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2話 早卒センター
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光矢は有り金の小銭をポケットに突っ込み、小さな紙きれを握りしめて家を出た。
夕飯までにはちゃんと帰りなさい――
出がけにかけられた、雅恵のいつも通りの外面の良い言葉が寒々しくて怖気が走った。
隣の家にはできた親と思われている、と自画自賛していたが、何の冗談だろうか。
自転車にまたがり、ひたすら逃げるようにペダルを踏んだ。得体の知れない何かが足にまとわりついてくるようで気持ち悪かった。
最寄りの駅に到着した。
なぜか暑さも寒さも感じない。季節も分からない。喧騒も耳に入らない。
ただ、やまない胸の息苦しさだけが、どうしようもなくつらかった。
「結局、この番号を使うのか」
光矢は、今の時代には珍しい公衆電話の前に立っていた。
目の前のマニュアルを参考にして、使ったことがない受話器を手にとった。百円硬貨を放り込み、握りしめていた小さな紙きれを広げる。
そこには電話番号が書かれていた。
もしかしたら、と思ってずっと隠し持っていたものだ。
ボタンに指が振れた。金属だろうか。冷たかった。
気温は感じないくせに、指先は確かに温度を捕らえた。
そして、急激に体の震えがやってきた。
途方もない恐怖と吐き気が、全身を麻痺させ、膝を崩れさせた。
光矢は、早卒センターという場所に電話をかけようとしていた。
《黒曜》によってプログラムされた自分の死の時期を早めることができる公的な機関だった。
「決めたのにな……」
高笑いする義理の母と父の顔が脳裏に浮かんだ。
何か熱いものが喉奥から腹部に降りていった。それは怒りだった。
怒りが恐怖を吹き飛ばした。光矢は膝を叱咤して立ち上がった。
今さら、後戻りしたくなかった。
人差し指が番号を押した。
2コールして相手が出た。女性に似せた録音音声だった。
「この電話は、人生早期卒業センター、通称、早卒センターに繋がっています。早卒センターは何らかの事情でご自分の死期を早めたい人のための国立機関です。おかけ間違いである場合は、そのまま終話ボタンを押してください。もし、早卒センターでお手続きしたい場合は、このままお待ちください。オペレーターにお繋ぎいたします」
光矢はもう迷わなかった。
驚くほど他人事のように音声を聞いた。
聞いたことがないメロディが十秒ほど流れ、音声が切り替わった。
「お待たせいたしました。早卒センターの神谷と申します。もし周囲が気になるようでしたら、移動していただく時間をお待ちいたしますし、こちらから折り返しご連絡を差し上げることも可能です」
音声はスマートフォンからの電話を想定していたが、所有しない光矢には関係なかった。
腹に力を込め、背筋を伸ばして言った。
「大丈夫です」
「承知しました。では、改めまして、ご用件をお伺いいたします」
光矢はからからに乾いた唇を動かした。
自分の声が、どこか遠くで鳴っていた。
「死ぬ時期を早めたいんです」
「承知しました。では、お名前とIDを教えていただけますか?」
神谷と名乗った女性は、とても事務的だった。
だが、それは救いだった。
死にたい理由を根掘り葉掘り聞かれたところで、光矢にはこの場でうまく説明できる自信がなかった。
光矢は名前とIDを告げ、次の言葉を待った。
「当センターの指定する場所にお越しいただき、薬を飲んでいただく必要があります。日時のご希望はありますか?」
「できるだけ早くに」
「葛切さまは未成年ですので、できればご両親の許可を――」
神谷の言葉を聞いて、受話器を持つ手が瞬く間に冷えた。
光矢の顔は真っ青だった。
電話口で神谷が話を続けているが、何も耳に入ってこなくなった。
「ですので――」
「話せるなら電話なんかしてない!」
光矢は全身を震わせ、絞り出すように言った。
自分が早く死ぬことを、雅恵や晴宗が許可するはずがないのだ。
それどころか、この電話の内容がばれたら、次は監禁生活になるだろう。家出を一度したときの、警察と学校を巻き込んだマスコミ騒ぎが脳裏に浮かんだ。
