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「なんだよ、オタクくん。こんなところに呼び出して」
埃が被った長机を指先でなぞり、俺の背丈より縦にも横にもデカい男を見上げる。巨漢という言葉が似合う彼はふがふがと鼻で呼吸をしながら、指紋だらけのメガネ越しにこちらへ視線を遣っている。
外から差し込む夕日が、緑色とも水色とも言い難いカーテンに遮られている。隙間から溢れる微かな光が、俺たちの輪郭を浮かび上がらせていた。
外からは運動部の声が聞こえてくる。学校が終わっても運動するだなんてご苦労なこった、と心の中で息を吐いた。
「で、マジでなに。黙ってんなよ。ダルいんだけど」。俺は威嚇するように唇をへの字にして、彼────城上幸彦を睨む。彼は口を噤んだままだ。俺は舌打ちをして窓際に寄りかかり、腕を組む。
────喧嘩売ってるってわけじゃ、なさそうだよな。
城上は大男だ。贅肉が多いが、それでも俺のような細身の男が敵う相手ではない。半袖から覗く腕は俺の二倍ほどはありそうだ。
そんな男に喧嘩でも売られたら、どうしようか。俺は背中に、冷や汗をかいていた。
別に俺は喧嘩がしたいわけじゃない。虚勢を張って「やんのかコラ?」とオラつくのが限界だ。そうやって今まで、自分のプライドを保って生きてきた。そもそも、拳で語り合うなんて古臭い。今時、そんなの流行らないだろ。
未だに何も言わない城上を見兼ねて俺はため息を漏らした。スカスカの、中身が入っていないスクールバッグを持ち直し、彼の隣を通り過ぎる。「用事がないなら、俺は帰るから」。そう言い残し、今では使われていない、長らく掃除もされていないであろう自習室を出ようとした。
「河崎くん」
呼び止められ、俺は振り返る。瞬間、顔面に何かがぶつかった。「ひぎゅ」。情けない声を漏らし、尻餅をつく。どたんと鈍い音が響き、埃が舞った。「いって……」。何が起こったか分からず、ただ鼻先に走った衝撃と痛みに耐えていると、足首を掴まれた。そのまま、ぐいと引き寄せられる。
「なに、な、なに、何、えっ、な────」
パニックになっている俺を自分の元へ引き摺った城上の顔は、夕日に逆光していた。どんな表情をしているのか謎であったが、俺は恐怖に身を強張らせた。鼻面を殴られた衝撃も然る事ながら、彼の孕む雰囲気にも恐怖心を煽られる。
両足首を掴まれ、俺はハッと我に返った。「何してんだ、テメェ」。叫んだ声は裏返って、震えていた。自分でも情けないほどだ。足を動かして拘束を解こうとしたが、ビクともしない。察してはいたが、彼の力はとんでもなく強かった。呼吸が乱れ、指先が震えた。先程、殴られた衝撃で滲んだ涙がポロリと伝落ちる。
「泣いてるのも、いいね」
抑揚のない声が鼓膜に届いた。額に滲んだ汗が、油っぽい前髪を濡らしている。荒い鼻息が、俺たちの間に流れた。彼は唾液をごくりと嚥下し、目だけを細める。「すごく、いい」。
────な、何が?
