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福岡編
【最終話】出立
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徹と再会して三十時間程度しか経っていない。あっという間というには、あまりに濃い時間だった。
橙子は薬指にある新しい重みをこっそり親指で撫でる。
福岡の長期出張は忘れられないものになりそうだ。嫌々だった出張も、徹の言動ひとつで大切な想い出になる。
福岡に来ていなければ、橙子の左手は確約の証がないまま仕事を頑張っていただろう。
もっと言えば、東京転勤がなければ徹に出会えなかったし、会社の派閥争いに巻き込まれていなければ恋人にならなかった可能性もある。
人生なにが起点でどう転ぶかわからない。
わかっているのは、死んでも徹を愛し続けることだけだ。
今は指輪のお守りがあればどんな困難も乗り越えられる。
徹の存在で橙子は無敵になれる。
食事を済ませ、空港まで来た。
久我島家の訪問時と同様、徹は「土産なんぞ必要ない」と言い張るが、橙子は無視して売店に入る。食事をしながら、シフトを変わってもらったと聞き出していた。徹は同僚の協力があってこそ来れたわけで、橙子も知った以上は無視ができない。
「これ、ちゃんとトッシーたちに渡すんだよ。いい?」
橙子の念押しで、徹は渋々手を出した。不満たらたらな溜息のオマケつきだ。
「渡しにくいなら、私に押し付けられたってありのまま言えばいいでしょ」
「別にそうじゃない」
だったらなんだと深追いするのは止めておいた。
刻一刻と帰京便の出発時間は迫っている。くだらない言い争いに費やしてはいられない。
先にチェックインは済ませてあるので、搭乗時間まで一緒に居られる。
橙子は自分が福岡に来る時には感じなかった寂しさを感じていた。きりきりと身体の芯に喰い込んでくる類で、ただ寂しいというのも違う。もっとこう、内側から張り裂けそうな緊張感がある。
手にあるコーヒーの匂いすら感じず、今生の別れのような孤独感を噛み締める。
「そろそろ時間だ」
出張前も、会いに来てくれてからも、徹には泣き顔ばかり見せている。
無用な心配をかけないためにも笑顔で送り出したい。
徹には笑顔を覚えておいて欲しい。
「わかった」
橙子は絶対に泣かないと決心して、味のしないコーヒーを飲み干した。
出発保安検査場を通れるのは搭乗者だけだ。入口の前まで並んで着いて行く。ふたりとも無言だった。
入口間際に、徹が壁際に寄って足を止めた。橙子の頭を抱え込んで視界を遮り、徹でいっぱいにしてくれた。
「ねー、徹さん」
「ん?」
「明日からまた日常だね」
「そう、だな。下手したら今夜からかもだけどな」
湿っぽくならないための気遣いなのか、ただの可能性の話か分からない。確かなのは、お互い夢から覚めて懸命に働くということだ。
徹だけを感じられる腕の中で橙子は気持ちを落ち着かせる。それから、離れ難い思いを叱咤して、自ら半歩距離を取った。
「徹さんの次の休みには居るよ」
当初課せられた仕事はとうに終えている。あとは付随業務を整理して、上乗せされたあれこれを片すだけだ。徹との生活のためならばなんだってやりきってみせる。
これ以上、仕事を理由にしない。
諦めない。
迷わない。
「今度こそ、絶対に一ヵ月以内に帰ります」
真っ直ぐに徹の顔を見上げて、固く意思を籠めた目を向けた。
徹はフワリと空気を和らげ見つめ返してくれる。
「分かった。けど、無理はするな。ちゃんと食え」
「徹さんもちゃんと寝てください」
それも分かっていると、橙子の頭の上で二回跳ねた手が左頬に添えられた。撫でられる前に擦り寄った。徹の体温が心地いい。
ここが私の居場所なんだと、改めて胸に刻む。
「もう辞めてでも帰って来い。さっさと結婚するぞ」
「はい!」
橙子は笑顔だった。
少しの陰りも憂いも無く、ただただ愛しているの気持ちだけが橙子を笑顔にさせた。
東京だって地の果てまでだって追いかける。
捕まえたら二度と離れない。
叱られても呆れられても絶対に傍にいる。
ひっそりと、けれど熱く、橙子は永遠の誓いを立てる。