光矢が家に書き置きしたメモの内容には一切触れられず、義母の同情を誘うためだけの賢しい泣き顔が放送されたのだ。その結果、世間的に、光矢は手に負えない子供というレッテルまで貼られた。
神谷の声が途絶えた。
一瞬、電話が切られたのかと思ったが、そうではなかった。
落ち着いた男性の声が響いた。
「葛切さん、失礼ですが電話を代わりました。上司の羽斗と申します。IDを検索した限り、あなたは未成年であることが間違いない」
「でも、親には――」
「わかっています。事情は色々あるでしょう。未成年の方が電話してくることも多い。さきほどの『両親の許可』というのは葛切さんが本気かどうかを探っただけです。あまりに悪戯が多いもので。ですので、どうぞご安心を」
羽斗と名乗った男は、何もかも理解したような口調だった。
責めることも非難することもない。ただ事務を淡々とこなしているだけと言わんばかりだった。
光矢は耳を澄ませた。
「今日の16時までに、私の言う場所に行ってください。『羽斗の約束で』と伝えれば、『葛切さんの希望通り』になるように手配しておきます。くれぐれも遅れないように」
光矢は受話器を持ったまま、自然と頭を下げた。
電話口で、羽斗が住所を二度諳んじた。
光矢は何度も住所を口の中で繰り返した。
「葛切さん、申し上げたとおり『両親の許可』はフェイクですが、近いうちに『報告』はされます。前か後かの違いです。わかりますか?」
「後ならいくら報告されても構いません」
「そういうことです。それと――」
羽斗は言葉を切った。
同時に、椅子を揺らす音がわずかに聞こえた。
「死に向かって背中を押す私が言うことじゃないが、『良い人生を』」
不思議なことに、にんまり笑う羽斗の姿を幻視した。よれよれのスーツを着た中年男性が、ペンをくるくると回している姿だ。
片手間で仕事をしている映像。
でも、悪くなかった。
通話が終わった。
光矢は受話器を投げつけるように置いて、自転車の置き場に全力で走った。
羽斗が言った住所は聞いたことがない。急いで本屋で地図を見る必要があった。
「なんだよ、これ」
死に向かって全力で走り始めた自分が、ひどく楽しかった。
夕飯までにはちゃんと帰りなさい――
出がけにかけられた、雅恵のいつも通りの外面の良い言葉が寒々しくて怖気が走った。
隣の家にはできた親と思われている、と自画自賛していたが、何の冗談だろうか。
自転車にまたがり、ひたすら逃げるようにペダルを踏んだ。得体の知れない何かが足にまとわりついてくるようで気持ち悪かった。
最寄りの駅に到着した。
なぜか暑さも寒さも感じない。季節も分からない。喧騒も耳に入らない。
ただ、やまない胸の息苦しさだけが、どうしようもなくつらかった。
「結局、この番号を使うのか」
光矢は、今の時代には珍しい公衆電話の前に立っていた。
目の前のマニュアルを参考にして、使ったことがない受話器を手にとった。百円硬貨を放り込み、握りしめていた小さな紙きれを広げる。
そこには電話番号が書かれていた。
もしかしたら、と思ってずっと隠し持っていたものだ。
ボタンに指が振れた。金属だろうか。冷たかった。
気温は感じないくせに、指先は確かに温度を捕らえた。
そして、急激に体の震えがやってきた。
途方もない恐怖と吐き気が、全身を麻痺させ、膝を崩れさせた。
光矢は、早卒センターという場所に電話をかけようとしていた。
《黒曜》によってプログラムされた自分の死の時期を早めることができる公的な機関だった。
「決めたのにな……」
高笑いする義理の母と父の顔が脳裏に浮かんだ。
何か熱いものが喉奥から腹部に降りていった。それは怒りだった。
怒りが恐怖を吹き飛ばした。光矢は膝を叱咤して立ち上がった。
今さら、後戻りしたくなかった。
人差し指が番号を押した。
2コールして相手が出た。女性に似せた録音音声だった。
「この電話は、人生早期卒業センター、通称、早卒センターに繋がっています。早卒センターは何らかの事情でご自分の死期を早めたい人のための国立機関です。おかけ間違いである場合は、そのまま終話ボタンを押してください。もし、早卒センターでお手続きしたい場合は、このままお待ちください。オペレーターにお繋ぎいたします」
