黒白のニンブルマキア

深田くれと

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3話 今日、人間を卒業します

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 羽斗が指定した場所は、街から随分離れた場所だった。
 公共交通機関も当てにできないへき地だ。
 お金があればタクシーに乗るのだが、生憎、光矢には手持ちの現金が少ない。
 考えてみれば、こんなに街から離れたのはいつ以来だろうか。
 本当の母が死に、実妹と生き別れになってからは記憶になかった。
 百円ショップで買った薄い腕時計を何度も確認しながら、光矢は長い幹線の端で息を切らせた。
 車どころか、人も随分見かけていない。
 聞こえるのは虫の合唱と、山に木霊する鳥の鳴き声。

「騙されてたりして」

 ぼんやり思っていたことが口に出た。夢じゃないかと疑った。
 けれど、首を振った。
 別に騙されていても構わないのだ。あの家に戻らなくてすむのなら、いくらでも騙されてやろう。
 そう思い直して、光矢はさらに通学用の自転車を進めた。
 と、後方から銀色のセダンが近づいてきた。運が良ければ道を聞けると思って振り向いた。
 運転席に、幼い印象のこげ茶色の髪をショートポニーにした女性。
 助手席には銀髪のスーツ姿の男性。30代くらいだろうか。
 そして、後部座席に、自分と歳が近そうな青年。
 親子とするには、違和感のある組み合わせだった。

「……まあ、止まってくれないよな」

 セダンは素早く光矢の横を追い越した。後ろのボンネットが派手にへこんでいたのが気になった。
 一瞬、窓から外を見ていた後部座席の青年の顔が見えた――彼の目はうつろだった。
 無表情だったと言い換えてもいい。
 鏡で見た、一番ひどい時の自分の顔と重ねた光矢は直感した。
 この道の先に目指す場所がある、と。
 光矢は再びペダルを踏んだ。

「あった……」

 小高い丘の上に、建物があった。
 コンクリート打ちっぱなしの円柱が三つ。それらが等間隔に集まったような施設だ。
 視線を巡らすと、銀色のセダンが奥に止まっていた。間違いなく見た車だ。
 時間は16時前。条件は満たせた。
 光矢は自転車を建物の端に止めて、背の高い自動ドアをくぐった。青いカーテンが突然目の前に現れて驚いたが、ぱっと消え去った。
 奥に大理石のカウンターがあった。
 一人の女性がゆっくり立ち上がって、丁寧に頭を下げた。
 光矢も慌てて頭を下げた。

「こんにちは。ここは誰から紹介されましたか?」

 どう説明しようかと戸惑っていた光矢だったが、その一言で緊張が解けた。
 女性はここに来るのが、『光矢と同じ人間』なのだと知って話しているのだ。

「羽斗さんとの約束で」

 女性は時間をかけて頷き、手元の資料に視線を落とした。
 そして、「葛切様で間違いがなければ、着いてきてください」とカウンターを回って奥の廊下に向かう。
 光矢は静まり返った建物内に不安を感じつつも、言われた通りに追いかけた。

「このまま、エレベータを使って下層に降ります。A-14のお部屋で、ご希望の処置が行われます」

 希望の処置――つまり死に至るということだ。
 女性の表情は変わらない。
 きっと光矢のような人間を何度も見てきているのだ。一時間前に同じ人間が来たとしても不思議ではない。

「葛切様が望むなら、最期に食べたいものや、見たい映画、聞きたい音楽などであれば今からでも手配できます」
「そういうのは……」
「そうですか。薬を飲む前までなら対応できないことはないので、担当の葬送官に申し出てください」
「葬送官?」
「葛切様の死の見届け人です」

 女性は説明もなく、それだけを口にしてエレベータのボタンを押した。
 光矢の眼前で、事務室のような広すぎる空間がぽっかり口を開けた。
 防音になっているのか、静けさの質が違う。

「このエレベータは下への一方通行です。乗れば二度と戻って来られないと考えてください」

 女性がエレベータの前でヒールを鳴らして振り返った。
 光矢は、その顔にわずかな憐憫が混じっていることに気づいた。
 すると心が急にざわついた。
 もし、寸前で怖くなったら――
 そんな思いが見透かされたのだろう。
 女性は落ち着いた声でゆっくり言った。