──あなたの身柄、私が拘束します。
徹の背中を見送っても揺るがない。
橙子は両足でしっかり立っていた。
了
橙子は薬指にある新しい重みをこっそり親指で撫でる。
福岡の長期出張は忘れられないものになりそうだ。嫌々だった出張も、徹の言動ひとつで大切な想い出になる。
福岡に来ていなければ、橙子の左手は確約の証がないまま仕事を頑張っていただろう。
もっと言えば、東京転勤がなければ徹に出会えなかったし、会社の派閥争いに巻き込まれていなければ恋人にならなかった可能性もある。
人生なにが起点でどう転ぶかわからない。
わかっているのは、死んでも徹を愛し続けることだけだ。
今は指輪のお守りがあればどんな困難も乗り越えられる。
徹の存在で橙子は無敵になれる。
食事を済ませ、空港まで来た。
久我島家の訪問時と同様、徹は「土産なんぞ必要ない」と言い張るが、橙子は無視して売店に入る。食事をしながら、シフトを変わってもらったと聞き出していた。徹は同僚の協力があってこそ来れたわけで、橙子も知った以上は無視ができない。
「これ、ちゃんとトッシーたちに渡すんだよ。いい?」
橙子の念押しで、徹は渋々手を出した。不満たらたらな溜息のオマケつきだ。
「渡しにくいなら、私に押し付けられたってありのまま言えばいいでしょ」
「別にそうじゃない」
だったらなんだと深追いするのは止めておいた。
刻一刻と帰京便の出発時間は迫っている。くだらない言い争いに費やしてはいられない。
先にチェックインは済ませてあるので、搭乗時間まで一緒に居られる。
橙子は自分が福岡に来る時には感じなかった寂しさを感じていた。きりきりと身体の芯に喰い込んでくる類で、ただ寂しいというのも違う。もっとこう、内側から張り裂けそうな緊張感がある。
手にあるコーヒーの匂いすら感じず、今生の別れのような孤独感を噛み締める。
「そろそろ時間だ」
出張前も、会いに来てくれてからも、徹には泣き顔ばかり見せている。
無用な心配をかけないためにも笑顔で送り出したい。
徹には笑顔を覚えておいて欲しい。
「わかった」
橙子は絶対に泣かないと決心して、味のしないコーヒーを飲み干した。
出発保安検査場を通れるのは搭乗者だけだ。入口の前まで並んで着いて行く。ふたりとも無言だった。
入口間際に、徹が壁際に寄って足を止めた。橙子の頭を抱え込んで視界を遮り、徹でいっぱいにしてくれた。
「ねー、徹さん」
「ん?」
「明日からまた日常だね」
「そう、だな。下手したら今夜からかもだけどな」
湿っぽくならないための気遣いなのか、ただの可能性の話か分からない。確かなのは、お互い夢から覚めて懸命に働くということだ。
徹だけを感じられる腕の中で橙子は気持ちを落ち着かせる。それから、離れ難い思いを叱咤して、自ら半歩距離を取った。
「徹さんの次の休みには居るよ」
当初課せられた仕事はとうに終えている。あとは付随業務を整理して、上乗せされたあれこれを片すだけだ。徹との生活のためならばなんだってやりきってみせる。
これ以上、仕事を理由にしない。
諦めない。
迷わない。
「今度こそ、絶対に一ヵ月以内に帰ります」
真っ直ぐに徹の顔を見上げて、固く意思を籠めた目を向けた。
徹はフワリと空気を和らげ見つめ返してくれる。
「分かった。けど、無理はするな。ちゃんと食え」
「徹さんもちゃんと寝てください」
それも分かっていると、橙子の頭の上で二回跳ねた手が左頬に添えられた。撫でられる前に擦り寄った。徹の体温が心地いい。
ここが私の居場所なんだと、改めて胸に刻む。
「もう辞めてでも帰って来い。さっさと結婚するぞ」
「はい!」
橙子は笑顔だった。
少しの陰りも憂いも無く、ただただ愛しているの気持ちだけが橙子を笑顔にさせた。
東京だって地の果てまでだって追いかける。
捕まえたら二度と離れない。
叱られても呆れられても絶対に傍にいる。
ひっそりと、けれど熱く、橙子は永遠の誓いを立てる。
──あなたの身柄、私が拘束します。
徹の背中を見送っても揺るがない。
橙子は両足でしっかり立っていた。
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