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楸の祟り
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一直線に、ただ破壊の衝動だけを乗せて異形の角が迫る。杳は咄嗟に身を捻って躱そうとしたが叶わず、焼けるような痛みが肩を貫いた。
「ぐ……っ!」
体ごと吹き飛ばされ背中から地面に叩きつけられる。
一瞬、息の仕方を忘れた。折れた枝が脇腹に食い込み、遅れて鈍い痛みが全身を這い上がってきた。口の中に鉄の味が広がる。
朦朧とする意識の中で黒鹿がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。その足取りは妙に落ち着き払っていて、逃げ惑う獲物を追う獣のそれとはどこか違っていた。
角の切っ先にはまだ温かい血が絡みつき、鈍い光を放っている。
――もう一度。今度こそ、とどめを刺すつもりだ。
そう理解したのに、不思議と恐怖は湧かなかった。
この子を鎮めることも里に知らせることもできない。何一つ成し遂げられないまま、ここで終わるのかという無力感だけが重く沈んでいった。
ぼやけた視界で黒鹿が角を振り上げるのが見える。木々の隙間から差し込む陽光を受けたその角が、『死』そのもののように見えた。
だが――
それは振り下ろされることなくぴたりと止まる。
黒鹿から溢れ出していた憎しみの念がわずかに揺らぐ。代わりに浮かび上がったのは、純粋な『困惑』のようなものだった。
やがて黒鹿は、一度、天を仰ぐように高く嘶く。
その声は怒りとも悲しみともつかない響きを帯びて森に広がり、次には身を翻して闇の奥へと消えていった。
残されたのは抉られた傷の痛みと、不自然なほど静まり返った森だけだった。
「……は……っ、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら杳は地面に手をつき、指先に伝わる湿った土の感触を感じながらゆっくりと身体を起こした。
肩から伝わる鈍く焼けるような痛みに、生きている実感がわいてくる。
――なぜだ。
――なぜ助かった。
答えの出ない疑問は胸の奥に引っかかったままだったが、このまま立ち止まってはいけないという焦りだけが重い身体を内側から突き動かした。
近くの木の幹を支えになんとか立ち上がり、傷の深さを確かめる余裕すらなく血を点々と地面に落としながら杳は自宅へと続く道を引きずるように歩き始めた。
「……ひどい傷だ……!」
離れの戸を開けた瞬間、亘の声が上ずる。
温厚で滅多に声を荒げることのない叔父が、明らかな動揺を隠しきれずにいる様子に、杳はぼんやりとした安堵と申し訳なさを感じた。
「すぐに手当てをしよう。ほら、ここへ」
有無を言わせぬ調子で支えられ、寝台へと横たえられる。傷口が清められ、薬草を練った軟膏が塗られるたび鈍い痛みが脈打つように走ったが、それでも歯を食いしばるほどではなかった。
杳の意識は痛みの方よりも、森の中で見たあの黒い鹿の異形に向いていた。
――どうすればいい。
――あの子をどうやって鎮めればいい。
力でねじ伏せるには、自分はあまりにも弱すぎる。
話ができるようになるまで待つのか。その間にまた誰かが死んだらどうする。理不尽な犠牲は新たなタタリを生み、土地はさらに重く沈んでいく。
それを止める役目のはずなのに、自分は何一つ成し遂げられていない。
「……困ったな……」
亘の呟きは独り言のようでいて、同時に杳自身の心の声でもあった。
室内に、押し潰すような重苦しい沈黙が落ちる。
その時だった。
『手を貸そうか?』
鼓膜を揺らす音ではない。
思考の隙間に、水が土へ染み込むように直接流れ込んできた。
――……なんだ?