「もし、迷いがあるならば時間を置いて考えてください。そのための部屋も用意できます。この施設に入館したからには、何人も、もちろんあなたの死に反対する人も、絶対に来られません」
「それは……」

 光矢の視線が足下に落ちた。
 少しだけ未練があった。残りわずかの寿命の間に、できることがあったかもしれない。バイトも、出会いも、遊びも、勉強だって。楽しいことに巡り合えるかもしれない。
 だが――
 頑張って生きた結果は、義理の両親の高笑いにしか繋がらないだろう。
 そして、光矢に自由が認められるはずがない。

「俺は……このまま下に行きます」
「そうですか……ご本人の意思は何より優先します。せめて安らかに」

 女性が横に移動し、道を空けた。
 光矢は小さく会釈し、エレベータに向けて歩みを進めた。
 と、静寂な空間に革靴の音が足早に鳴った。
 後から一人の男が近づいてきた。

「ちょっと、待ってくれ。君が、葛切君だろ?」

 場に似つかわしくない、はつらつとした声だった。
 ここに来るまでにすれ違った、セダンの助手席に座っていた銀髪の男だった。

「千丈さん、どうしてここに?」

 女性の表情が堅いものへと変わったが、千丈と呼ばれた男が気に留める様子はなかった。

「船戸さんには悪いけど、葛切君はC棟で預かるよ」
「C棟で?」
「羽斗さんの紹介とは知ってるけど、彼はA棟の範囲じゃないんだ」
「どう見てもA棟ですが、何か理由があるのですか?」
「ちょっとね」

 千丈は話す気がないとばかりに肩をすくめる。
 船戸と呼ばれた女性は千丈をじっと見つめてから、嘆息した。
 そして、姿勢を正し、光矢に頭を下げた。

「身内のつまらない混乱を見せてしまい申し訳ありません」
「俺は……どっちに着いていけばいいんですか?」
「俺だよ。葛切光矢君。来てくれ」

 千丈はくるりと背中を向けて、通ってきた入口に向けて歩き出した。


 ***


「大丈夫、ちゃんと君の希望は叶える」

 千丈はC棟と呼ばれた建物に入ると、軽い口調でそう言った。
 正直なところ、光矢は船戸に見送られた方が良かったと思っていた。
 自分で死ぬと決めたはずなのに、なぜか気持ちが軽くなってしまった気がする。

「ここが、君の部屋だ」

 地下には降りなかった。一階を進んで、右手に曲がった部屋だ。
 案内された部屋には二人掛けのソファや小さなスツール、リクライニングチェアにオフィスチェア、そしてベッドがあった。
 壁はクロス貼りで、死ぬ為の部屋というよりは、どこかの家の一室を思わせた。
 ヒーリング音楽と呼ばれる自然音が流れ、天井では木製のファンが回っている。窓があればカフェにでもなりそうだ。

「準備をしてくるから、しばらく座って待ってくれ。すぐにカウンセラーも来る」

 千丈が光矢の返事を待たずに部屋を出ると、少ししてこげ茶色のショートポニーの女性が入れ替わりでやってきた。
 セダンを運転していた女性だ。背が低く、愛嬌を感じる顔つきだ。ただ、その容姿と雰囲気に奇妙なズレを感じた。
 しかし、そんな疑問は彼女の落ち着いた表情で霧散した。
 彼女は小さなスツールにこじんまり座る光矢を見て、頬を緩めた。

「初めまして、葛切光矢さん。私は、八重山萌(やえやまもえ)です」
「初めまして……」
「そのスツールが落ち着きますか?」

 光矢は八重山の言いたいことが理解できなかった。
 疑問が顔に出ていたのだろう。
 八重山は、「選ぶ椅子は、意外とその人の素が出るものなんです」と言って、自分は黒いオフィスチェアを引いて腰かけた。

