離れていて、よけいに橙子は息を詰まらせる。
 三十路を超えた娘の恋愛にとやかく言うほど厳しい家庭環境に育ったわけではない。帰省を考えたのは、婚約破棄をした過去があるからだ。家族には迷惑をかけたし、それ以上に心配もかけている。

「大丈夫。ただ私がけじめつけたいだけだから。っていうか、徹さんは気にしないの? 一回失敗してんだよ、私」
「何個バツがついてても関係ない」
「ギリでバツはついてないけどね」

 ようやく笑いが声になって出た。明らかに心情を察した徹にぐっと引き寄せられた。一汗かいたあとの肌のべたつきさえ独り占めしたい。好きが暴走して止まらない。
 橙子は自信満々で抱きしめ返す。

「待っていてくれますか?」

 言葉なんて確約ならないものに縋るのは馬鹿げている。拒まれないこともわかっている。それでも約束が欲しい。離れていても一心に励めるように原動力を手にしたい。

「二週間空いただけで、まだ抱き足らん」
「ぅえ?」
「待つ自信ないぞ」

 うそ。
 冗談にしてはきつい。橙子の全身が硬直して、視界が真っ暗になる。わからずやでも橙子の想いを斟酌するのが徹なはずなのに。
 距離に対する不安を抱えたまま、徹の偽物を相手にするだなんて拷問甚だしい。救ってくれるのは徹しかいないのに見放されては精神が壊れてしまう。

「だいたいお前は平気なのか? 三か月も」

 徹の親指が橙子の頬を拭った。
 「たった」三か月だと思うのかと指摘されると答えようがない。橙子自身、半年はかかると読んでいる仕事だ。全力で取り掛かって「半分だ」という認識でいた。
 悔しさに似たやるせなさが橙子を再度俯かせる。

「バーカ。冗談だ。会いに行くから不安がるな。脇見するな。間違っても誠に惑わされるな」

 泣き顔を見られてなるものかと、頑なな橙子の両頬を徹ががっしりと挟む。
 
「いいからこっち見ろ」

 無理やり上げさせられた。
 注意深く覗き込む徹の目に深い愛情の欠片を見つける。

「信用しろ」
「休みでも来れないくせにぃ」
「俺も帰省するだけのことだぞ。なんとでもなる」

 信用できないのは徹ではなく自分自身の強さだった。
 徹は待っていてくれる。
 徹を信頼しているのだから、離れていても真っ直ぐに想い続けていればいい。
 橙子は自然と、ぐしゃぐしゃで不細工極まる顔を向けた。

「徹さん。愛しています」

 橙子の全てだった。
 恥じずに見据えると、徹は初めて見せる満ち足りた表情で微笑み返してくれていた。 
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