沢で聞いたものと同じ。だがあのドロドロとした負の念とは明らかに質が違う。
澄んでいて、どこか理知的でひやりとする響き。
『……おまえは、なんだ。タタリか?』
声には出さず、頭の中で自然と浮かんだ言葉を投げる。
『ちがう』
即答だった。
声の主はこの家の中――もっと深く、長い時間が積もった場所から呼んでいる気がする。杳はゆっくりと身を起こした。ズキリと痛む肩を掌で押さえ、あやふやな足取りで立ち上がる。
「杳? どうしたんだ、安静に――」
「叔父さん、ちょっと……」
制止を振り切り、声の気配を辿るように廊下へ出る。
足は自然と家の地下にある倉庫へと向かっていた。古い紙と埃の匂いが鼻をつく。使われなくなった祭具や古書が雑然と積まれた、長らく忘れ去られていた空間。これまでの十五代が命を削って書き残してきた文字という呪いの山。
その奥に一冊だけ異質な重みを持つ本があった。埃に沈んだ書棚の中で、その一冊だけがまるで呼吸しているかのような存在感を放っている。
それは、黒い革の装幀が施された古びた洋書だった。
周囲の空気がわずかに冷え、音が吸い込まれていくような錯覚を覚える。
――これだ。
杳は確信とともに足を止め、痛む肩を押さえながら慎重に問いかける。
「……おまえは、なんだ」
声は地下倉庫の闇に虚しく吸われたが、すぐに耳ではなく思考の奥へと直接応答が流れ込んできた。
『杳のお祖父さんの友人だよ』
不意に名を呼ばれ、杳は心臓を突かれたように身を跳ねさせた。その声はひどく落ち着いていて、人を試すような響きも化生が人を見下すような嗤りもない。
「祖父さんに……本の友達がいるなんて聞いたことないぞ」
『私は本の中にいるんだよ。封印されてるんだ』
「封印……?」
自然と警戒が強まる。封じられているということは、外に出してはいけないものなのではないか。
「なんでだ。悪いヤツなのか?」
『悪いヤツでも』
わずかな間を置いて声は続けた。
『槐さんは、私を「友人」だと言ってくれたよ』
祖父の名が呼ばれた瞬間、杳の胸が静かに軋む。その呼び方にはただ名前を知っているだけではない、長い時間を共有した者だけが持つ親しみと敬意が滲んでいた。
『困ってるんだろ? 槐さんの孫だ。協力するよ』
「……甘言じゃないだろうな」
「封印を解かせて、悪さをするつもりじゃないだろうな」
『疑い深いのは責任感の裏返しだ。いい心がけだと思う』
声は静かに続ける。
槐との間に果たされなかった約束があること。その約束を孫である杳に引き継いでほしいと、槐が今際の際に願ったことを。
「……じゃあ」
杳は静かに、確かめるように言った。
「時々聞こえていた、タタリじゃない声は……おまえだったのか」
『そうだよ』
「……なんでそんな回りくどいことを……? 祖父さんの友人なら、叔父さんみたいにそばにいてくれたらよかったのに」
『私は人間じゃない』
これも即答だった。
「ぐ……っ!」
体ごと吹き飛ばされ背中から地面に叩きつけられる。
一瞬、息の仕方を忘れた。折れた枝が脇腹に食い込み、遅れて鈍い痛みが全身を這い上がってきた。口の中に鉄の味が広がる。
朦朧とする意識の中で黒鹿がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。その足取りは妙に落ち着き払っていて、逃げ惑う獲物を追う獣のそれとはどこか違っていた。
角の切っ先にはまだ温かい血が絡みつき、鈍い光を放っている。
――もう一度。今度こそ、とどめを刺すつもりだ。
そう理解したのに、不思議と恐怖は湧かなかった。
この子を鎮めることも里に知らせることもできない。何一つ成し遂げられないまま、ここで終わるのかという無力感だけが重く沈んでいった。
ぼやけた視界で黒鹿が角を振り上げるのが見える。木々の隙間から差し込む陽光を受けたその角が、『死』そのもののように見えた。
だが――
それは振り下ろされることなくぴたりと止まる。
黒鹿から溢れ出していた憎しみの念がわずかに揺らぐ。代わりに浮かび上がったのは、純粋な『困惑』のようなものだった。
やがて黒鹿は、一度、天を仰ぐように高く嘶く。
その声は怒りとも悲しみともつかない響きを帯びて森に広がり、次には身を翻して闇の奥へと消えていった。
残されたのは抉られた傷の痛みと、不自然なほど静まり返った森だけだった。
「……は……っ、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら杳は地面に手をつき、指先に伝わる湿った土の感触を感じながらゆっくりと身体を起こした。