「背もたれのない椅子が、葛切さんの生活じゃないですか?」

 唐突な言葉に、光矢は衝撃を受けた。
 家族が使うテーブルとセットになった椅子には座ったことがなかった。
 晴宗のリクライニングチェアも座椅子も、光矢は触れたことがなかった。
 怒られる時や体罰を受ける時は、必ずこのタイプの椅子に座らされていた。
 八重山は「少しだけ、お話を聞かせてください」と言って黙り込んだ。
 光矢の重たい口が、ゆっくりと開かれた。
 なぜ、自分のことを語らなければいけないのか、とは思わなかった。
 この場所がなぜか心地良くて、話をするのが当然だと思えた。
 実は、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
 光矢は、短い人生をぽつぽつ語り出した。
 

 ***


「済んだか?」
「ええ、もう十分です」

 扉の隙間から中の様子を窺った千丈が、椅子に座ったまま眠る光矢を確認して入室する。
 八重山は「ベッドに運んでください」と指示してソファに腰かけた。

「どんな感じだった?」
「最低の家庭だったとしか言えません。本当の父親の顔を知らず、母親は早逝、生き別れの妹は別の親戚に引き取られて一度も会えず。義理の両親にはひどい扱いをされ、嫌がらせも日常だったようです」

 八重山が寝かされた光矢の側に座って、額に手を置いた。髪を上げると生え際に縫い傷があった。
 千丈が「やってられないな」と舌打ちを鳴らす。

「補助金の為に寿命を満了しろって、普通言いますか? 狂ってますよ、ほんとに」
「普通の環境じゃないから、早卒センターに電話したんだろ。それより、先に《疑似黒曜》を飲ませるぞ。のんびりしてられなくなるかもしれん」

 千丈がポケットから瓶に入った黒い液体を取りだした。
 八重山が素早く受け取り、近くの引き出しからスポイトを取りだす。

「隣……やっぱりダメでしたか?」
「ああ、あの子はもう完全に壊れてた。奇跡が起これば、ってところだ」
「そうですか……千丈さんは、この子、葛切くんのこと、知ってるんですよね?」
「知り合いから聞いてた。だが、母親の死後に消息がわからなくなった。見つけたのは本当に偶然だ。羽斗から連絡があって助かった」
「この子、まだ17歳みたいです」
「IDは確認した」
「《黒曜》の寿命も?」
「19だろ」
「私、19の時はまだ幸せでした。一番楽しい時期だったかもしれません」
「俺は麻雀に、はまった時期だ」
「そういうことを言いたいんじゃありません」

 八重山がむっとした表情で千丈を見た。
 その瞬間、部屋の扉がけたたましい音を鳴らして壊れた。
 室内に異形の怪物が入ってきた。
 それは人間に似た二足歩行の化け物だった。
 目も髪もない。肌は真っ黒で、紫色の口が多数ついている。体は岩のような物体に覆われ、室内灯をにぶく反射している。
 左端の口の一つが、針のような舌を垂らし、光矢に向けた。

「隣はダメだったようだな……10分もたなかったな」
「外からって可能性は? 本人だって確証はあるんですか?」
「左腕に宝物の高級腕時計があるだろ」
「ほんとだ……最低。親を呪ってやる」
「萌は、葛切が眠っているうちに《疑似黒曜》を頼む。俺は葬送官として仕事をする。手は出すな」
「当たり前です。私は戦闘向きじゃないんですよ。車の運転だって急ぎだからって無理やり」
「その話は分かったから、俺が悪かった。帰ったらマカロンおごるから」
「マカロンじゃ釣り合いません! テリーヌチーズケーキくらいにしてください」
「なんだ、それ? っと――」

 千丈が左手を伸ばした。
 その指先には、化け物の尖った舌が挟み込まれていた。一瞬のうちにベッドに伸ばされたそれを指で止めていたのだ。

「許せよ。『良い人生を』」

 千丈はそう言って、舌を握り、自分の方へと引き寄せた。
 態勢を崩した化け物がたたらを踏む。
 引き絞った千丈の右拳が鈍器で殴るような音とともに、その横顔に打ちこまれた。
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