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第二章 修行時代

第10話 チェストの中の手紙

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 気がついた時には、もう夜が明けていた。
 レーキはマーロン師匠の寝室の床で、震えながら目を覚ました。
 寒かった。ひどく疲れていて、体の芯から寒くて、凍えそうだった。
 心の中にぽっかりと穴が開いていて、そこから大切なものが流れ出しているような気がした。
 部屋の中は、嵐が飛び込んできた後のように、さまざまな物が散乱していた。それが、昨晩の出来事が夢ではなかったのだと、無言のうちに物語る。
 顔の直ぐ隣に、不思議に滑らかな石が落ちていた。美しい飾り板に縁取られた、灰色の石。
 それはかつてマーロン師匠の王珠おうじゅだったもの。
 それを掴んでレーキはのろのろと、身を起こした。背に羽に鈍い痛みが走る。
「……痛っ……!」
 痛みに萎えそうになる気力を振り絞って、ベッドまでどうにか近寄る。そこには、息を引き取ったままの姿でマーロン師匠が横たわっていた。
 その姿を見ても心の中はやけに静かで。いつまでたっても、悲しいという感情が胸の中に沸き上がってくる気配はなかった。
 信じたくないという想いが、心の中をただ真っ白に染めていた。
「師匠……」
 枯れ木のような手は、ひどく冷たい。まるで氷のようだ。
 痩せても弾力を持っていた指先も強張って、握りしめても反応はない。
 だめだった。師匠は帰ってこなかった。ってしまった。永久に。
 レーキは初めてマーロン師匠の『死』を認識した。

 もう、師匠は目を覚まさない。笑わない。俺を呼んではくれない。

 張り詰めていたものが、遂にレーキの中で弾け飛んだ。涙が、視界をぼやけさせて行くのを、他人事のように感じていた。
 レーキは唇をかみ締めて、声を上げて泣いた。泣いても泣いても、胸の辺りに開いた穴を埋めるには、まだ足りないような気がした。
 ──俺は取り残されたのだ。世界にたった一人。無くなってしまった。大切なもの。全部。
 その上、呪いまでかけられた。俺はもう二度と人を愛することは出来ない。俺が愛した人は俺より先に死んでしまうのだから。俺はただ師匠に生きていて欲しかっただけなのに。
「死の王よ! 俺は貴方を恨むっ! 心の底からっ!」
 まぶたは直ぐに腫れ上がった。いっそこのまま消えて無くなってしまえたらと思った。いつまでも涙が止まらなかった。
 深く深く、絶望していた。マーロン師匠と一緒に。こうか。そんな考えが頭の中をよぎる。
 それが良いのかもしれない。最愛の人を失う、こんな苦しみを繰り返すくらいなら、たった今死んでしまった方がずっとしあわせかもしれない。
 どうやって死のうか。逡巡しゅんじゅんを繰り返すうちに、いつの間にやら昼近くなって。
 レーキは家を出た。飛び出したという方が正しいのかもしれない。また風が冷たい季節だというのに上着も持たず、節々の痛みにあえぐ体を引きずって。
 最後に飛ぼうと思った。空を飛んで、そのまま地に叩きつけられるのも良いかと。
 何度か羽ばたいた。骨は折れていないみたいだ。傷みはあるけれど飛ぶことに支障はない。
 思いっきり大地をけって飛び上がり、気がついた。
 小さな人影が、こちらへ向かっていた。レーキと、そしてマーロン師匠が暮らしていたこの小屋へと。レーキに鷹類の目はないけれど。シルエットに見覚えがある。暖かなフェルトのコートを着たその人影は、紛れもなくラエティアのもの。
『汝は我が領域を侵した。汝は呪いを受けねばならぬ。汝が愛した者は必ず汝よりも先に我が領土の住人となるであろう』
 あの声が耳の奥によみがえる。だめだ。だめだ。まだ死んではならない。
 今俺が死んだら。彼女は、ラエティアは、たった十六年で生涯を終えることになる。
 レーキは愕然がくぜんとする。
 今になって悟ってしまった。彼女の微笑が、彼女の仕草が、愛しい。とても大切なものであるという事を。
 ラエティアが歩を止めた。レーキが迎えに出てきたのだと勘違いしたか、こちらを見上げて手を振っているのが分かった。
 絶望に打ちひしがれて、レーキはラエティアのかたわらに降り立つ。彼女の微笑みを見ていて、こんな心苦しさに襲われたのは初めてだった。
「おはよう。レーキ。今ならまだ昼ごはんに間に合うかと思って……」
 たずさえたバスケットには、チーズと、果実酒のびんが入っている。紙のようなレーキの顔色に、ただならぬものを感じ取ってラエティアは口ごもった。
 レーキはゆっくりと首を横に振る。
「だめなんだ……もう。昨日、夜中に……師匠は……」
 ごとん。ラエティアの手からバスケットが落ちた。驚きに見開かれた目。小さな、桜貝のような唇が震える。
「……ああ……なんて……マーロン様……っ」
 ラエティアはがっくりと泣き崩れた。彼女は、あわてて腕を差し出したレーキにすがり付いて、泣く。彼女にとって、マーロン師匠は尊敬すべき天法士であるとともに、名付け親でもあった。
 温かいラエティアを抱き寄せて、レーキは泣き出さずにいられなかった。

