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乙夜家の長男
豆の記憶
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佐伯の朝は、日の出前に杳を務めに送り出すことから始まる。
夜の気配がまだ色濃く残る中、白湯で口をすすぎ手足に冷水をかけて簡略な禊をする。
それは、これから向き合う務めへの敬意であり、古くから続く習わしでもあった。
「行ってくる」
誰に言うでもなく呟き母屋の戸を引く。
その背中を、亘とそしていつからかそこに立つようになった及己が無言のまま見送った。
杳が務めを終えて戻り、朝餉を摂るのは陽がすっかり昇ってからだ。それから昼前までは削り取られた魂を癒やすための深い眠りにつく。そのため、朝餉は必然的に胃に負担のかからない控えめなものになる。
杳を送り出した後、亘は台所へ向かう。
これまでずっとそれが当たり前の日課だった。だが最近は、その隣にもう一つの影が立つのが常となっていた。
「及己がいると、台所が早く片付いて助かるよ」
少し重い鉄の釜も、高い棚に仕舞った干し物も、及己が涼しい顔で軽々と取り出してくれる。今も、桶に張った水の中で土のついた野菜に絡まる雑草を一本また一本と丁寧に取り除いている。その指先の動きは繊細で無駄がなかった。
「ここは十六年前とほとんど変わっていない。助かるよ」
及己は台所を一目見回し、静かに言った。
その言葉に亘は一瞬だけ手を止め、遠い目をする。
及己の言う「十六年前」とは杳がまだ首も据わらぬ赤子で、この家の主が槐だった頃のことだ。
「……おかげで、夕食の仕込みまでできそうだ」
そう言いながら亘は平鍋に薄く油を引き、丁寧に切り分けられた硬い豆腐を一枚ずつ並べていく。
じゅ、と軽やかな音が立ち、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。
やがて、及己は鍋を火から外し、匙で掬った汁を小皿に注ぐと亘へ差し出す。
「亘、味見を」
「うん」
亘はそれを受け取り、香りを確かめてから一口静かにすする。
少し考え込むように間を置いた後、卓上に置かれたあるものを指さした。
「……あとほんの少しだけ、これを」
及己は黙って頷き、指示通り備え付けの小匙で調味料を取り、鍋の中へと静かに溶かしていく。
そのやり取りを眺めながら、亘はふと、昔を思い出していた。
――最初は薊だけが立っていた台所だった。やがて腹が大きくなるにつれ、その役は槐に変わり、そして及己が手伝うようになった。
そして、自分がこの地に来てからは――。
焼き目のついた豆腐と、手元で湯気を立てる葉物野菜の味噌汁を、及己がまじまじと見つめている。
「それとこれ…トーフとミソ…だっけ…? 同じ豆が材料なんだな」
「そうだよ」
「……こんな豆の食べ方、ここで見るまで知らなかった」
「以前も同じことを言ってたね」
亘が懐かしむように笑う。
「何度見ても面白い」
その純粋な感嘆に、亘の中にふと遊び心が芽生えた。
戸棚から一つの瓶を取り出す。
「これも同じ材料だよ」
瓶の中には乾いた海綿のような、淡い黄色の塊が詰まっている。
「なに? これ」
「凍み豆腐さ。この豆腐を凍らせて、乾燥させるのを繰り返すとこうなる」
「亘が作った?」
「冬の寒い間にね。雪が降るような時しか作れない貴重な保存食なんだ」
へえ、と及己はその不思議な塊をしげしげと眺めている。
その子供のような純粋な好奇心に、亘は思わず笑みをこぼした。
「いつも手伝ってもらっているんだから、及己も一緒に食べたらいいのに。食べられるんだろう?」