肩から伝わる鈍く焼けるような痛みに、生きている実感がわいてくる。
――なぜだ。
――なぜ助かった。
答えの出ない疑問は胸の奥に引っかかったままだったが、このまま立ち止まってはいけないという焦りだけが重い身体を内側から突き動かした。
近くの木の幹を支えになんとか立ち上がり、傷の深さを確かめる余裕すらなく血を点々と地面に落としながら杳は自宅へと続く道を引きずるように歩き始めた。
「……ひどい傷だ……!」
離れの戸を開けた瞬間、亘の声が上ずる。
温厚で滅多に声を荒げることのない叔父が、明らかな動揺を隠しきれずにいる様子に、杳はぼんやりとした安堵と申し訳なさを感じた。
「すぐに手当てをしよう。ほら、ここへ」
有無を言わせぬ調子で支えられ、寝台へと横たえられる。傷口が清められ、薬草を練った軟膏が塗られるたび鈍い痛みが脈打つように走ったが、それでも歯を食いしばるほどではなかった。
杳の意識は痛みの方よりも、森の中で見たあの黒い鹿の異形に向いていた。
――どうすればいい。
――あの子をどうやって鎮めればいい。
力でねじ伏せるには、自分はあまりにも弱すぎる。
話ができるようになるまで待つのか。その間にまた誰かが死んだらどうする。理不尽な犠牲は新たなタタリを生み、土地はさらに重く沈んでいく。
それを止める役目のはずなのに、自分は何一つ成し遂げられていない。
「……困ったな……」
亘の呟きは独り言のようでいて、同時に杳自身の心の声でもあった。
室内に、押し潰すような重苦しい沈黙が落ちる。
その時だった。
『手を貸そうか?』
鼓膜を揺らす音ではない。
思考の隙間に、水が土へ染み込むように直接流れ込んできた。
――……なんだ?
沢で聞いたものと同じ。だがあのドロドロとした負の念とは明らかに質が違う。
澄んでいて、どこか理知的でひやりとする響き。
『……おまえは、なんだ。タタリか?』
声には出さず、頭の中で自然と浮かんだ言葉を投げる。
『ちがう』
即答だった。
声の主はこの家の中――もっと深く、長い時間が積もった場所から呼んでいる気がする。杳はゆっくりと身を起こした。ズキリと痛む肩を掌で押さえ、あやふやな足取りで立ち上がる。
「杳? どうしたんだ、安静に――」
「叔父さん、ちょっと……」
制止を振り切り、声の気配を辿るように廊下へ出る。
足は自然と家の地下にある倉庫へと向かっていた。古い紙と埃の匂いが鼻をつく。使われなくなった祭具や古書が雑然と積まれた、長らく忘れ去られていた空間。これまでの十五代が命を削って書き残してきた文字という呪いの山。
その奥に一冊だけ異質な重みを持つ本があった。埃に沈んだ書棚の中で、その一冊だけがまるで呼吸しているかのような存在感を放っている。
それは、黒い革の装幀が施された古びた洋書だった。
周囲の空気がわずかに冷え、音が吸い込まれていくような錯覚を覚える。
――これだ。
杳は確信とともに足を止め、痛む肩を押さえながら慎重に問いかける。
「……おまえは、なんだ」
声は地下倉庫の闇に虚しく吸われたが、すぐに耳ではなく思考の奥へと直接応答が流れ込んできた。
『杳のお祖父さんの友人だよ』
不意に名を呼ばれ、杳は心臓を突かれたように身を跳ねさせた。その声はひどく落ち着いていて、人を試すような響きも化生が人を見下すような嗤りもない。
「祖父さんに……本の友達がいるなんて聞いたことないぞ」
『私は本の中にいるんだよ。封印されてるんだ』
「封印……?」
自然と警戒が強まる。封じられているということは、外に出してはいけないものなのではないか。
「なんでだ。悪いヤツなのか?」
『悪いヤツでも』
わずかな間を置いて声は続けた。
『槐さんは、私を「友人」だと言ってくれたよ』
祖父の名が呼ばれた瞬間、杳の胸が静かに軋む。その呼び方にはただ名前を知っているだけではない、長い時間を共有した者だけが持つ親しみと敬意が滲んでいた。
『困ってるんだろ? 槐さんの孫だ。協力するよ』
「……甘言じゃないだろうな」
「封印を解かせて、悪さをするつもりじゃないだろうな」
『疑い深いのは責任感の裏返しだ。いい心がけだと思う』
声は静かに続ける。
槐との間に果たされなかった約束があること。その約束を孫である杳に引き継いでほしいと、槐が今際の際に願ったことを。
「……じゃあ」
杳は静かに、確かめるように言った。
「時々聞こえていた、タタリじゃない声は……おまえだったのか」
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