 葬儀は、盛大に行われた。
 大きな街や都市での盛大さと比べたら大層慎ましやかなものではあったが、こんな辺鄙へんぴな村では他に例がないくらい沢山の人々が老法士の死をいたんで参列した。

 レーキが泣き出してしまうと、ラエティアは驚き、かえって冷静さを取り戻したようで、彼を小屋まで連れて行って湯を沸かし、香草から煮出したお茶をれた。
 言われるままにそれを飲むレーキは、涙を拭おうともせず呆然とあらぬ方を見つめて放心している。
 ラエティアは訃報ふほうを村人に知らせに走り、それからずっとレーキのそばに付き添った。
 葬儀の段取りをつけたのは、ひげを生やした高齢の村長で、墓の場所を決めたのはその妻だった。
 村のすぐ近く、共同墓地の一段高くなった辺り。春になると美しい花が多く咲いているそこがいいと。レーキはこの家のそばが良いと思ってはいたが、口に出す機会は無かった。
 提案は受け入れられ、葬送の儀式の日取りが決まり、棺桶が運ばれて、何もかもがレーキの上を素通りしていく。
 お悔やみを言う者があった。励まそうとする者もあった。レーキは黙って頷いて、かつては王珠おうじゅであった灰色の石を握り締める。
 早く一人になりたかった。静かにそっとしておいて欲しかった。マーロン師匠とレーキの物だった家には、入れ替わり立ち代わり村人達が出入りする。レーキには居場所が無い。

 マーロン師匠の葬儀から二週間、ようやく、小屋の中が静かになった。
 毎日のようにやってきて、何かれと無く世話を焼いてくれたラェティアも、昨日家に帰って行った。
 やっと一人になった。レーキはため息をついた。ラエティアの優しさには感謝している。
 だが、彼女を見る度に湧き上がってくる不安はどうしても心に深く根を張って、離れては行ってくれない。
 村の人たちの尽力はありがたかった。励ましてくれようとする気持ちも。でも、今は一人になれてほっとしている。
 小屋の中にある物は、みな、師匠との思い出を彷彿ほうふつさせる。
 小さな傷や染みにも、よぎる思い出があった。レーキはふらふらと家の中を彷徨さまよう。
 もう、涙は出てこない。でも。胸の奥にこみ上げて来る物のせいで苦しかった。
 レーキは何気なく、居間にある小さなチェストをあける。そこは、書類などを入れていた引き出しだった。そこに、見覚えの無い手紙が入っていた。
 まだ新しい表書きのインク。二通あったその手紙の、一通には『レーキへ』と、マーロン師匠の細い筆跡で書かれていた。
 慌てて封を切る。そこにはこう記されていた。

『レーキへ。お前がこの手紙を読む頃、私はこの世に居ないでしょう。
そこでこの手紙を残します。一緒に引き出しに入っていた手紙がありますね? それをヴァローナ学究がっきゅうやかた・国立天法院てんぽういん在、ストラト・コッパーに届けなさい。そのための旅費はこのチェストの下の引き出しに入っています。お前の行く道をいつでも良い炎が照らしてくれますように。 アカンサス・マーロン』

 引き出しに入っていたもう一通の手紙には、『ストラト・コッパー様へ』と表書きがしたためてあった。
 コッパー。覚えのある名だ。いつか師匠が話してくれた、旅の仲間達。魔人を退治してから、研究のために天法院に行ったと言う法士。
 一体、何の手紙なのだろう。日に透かしてみても中身は見えない。
 師匠の遺言なら、届けるしかない。どん底へと沈んでいた心に、一筋明るい光が投げかけられる。悲しみに打ちひしがれてただうずくまっているより、見知らぬ土地へとおもむくほうが何倍もましだ。何かしていれば、生きる気力を取り戻すことが出来る。
 昼食を作って持ってきてくれたラエティアに相談すると、驚きながらも賛成してくれた。
「……久しぶりにね、とっても良い顔してる。このままレーキがずっと立ち直れなかったらどうしようって、思ってた」
 嬉しそうに笑って涙ぐむラエティアを見て、少しだけ心が痛んだ。旅に出たいと心を決めたのは、このまま彼女のそばにいる事に苦痛を感じ始めていたせいもある。
 彼女が悪い訳じゃない。ただ、彼女を愛しいと思う度、同時に彼女の寿命を縮めているような気がしてならないのだ。少しだけ離れよう。旅をして、自分を見つめなおす。
 そのためにもヴァローナへと向かおう。レーキはそう決心した。
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