俺は訳が分からず、固まった。人中に流れる温かな鼻血だけが、この空間で一番現実味があるものだった。重力に逆らえず垂れたそれを見て、城上がゆっくりと俺に近づいた。
そのまま、べろりと鼻血を舐め上げる。
「ひっ!」
俺は鋭い悲鳴をあげて、彼の顔を叩いた。しかし、城上はその数倍の力で頬を殴り返してきた。「抵抗しないでほしい。俺、手加減できないから」。ジンと痛む頬からじわじわと熱が帯び、目の奥がずきりと痛んだ。鼓膜の奥で心臓の音がリフレインする。ぐわんと目の前が揺れた。肩で呼吸を繰り返しながら、城上を見上げる。彼は呆然とした俺を無視し、自分のスクールバッグを漁り出す。拘束が解かれた隙を狙って身を捩り、逃げようとした。
「河崎くん、どこ行くの」
表情筋を一つも動かすことなく、彼がいつも通りの声を出した。再び足首を掴まれる。骨が折れるほど強く握られ、悲鳴をあげた。
────不気味だ。
いつも思ってたことだ。教室の隅で身を縮こませてひっそりと本を読む、巨漢。いじられても馬鹿にされても、無表情で何も言い返さない。「なんだよあいつ、変なの」と揶揄われても、まるで耳に膜が張っているかのように聞き入れず無視をし続ける、そんなやつ。掴みどころがなくて、薄気味悪い、そんな男。
「抵抗したら、これで刺すからね」
カチカチと音が聞こえ、俺は息を止めた。城上は手に持ったカッターの刃を出し、俺の足に押し当てる。目の前が歪み、歯の根が合わなくなる。震えに気がついた城上が、じっとりと俺を見つめた。
「声を上げたら、これで刺す」
「そ、そんなことしたら、お前もただじゃ済まない、だろ」
必死の抵抗だった。この言葉を吐くことさえ、今の俺には精一杯の行動だ。反論した瞬間に、刺されるかもしれない。けれど、俺を刺したら最後、城上だってただじゃ済まないはずだ。学校を去ることになるだろうし、下手したらこの地域に住み続けることだって危うい。同級生を刺した、だなんて知れたら、親も同罪として世間から冷たい眼差しを注がれるはずだ。
「別にいいよ」
「へっ」
「別に、いいよ。その覚悟でやってるから。どうなろうと構わない。失うものなんて何もない。そもそも躊躇があったらこんなこと、しない」
俺はその言葉を聞いて、失神しそうになった。これが所謂、無敵の人ってやつか。言葉の意味を実感し、一気に体から力が抜ける。
俺の心境など知りもしないであろう城上は、再びスクールバッグを漁り出す。麻縄を取り出し、俺の手首に巻きつけた。頭上に固定し、強く縛る。チクチクとした感覚と、縛られた痛みにも反応できないほど、俺は混乱していた。
────殺される。
今から、俺は殺される。あのカッターナイフで、刺されて、命を落とすのだ。どうして? どうして俺が? 分からない。城上を馬鹿にしたことは確かにある。図体がでかいくせに縮こまって本を読んでる姿が面白くて、笑ったり、運動がイマイチ下手くそで、揶揄ったりしたことがある。
────その報いを受けるのか?
冗談じゃないか、あんなの。ただほんのちょっと、友達が笑うから、つられて笑ったり揶揄ったりしただけだ。それがまさか、こんなことになるなんて。
俺はボロボロと涙をこぼした。こんな薄汚い埃被った教室で、俺は死んでいくんだ。嗚咽が止まらなくなり、喉が狭まった。
埃が被った長机を指先でなぞり、俺の背丈より縦にも横にもデカい男を見上げる。巨漢という言葉が似合う彼はふがふがと鼻で呼吸をしながら、指紋だらけのメガネ越しにこちらへ視線を遣っている。
外から差し込む夕日が、緑色とも水色とも言い難いカーテンに遮られている。隙間から溢れる微かな光が、俺たちの輪郭を浮かび上がらせていた。
外からは運動部の声が聞こえてくる。学校が終わっても運動するだなんてご苦労なこった、と心の中で息を吐いた。
「で、マジでなに。黙ってんなよ。ダルいんだけど」。俺は威嚇するように唇をへの字にして、彼────城上幸彦を睨む。彼は口を噤んだままだ。俺は舌打ちをして窓際に寄りかかり、腕を組む。
────喧嘩売ってるってわけじゃ、なさそうだよな。
城上は大男だ。贅肉が多いが、それでも俺のような細身の男が敵う相手ではない。半袖から覗く腕は俺の二倍ほどはありそうだ。
そんな男に喧嘩でも売られたら、どうしようか。俺は背中に、冷や汗をかいていた。
別に俺は喧嘩がしたいわけじゃない。虚勢を張って「やんのかコラ?」とオラつくのが限界だ。そうやって今まで、自分のプライドを保って生きてきた。そもそも、拳で語り合うなんて古臭い。今時、そんなの流行らないだろ。
未だに何も言わない城上を見兼ねて俺はため息を漏らした。スカスカの、中身が入っていないスクールバッグを持ち直し、彼の隣を通り過ぎる。「用事がないなら、俺は帰るから」。そう言い残し、今では使われていない、長らく掃除もされていないであろう自習室を出ようとした。
「河崎くん」
呼び止められ、俺は振り返る。瞬間、顔面に何かがぶつかった。「ひぎゅ」。情けない声を漏らし、尻餅をつく。どたんと鈍い音が響き、埃が舞った。「いって……」。何が起こったか分からず、ただ鼻先に走った衝撃と痛みに耐えていると、足首を掴まれた。そのまま、ぐいと引き寄せられる。
「なに、な、なに、何、えっ、な────」
パニックになっている俺を自分の元へ引き摺った城上の顔は、夕日に逆光していた。どんな表情をしているのか謎であったが、俺は恐怖に身を強張らせた。鼻面を殴られた衝撃も然る事ながら、彼の孕む雰囲気にも恐怖心を煽られる。
両足首を掴まれ、俺はハッと我に返った。「何してんだ、テメェ」。叫んだ声は裏返って、震えていた。自分でも情けないほどだ。足を動かして拘束を解こうとしたが、ビクともしない。察してはいたが、彼の力はとんでもなく強かった。呼吸が乱れ、指先が震えた。先程、殴られた衝撃で滲んだ涙がポロリと伝落ちる。
「泣いてるのも、いいね」
抑揚のない声が鼓膜に届いた。額に滲んだ汗が、油っぽい前髪を濡らしている。荒い鼻息が、俺たちの間に流れた。彼は唾液をごくりと嚥下し、目だけを細める。「すごく、いい」。
────な、何が?