「私たちは基本食事を摂らない。水を飲むだけでいい。亘の淹れる茶で十分だ。あれは旨い」
「ずっと言っているけど、遠慮しなくていいんだよ」
「いい。それは、亘たちが働いて得たものだ」
及己はそう言って、申し訳なさそうに首を横に振った。
仕込みが終わると及己は庭箒を手に取り掃除をし、亘は仏間に炊き立ての米と一番水を供え、佐伯家の墓所へ参ってから離れの医局で薬の調合を始める。
そうしてそれぞれの務めを果たしているうち、朝霧が完全に晴れる頃に杳が帰ってきた。その顔にはいつもの深い疲労の色が浮かんでいたが、今日はその手に小さな風呂敷包みが揺れている。
「ただいま。土産があるよ」
務めの帰りがけに菓子屋の奥さんに呼び止められ、先日の帳簿合わせの礼だと半ば強引に持たされたのだという。
葉物の味噌汁と浅漬け、そして半膳の米。控えめな朝餉を終えると杳は務めを終えた体を休めるため、少しばかりの眠りに身を委ねた。
目覚め、亘の仕事を手伝い、昼餉に亘が焼いた豆腐を食べ終えた後、ようやくその土産が開かれる。
現れたのは瑞々しい光を帯びたわらび餅だった。たっぷりとまぶされた淡い黄色の粉。それを見た亘が、悪戯っぽく笑いながら及己に声をかけた。
「及己。その黄色いの、それも豆腐や味噌と同じ材料だよ」
言われ、目を丸くして、わらび餅を凝視する。
「……これが?」
半透明の餅の震えるような柔らかさと、その上から立ちのぼるきな粉の甘い香りを嗅ぎながら、まじまじと見つめる。
「……豆?」
「そう」
「ダイズとかいう、あれ?」
「そう」
及己から感慨深げな吐息が漏れた。
「……全然違う。なんで、こうなる……」
その心の底からの呟きに、杳と亘は思わず顔を見合わせ笑った。
呟くその横顔に、杳が声をかける。
「おまえも食え」
「いや、私は――」
亘に言ったのと同じ理由で固辞しようとする言葉を、杳は遮った。
「これは帳簿合わせの礼だ。おまえも数字を合わせただろ」
それは施しではない。共に働いた者への正当な報酬だと。
その言葉に及己はわずかに目を見張り、やがて拒絶の言葉を飲み込んだ。
食べ方を聞きながら恐る恐るといった様子で口に運ぶ。
初めて口にするわらび餅の、ぷるりとした不思議な食感と、きな粉の香ばしく優しい甘さに思わず目を見開く。
「……なんだ、これ…………旨い」
何度も、何度も、子供のようにすごい、面白いと繰り返す。
その様子を、亘と杳は、ただニコニコと見つめていた。
その日の午後、杳は土地の畑仕事を手伝いに出かけた。
食器の片付けを終えた及己は一人、縁側に腰を下ろし亘が用意していた茶を啜る。
縁側から見える静かな庭。片付けを終えた居間には、まだきな粉の香ばしい匂いが微かに残っている。
庭の木々が穏やかな風に揺れていた。
その風景に、ふと、遠い日の記憶が重なる。
――あの時は、ここに槐さんと並んで座り、草餅というものを食べた。
薊の腹が日に日に大きくなっていく頃だっただろうか。
薬草に似た独特の苦みと、それを包む甘さ。中に入っていた餡という黒いものの、濃厚な甘味。
そういえば、あの餡もまた豆からできている、と槐は笑っていた。
――面白い。本当に、面白い。
――食の愉しみを教えてくれたのは、いつだって人間だった。
十六年前、この家で初めて台所に立ったのは薊の負担を軽くするためだった。
やがて亘が来て、男一人と人外一人でまだ見ぬ子の誕生を待ちながら、今と同じように並んで台所に立った。
そして、杳が生まれ、薊が逝き、槐が逝き、自分は本の中へと戻った。そして、十五年の時が過ぎ、再びこの縁側に座っている。
隣にいる者は変わった。
