Brain/赤の章

新田朝弥

文字の大きさ
7 / 11
第1章/笑うピエロ Missing children

1-⑥/Retreat and Resolve

しおりを挟む
 扉の向こうは、夜だった。

 団地の外灯が遠くで滲み、部屋の床一面を淡く照らしている。
 ピエロの姿は、もうどこにもない。気配すら残っていなかった。

 神津さんは舌打ちを一つ残し、スマートフォンを取り出した。

「……所長に連絡する」

 短く、それだけ言う。
 感情を抑え込んだ声だった。

 私は壁にもたれ、ゆっくりと呼吸を整えた。頭痛は引かない。視界の端が、まだ時折ちらつく。能力を酷使した反動だと、自分でも分かっていた。

「夜間。刃物所持。明確な殺意あり……」

 神津さんが、通話越しに状況を簡潔に報告していく。

「……ええ。俺もそう思います。ここは一旦、引いた方が──」

 “引く”という言葉が、胸に刺さった。

 正しい判断だ。
 夜の団地。一般人が生活する場所。
 これ以上続ければ、誰かが傷つく。

 神津さんは通話を終えると、私の方を見た。

「所長も同意見だ。今日は撤退する。警察にも連絡を入れる」

「……はい」

 声が、思ったより掠れていた。

「救急、呼ぶか?」

「いえ……歩けます」

 立ち上がろうとして、膝が笑った。
 神津さんが反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。

 ──気を遣わせている。

 それが、何より悔しかった。

「……送る」

「大丈夫です。駅までなら」

 一瞬、言い争いになりかけて、神津さんが折れた。

「……無理はするな」

 その言葉が、重い。

 建物を出ると、夜風が頬を打った。
 団地の灯りは、どれも等しく穏やかで、さっきまでの出来事が嘘みたいだった。

 神津さんと別れ、私は一人、駅とは逆方向へ歩き出す。

 ──団地の中へ。

 自分でも、何をしようとしているのか分かっていた。

 四〇八号室。
 あの部屋の、違和感。
 ピエロが潜んでいた痕跡。
 それだけじゃない。
 あの部屋は、“使われていた”にしては、整いすぎていた。
 生活感の配置が、どこか不自然だった。

 私は、確認しなければならなかった。

 頭が痛む。
 視界が滲む。
 それでも、足は止まらない。

「……少しだけ」

 誰に言い訳するでもなく、呟く。

 団地の中庭を抜け、D棟を見上げる。
 四階の窓は、すべて暗い。
 あまりにも、静かだ。

 昼間と違い、夜の団地は“箱”のようだった。
 人の生活が、薄い壁の内側に押し込められている。

 階段を上る。
 足音が、やけに大きく響く。

 四階。
 四〇八号室の前に立つ。

 ここに来たことを、後悔はしていなかった。
 むしろ、はっきりと理解する。

 私はもう、逃げる側じゃない。

 ゆっくりと、ドアに手を伸ばす。
 
 ドアに触れた瞬間、胸の奥がざわついた。

 ──この部屋は、まだ“使われている”。

 私は音を殺し、四〇八号室の中へ滑り込んだ。
 懐中電灯は使わない。外灯の光が、カーテンの隙間から淡く差し込み、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。