俺は訳が分からず、固まった。人中に流れる温かな鼻血だけが、この空間で一番現実味があるものだった。重力に逆らえず垂れたそれを見て、城上がゆっくりと俺に近づいた。
そのまま、べろりと鼻血を舐め上げる。
「ひっ!」
俺は鋭い悲鳴をあげて、彼の顔を叩いた。しかし、城上はその数倍の力で頬を殴り返してきた。「抵抗しないでほしい。俺、手加減できないから」。ジンと痛む頬からじわじわと熱が帯び、目の奥がずきりと痛んだ。鼓膜の奥で心臓の音がリフレインする。ぐわんと目の前が揺れた。肩で呼吸を繰り返しながら、城上を見上げる。彼は呆然とした俺を無視し、自分のスクールバッグを漁り出す。拘束が解かれた隙を狙って身を捩り、逃げようとした。
「河崎くん、どこ行くの」
表情筋を一つも動かすことなく、彼がいつも通りの声を出した。再び足首を掴まれる。骨が折れるほど強く握られ、悲鳴をあげた。
────不気味だ。
いつも思ってたことだ。教室の隅で身を縮こませてひっそりと本を読む、巨漢。いじられても馬鹿にされても、無表情で何も言い返さない。「なんだよあいつ、変なの」と揶揄われても、まるで耳に膜が張っているかのように聞き入れず無視をし続ける、そんなやつ。掴みどころがなくて、薄気味悪い、そんな男。
「抵抗したら、これで刺すからね」
カチカチと音が聞こえ、俺は息を止めた。城上は手に持ったカッターの刃を出し、俺の足に押し当てる。目の前が歪み、歯の根が合わなくなる。震えに気がついた城上が、じっとりと俺を見つめた。
「声を上げたら、これで刺す」
「そ、そんなことしたら、お前もただじゃ済まない、だろ」
必死の抵抗だった。この言葉を吐くことさえ、今の俺には精一杯の行動だ。反論した瞬間に、刺されるかもしれない。けれど、俺を刺したら最後、城上だってただじゃ済まないはずだ。学校を去ることになるだろうし、下手したらこの地域に住み続けることだって危うい。同級生を刺した、だなんて知れたら、親も同罪として世間から冷たい眼差しを注がれるはずだ。
「別にいいよ」
「へっ」
「別に、いいよ。その覚悟でやってるから。どうなろうと構わない。失うものなんて何もない。そもそも躊躇があったらこんなこと、しない」
俺はその言葉を聞いて、失神しそうになった。これが所謂、無敵の人ってやつか。言葉の意味を実感し、一気に体から力が抜ける。
俺の心境など知りもしないであろう城上は、再びスクールバッグを漁り出す。麻縄を取り出し、俺の手首に巻きつけた。頭上に固定し、強く縛る。チクチクとした感覚と、縛られた痛みにも反応できないほど、俺は混乱していた。
────殺される。
今から、俺は殺される。あのカッターナイフで、刺されて、命を落とすのだ。どうして? どうして俺が? 分からない。城上を馬鹿にしたことは確かにある。図体がでかいくせに縮こまって本を読んでる姿が面白くて、笑ったり、運動がイマイチ下手くそで、揶揄ったりしたことがある。
────その報いを受けるのか?
冗談じゃないか、あんなの。ただほんのちょっと、友達が笑うから、つられて笑ったり揶揄ったりしただけだ。それがまさか、こんなことになるなんて。
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