けれど、この家に流れる空気の温かさだけは何も変わっていない。
及己は静かに目を閉じる。
頬を撫でる風の中に、遠い日の草餅の、ほのかな苦みと甘さを確かに感じたような気がした。
夜の気配がまだ色濃く残る中、白湯で口をすすぎ手足に冷水をかけて簡略な禊をする。
それは、これから向き合う務めへの敬意であり、古くから続く習わしでもあった。
「行ってくる」
誰に言うでもなく呟き母屋の戸を引く。
その背中を、亘とそしていつからかそこに立つようになった及己が無言のまま見送った。
杳が務めを終えて戻り、朝餉を摂るのは陽がすっかり昇ってからだ。それから昼前までは削り取られた魂を癒やすための深い眠りにつく。そのため、朝餉は必然的に胃に負担のかからない控えめなものになる。
杳を送り出した後、亘は台所へ向かう。
これまでずっとそれが当たり前の日課だった。だが最近は、その隣にもう一つの影が立つのが常となっていた。
「及己がいると、台所が早く片付いて助かるよ」
少し重い鉄の釜も、高い棚に仕舞った干し物も、及己が涼しい顔で軽々と取り出してくれる。今も、桶に張った水の中で土のついた野菜に絡まる雑草を一本また一本と丁寧に取り除いている。その指先の動きは繊細で無駄がなかった。
「ここは十六年前とほとんど変わっていない。助かるよ」
及己は台所を一目見回し、静かに言った。
その言葉に亘は一瞬だけ手を止め、遠い目をする。
及己の言う「十六年前」とは杳がまだ首も据わらぬ赤子で、この家の主が槐だった頃のことだ。
「……おかげで、夕食の仕込みまでできそうだ」
そう言いながら亘は平鍋に薄く油を引き、丁寧に切り分けられた硬い豆腐を一枚ずつ並べていく。
じゅ、と軽やかな音が立ち、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。
やがて、及己は鍋を火から外し、匙で掬った汁を小皿に注ぐと亘へ差し出す。
「亘、味見を」
「うん」
亘はそれを受け取り、香りを確かめてから一口静かにすする。
少し考え込むように間を置いた後、卓上に置かれたあるものを指さした。
「……あとほんの少しだけ、これを」
及己は黙って頷き、指示通り備え付けの小匙で調味料を取り、鍋の中へと静かに溶かしていく。
そのやり取りを眺めながら、亘はふと、昔を思い出していた。
――最初は薊だけが立っていた台所だった。やがて腹が大きくなるにつれ、その役は槐に変わり、そして及己が手伝うようになった。
そして、自分がこの地に来てからは――。
焼き目のついた豆腐と、手元で湯気を立てる葉物野菜の味噌汁を、及己がまじまじと見つめている。
「それとこれ…トーフとミソ…だっけ…? 同じ豆が材料なんだな」
「そうだよ」
「……こんな豆の食べ方、ここで見るまで知らなかった」
「以前も同じことを言ってたね」
亘が懐かしむように笑う。
「何度見ても面白い」
その純粋な感嘆に、亘の中にふと遊び心が芽生えた。
戸棚から一つの瓶を取り出す。
「これも同じ材料だよ」
瓶の中には乾いた海綿のような、淡い黄色の塊が詰まっている。
「なに? これ」
「凍み豆腐さ。この豆腐を凍らせて、乾燥させるのを繰り返すとこうなる」
「亘が作った?」
「冬の寒い間にね。雪が降るような時しか作れない貴重な保存食なんだ」
へえ、と及己はその不思議な塊をしげしげと眺めている。
その子供のような純粋な好奇心に、亘は思わず笑みをこぼした。
「いつも手伝ってもらっているんだから、及己も一緒に食べたらいいのに。食べられるんだろう?」
「私たちは基本食事を摂らない。水を飲むだけでいい。亘の淹れる茶で十分だ。あれは旨い」
「ずっと言っているけど、遠慮しなくていいんだよ」