 昼間と同じ配置。
 ランドセル。段ボール。画用紙。

 それなのに、決定的に違う。

 空気が、澱んでいない。
 人が、ついさっきまで居た部屋の匂いだ。

 私は、壁一面に貼られた絵を改めて見た。
 子供の絵。ピエロ。風船。

 ……やっぱり、多すぎる。

 異常性を演出するにしては、過剰だ。
 しかも、その“異常”は、妙に統一されている。

 工場の光景が、脳裏に重なる。

 二階の広い空間。
 床に置いてあった、風船。

 あれは、象徴なんかじゃない。

「……視線を、集めるため?」

 小さく呟く。

 人の目を、一点に集中させるための小道具。
 他の物から、注意を逸らすための。

 だから、工場には生活の痕跡がなかった。
 代わりに、風船だけが置かれていた。

 まるで、
 「ここだけ見ていればいい」
 とでも言うみたいに。

 胸の奥が、ひやりと冷える。

 私は視線を落とした。

 部屋の隅に転がる、ピンク色のスニーカー。
 乃村リコちゃんの靴。

 昼間よりも、細部がはっきり見える。
 サイズ。擦り切れた踵。紐の結び方。

 ……小さい。

 その瞬間、脳の奥が、嫌な音を立てた。

 工場で対峙したピエロ。
 跳ねるように動いた足元。

 ──スニーカー。

 白くて、ありふれた形。
 でも、不思議と記憶に引っかかっている。

「……どこかで……」

 思い出しかけて、止まる。

 頭痛が、きつくなった。
 能力が、勝手に反応しそうになる。

 駄目。
 ここで“見たら”、立っていられなくなる。

 私は深く息を吸い、無理やり思考を切り離す。
 それでも、断片は浮かんでくる。

 玄関。
 無造作に置かれた靴。
 揃えられていないスニーカー。

 知らないはずなのに、知っている光景。

「……偶然……だよね」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 被害者の持ち物と、
 工場で見た靴と、
 過去にどこかで見た記憶。

 それらが、一本の線になりかけている。

 でも、まだだ。

 証拠が足りない。
 何より、それを認めるには──あまりにも、近すぎる。

 私は視線を逸らし、部屋をもう一度見回した。

 ここは、住処じゃない。
 必要な時だけ使う場所だ。

 必要な物だけ置いて、あとは派手な物で飾る。
 ……そういう“部屋”に見える。

 風船も、絵も、
 すべては“隠すため”。

 何を?

 ──考えるな。

 頭が、限界を訴えている。

 私は静かに玄関へ戻り、靴を履く。
 ドアノブに手を掛けた、その時。

 ふと、思った。

 もし、工場の二階に。
 もし、あの風船の近くに。
 ──見られたら困る物が置いてあったとしたら?

 背筋が、ぞっとした。

 犯人は、私たちが工場に向かうのを知っていた。
 だから、先回りした。

 でも、間に合わなかった。

 だから、
 目を引く物を置いた。

 ──風船。

 私は、ゆっくりとドアを閉めた。

 夜の団地は、何事もなかったかのように静かだ。
 窓の向こうには、いつもの生活。

 でも、もう分かってしまった。

 この事件は、遠くにある異常じゃない。
 ごく身近な場所で、静かに息をしている。

 次に、廃工場で“あれ”と対峙した時。
 私は、きっと聞いてしまう。

 あの風船は、何を隠した?

 その答えは、
 もう、すぐそこまで来ている。











 1-⑥/Retreat and Resolve~撤退と決意~
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

配信の果て

ほわとじゅら
ミステリー
大人気配信グループ、パンファミのリーダー・スノーの中の人と出会った御堂紗由(みどうさゆ)は、結婚に至るも我慢できないことがあり別れてしまう。配信者とは二度と恋仲にならないことを胸に秘めるも離婚後、困窮した生活から抜け出すため、一時的に配信業界で働くことを決める。 一方、夕暮れの個人配信で宇多野泰人(うたのやすと)は、数年前に大ヒットした「やさいゲーム」の開発者であることをリスナーたちに告白する。昨今、配信界隈で起きた脅迫・器物損壊事件は「やさいゲーム」の実況配信を行った配信者をターゲットとした嫌からせで起きた事件であったため、泰人は配信上で注意喚起を行った。 さらに泰人の相棒・二川幸見(にがわゆきみ)は、配信界隈の嫌からせ事件の裏には、パンファミが所属する事務所ナインズの暗躍を確信する。以前ナインズによる執拗なコラボ勧誘を何度も拒んだことで、事務所側が事件を裏で糸を引いて仕組んでいた可能性が濃厚となった。 真相を暴くため、宇多野と二川は探偵まで雇い、事件の鍵を握るパンファミのリーダーの元妻・紗由に接触を試みようとする。 配信界隈・業界をベースに描くミステリー長編。 ★は、リアルな配信アーカイブのエピソードです。一部、英語配信有り。 ※本作は、紗由と二川の2視点構成。「あらすじ」「タグ」「登場人物」は連載過程で適宜変化します。 ※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。またAI生成による文章作成・構成相談も含め一切行っておりません。本作品は筆者がゼロから執筆しておりますオリジナル作品です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

不思議なショートストーリーたち

フジーニー
ミステリー
さくっと読める短編集 電車内の暇つぶしに、寝る前のお供に、毎日の楽しみに。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...