光矢はもう迷わなかった。
驚くほど他人事のように音声を聞いた。
聞いたことがないメロディが十秒ほど流れ、音声が切り替わった。
「お待たせいたしました。早卒センターの神谷と申します。もし周囲が気になるようでしたら、移動していただく時間をお待ちいたしますし、こちらから折り返しご連絡を差し上げることも可能です」
音声はスマートフォンからの電話を想定していたが、所有しない光矢には関係なかった。
腹に力を込め、背筋を伸ばして言った。
「大丈夫です」
「承知しました。では、改めまして、ご用件をお伺いいたします」
光矢はからからに乾いた唇を動かした。
自分の声が、どこか遠くで鳴っていた。
「死ぬ時期を早めたいんです」
「承知しました。では、お名前とIDを教えていただけますか?」
神谷と名乗った女性は、とても事務的だった。
だが、それは救いだった。
死にたい理由を根掘り葉掘り聞かれたところで、光矢にはこの場でうまく説明できる自信がなかった。
光矢は名前とIDを告げ、次の言葉を待った。
「当センターの指定する場所にお越しいただき、薬を飲んでいただく必要があります。日時のご希望はありますか?」
「できるだけ早くに」
「葛切さまは未成年ですので、できればご両親の許可を――」
神谷の言葉を聞いて、受話器を持つ手が瞬く間に冷えた。
光矢の顔は真っ青だった。
電話口で神谷が話を続けているが、何も耳に入ってこなくなった。
「ですので――」
「話せるなら電話なんかしてない!」
光矢は全身を震わせ、絞り出すように言った。
自分が早く死ぬことを、雅恵や晴宗が許可するはずがないのだ。
それどころか、この電話の内容がばれたら、次は監禁生活になるだろう。家出を一度したときの、警察と学校を巻き込んだマスコミ騒ぎが脳裏に浮かんだ。
光矢が家に書き置きしたメモの内容には一切触れられず、義母の同情を誘うためだけの賢しい泣き顔が放送されたのだ。その結果、世間的に、光矢は手に負えない子供というレッテルまで貼られた。
神谷の声が途絶えた。
一瞬、電話が切られたのかと思ったが、そうではなかった。
落ち着いた男性の声が響いた。
「葛切さん、失礼ですが電話を代わりました。上司の羽斗と申します。IDを検索した限り、あなたは未成年であることが間違いない」
「でも、親には――」
「わかっています。事情は色々あるでしょう。未成年の方が電話してくることも多い。さきほどの『両親の許可』というのは葛切さんが本気かどうかを探っただけです。あまりに悪戯が多いもので。ですので、どうぞご安心を」
羽斗と名乗った男は、何もかも理解したような口調だった。
責めることも非難することもない。ただ事務を淡々とこなしているだけと言わんばかりだった。
光矢は耳を澄ませた。
「今日の16時までに、私の言う場所に行ってください。『羽斗の約束で』と伝えれば、『葛切さんの希望通り』になるように手配しておきます。くれぐれも遅れないように」
光矢は受話器を持ったまま、自然と頭を下げた。
電話口で、羽斗が住所を二度諳んじた。
光矢は何度も住所を口の中で繰り返した。
「葛切さん、申し上げたとおり『両親の許可』はフェイクですが、近いうちに『報告』はされます。前か後かの違いです。わかりますか?」
「後ならいくら報告されても構いません」
「そういうことです。それと――」
羽斗は言葉を切った。
同時に、椅子を揺らす音がわずかに聞こえた。
「死に向かって背中を押す私が言うことじゃないが、『良い人生を』」
不思議なことに、にんまり笑う羽斗の姿を幻視した。よれよれのスーツを着た中年男性が、ペンをくるくると回している姿だ。
片手間で仕事をしている映像。
でも、悪くなかった。
通話が終わった。
光矢は受話器を投げつけるように置いて、自転車の置き場に全力で走った。
羽斗が言った住所は聞いたことがない。急いで本屋で地図を見る必要があった。
「なんだよ、これ」
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