「いい。それは、亘たちが働いて得たものだ」
及己はそう言って、申し訳なさそうに首を横に振った。
仕込みが終わると及己は庭箒を手に取り掃除をし、亘は仏間に炊き立ての米と一番水を供え、佐伯家の墓所へ参ってから離れの医局で薬の調合を始める。
そうしてそれぞれの務めを果たしているうち、朝霧が完全に晴れる頃に杳が帰ってきた。その顔にはいつもの深い疲労の色が浮かんでいたが、今日はその手に小さな風呂敷包みが揺れている。
「ただいま。土産があるよ」
務めの帰りがけに菓子屋の奥さんに呼び止められ、先日の帳簿合わせの礼だと半ば強引に持たされたのだという。
葉物の味噌汁と浅漬け、そして半膳の米。控えめな朝餉を終えると杳は務めを終えた体を休めるため、少しばかりの眠りに身を委ねた。
目覚め、亘の仕事を手伝い、昼餉に亘が焼いた豆腐を食べ終えた後、ようやくその土産が開かれる。
現れたのは瑞々しい光を帯びたわらび餅だった。たっぷりとまぶされた淡い黄色の粉。それを見た亘が、悪戯っぽく笑いながら及己に声をかけた。
「及己。その黄色いの、それも豆腐や味噌と同じ材料だよ」
言われ、目を丸くして、わらび餅を凝視する。
「……これが?」
半透明の餅の震えるような柔らかさと、その上から立ちのぼるきな粉の甘い香りを嗅ぎながら、まじまじと見つめる。
「……豆?」
「そう」
「ダイズとかいう、あれ?」
「そう」
及己から感慨深げな吐息が漏れた。
「……全然違う。なんで、こうなる……」
その心の底からの呟きに、杳と亘は思わず顔を見合わせ笑った。
呟くその横顔に、杳が声をかける。
「おまえも食え」
「いや、私は――」
亘に言ったのと同じ理由で固辞しようとする言葉を、杳は遮った。
「これは帳簿合わせの礼だ。おまえも数字を合わせただろ」
それは施しではない。共に働いた者への正当な報酬だと。
その言葉に及己はわずかに目を見張り、やがて拒絶の言葉を飲み込んだ。
食べ方を聞きながら恐る恐るといった様子で口に運ぶ。
初めて口にするわらび餅の、ぷるりとした不思議な食感と、きな粉の香ばしく優しい甘さに思わず目を見開く。
「……なんだ、これ…………旨い」
何度も、何度も、子供のようにすごい、面白いと繰り返す。
その様子を、亘と杳は、ただニコニコと見つめていた。
その日の午後、杳は土地の畑仕事を手伝いに出かけた。
食器の片付けを終えた及己は一人、縁側に腰を下ろし亘が用意していた茶を啜る。
縁側から見える静かな庭。片付けを終えた居間には、まだきな粉の香ばしい匂いが微かに残っている。
庭の木々が穏やかな風に揺れていた。
その風景に、ふと、遠い日の記憶が重なる。
――あの時は、ここに槐さんと並んで座り、草餅というものを食べた。
薊の腹が日に日に大きくなっていく頃だっただろうか。
薬草に似た独特の苦みと、それを包む甘さ。中に入っていた餡という黒いものの、濃厚な甘味。
そういえば、あの餡もまた豆からできている、と槐は笑っていた。
――面白い。本当に、面白い。
――食の愉しみを教えてくれたのは、いつだって人間だった。
十六年前、この家で初めて台所に立ったのは薊の負担を軽くするためだった。
やがて亘が来て、男一人と人外一人でまだ見ぬ子の誕生を待ちながら、今と同じように並んで台所に立った。
そして、杳が生まれ、薊が逝き、槐が逝き、自分は本の中へと戻った。そして、十五年の時が過ぎ、再びこの縁側に座っている。
隣にいる者は変わった。
けれど、この家に流れる空気の温かさだけは何も変わっていない。
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