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第1章/笑うピエロ Missing children
1-⑥/Retreat and Resolve
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扉の向こうは、夜だった。
団地の外灯が遠くで滲み、部屋の床一面を淡く照らしている。
ピエロの姿は、もうどこにもない。気配すら残っていなかった。
神津さんは舌打ちを一つ残し、スマートフォンを取り出した。
「……所長に連絡する」
短く、それだけ言う。
感情を抑え込んだ声だった。
私は壁にもたれ、ゆっくりと呼吸を整えた。頭痛は引かない。視界の端が、まだ時折ちらつく。能力を酷使した反動だと、自分でも分かっていた。
「夜間。刃物所持。明確な殺意あり……」
神津さんが、通話越しに状況を簡潔に報告していく。
「……ええ。俺もそう思います。ここは一旦、引いた方が──」
“引く”という言葉が、胸に刺さった。
正しい判断だ。
夜の団地。一般人が生活する場所。
これ以上続ければ、誰かが傷つく。
神津さんは通話を終えると、私の方を見た。
「所長も同意見だ。今日は撤退する。警察にも連絡を入れる」
「……はい」
声が、思ったより掠れていた。
「救急、呼ぶか?」
「いえ……歩けます」
立ち上がろうとして、膝が笑った。
神津さんが反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。
──気を遣わせている。
それが、何より悔しかった。
「……送る」
「大丈夫です。駅までなら」
一瞬、言い争いになりかけて、神津さんが折れた。
「……無理はするな」
その言葉が、重い。
建物を出ると、夜風が頬を打った。
団地の灯りは、どれも等しく穏やかで、さっきまでの出来事が嘘みたいだった。
神津さんと別れ、私は一人、駅とは逆方向へ歩き出す。
──団地の中へ。
自分でも、何をしようとしているのか分かっていた。
四〇八号室。
あの部屋の、違和感。
ピエロが潜んでいた痕跡。
それだけじゃない。
あの部屋は、“使われていた”にしては、整いすぎていた。
生活感の配置が、どこか不自然だった。
私は、確認しなければならなかった。
頭が痛む。
視界が滲む。
それでも、足は止まらない。
「……少しだけ」
誰に言い訳するでもなく、呟く。
団地の中庭を抜け、D棟を見上げる。
四階の窓は、すべて暗い。
あまりにも、静かだ。
昼間と違い、夜の団地は“箱”のようだった。
人の生活が、薄い壁の内側に押し込められている。
階段を上る。
足音が、やけに大きく響く。
四階。
四〇八号室の前に立つ。
ここに来たことを、後悔はしていなかった。
むしろ、はっきりと理解する。
私はもう、逃げる側じゃない。
ゆっくりと、ドアに手を伸ばす。
ドアに触れた瞬間、胸の奥がざわついた。
──この部屋は、まだ“使われている”。
私は音を殺し、四〇八号室の中へ滑り込んだ。
懐中電灯は使わない。外灯の光が、カーテンの隙間から淡く差し込み、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。
昼間と同じ配置。
ランドセル。段ボール。画用紙。
それなのに、決定的に違う。
空気が、澱んでいない。
人が、ついさっきまで居た部屋の匂いだ。
私は、壁一面に貼られた絵を改めて見た。
子供の絵。ピエロ。風船。
……やっぱり、多すぎる。
異常性を演出するにしては、過剰だ。
しかも、その“異常”は、妙に統一されている。
工場の光景が、脳裏に重なる。
二階の広い空間。
床に置いてあった、風船。
あれは、象徴なんかじゃない。
「……視線を、集めるため?」
小さく呟く。
人の目を、一点に集中させるための小道具。
他の物から、注意を逸らすための。
だから、工場には生活の痕跡がなかった。
代わりに、風船だけが置かれていた。
まるで、
「ここだけ見ていればいい」
とでも言うみたいに。
胸の奥が、ひやりと冷える。
私は視線を落とした。
部屋の隅に転がる、ピンク色のスニーカー。
乃村リコちゃんの靴。
昼間よりも、細部がはっきり見える。
サイズ。擦り切れた踵。紐の結び方。
……小さい。
その瞬間、脳の奥が、嫌な音を立てた。
工場で対峙したピエロ。
跳ねるように動いた足元。
──スニーカー。
白くて、ありふれた形。
でも、不思議と記憶に引っかかっている。
「……どこかで……」
思い出しかけて、止まる。
頭痛が、きつくなった。
能力が、勝手に反応しそうになる。
駄目。
ここで“見たら”、立っていられなくなる。
私は深く息を吸い、無理やり思考を切り離す。
それでも、断片は浮かんでくる。
玄関。
無造作に置かれた靴。
揃えられていないスニーカー。
知らないはずなのに、知っている光景。
「……偶然……だよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
被害者の持ち物と、
工場で見た靴と、
過去にどこかで見た記憶。
それらが、一本の線になりかけている。
でも、まだだ。
証拠が足りない。
何より、それを認めるには──あまりにも、近すぎる。
私は視線を逸らし、部屋をもう一度見回した。
ここは、住処じゃない。
必要な時だけ使う場所だ。
必要な物だけ置いて、あとは派手な物で飾る。
……そういう“部屋”に見える。
風船も、絵も、
すべては“隠すため”。
何を?
──考えるな。
頭が、限界を訴えている。
私は静かに玄関へ戻り、靴を履く。
ドアノブに手を掛けた、その時。
ふと、思った。
もし、工場の二階に。
もし、あの風船の近くに。
──見られたら困る物が置いてあったとしたら?
背筋が、ぞっとした。
犯人は、私たちが工場に向かうのを知っていた。
だから、先回りした。
でも、間に合わなかった。
だから、
目を引く物を置いた。
──風船。
私は、ゆっくりとドアを閉めた。
夜の団地は、何事もなかったかのように静かだ。
窓の向こうには、いつもの生活。
でも、もう分かってしまった。
この事件は、遠くにある異常じゃない。
ごく身近な場所で、静かに息をしている。
次に、廃工場で“あれ”と対峙した時。
私は、きっと聞いてしまう。
あの風船は、何を隠した?
その答えは、
もう、すぐそこまで来ている。
1-⑥/Retreat and Resolve~撤退と決意~
団地の外灯が遠くで滲み、部屋の床一面を淡く照らしている。
ピエロの姿は、もうどこにもない。気配すら残っていなかった。
神津さんは舌打ちを一つ残し、スマートフォンを取り出した。
「……所長に連絡する」
短く、それだけ言う。
感情を抑え込んだ声だった。
私は壁にもたれ、ゆっくりと呼吸を整えた。頭痛は引かない。視界の端が、まだ時折ちらつく。能力を酷使した反動だと、自分でも分かっていた。
「夜間。刃物所持。明確な殺意あり……」
神津さんが、通話越しに状況を簡潔に報告していく。
「……ええ。俺もそう思います。ここは一旦、引いた方が──」
“引く”という言葉が、胸に刺さった。
正しい判断だ。
夜の団地。一般人が生活する場所。
これ以上続ければ、誰かが傷つく。
神津さんは通話を終えると、私の方を見た。
「所長も同意見だ。今日は撤退する。警察にも連絡を入れる」
「……はい」
声が、思ったより掠れていた。
「救急、呼ぶか?」
「いえ……歩けます」
立ち上がろうとして、膝が笑った。
神津さんが反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。
──気を遣わせている。
それが、何より悔しかった。
「……送る」
「大丈夫です。駅までなら」
一瞬、言い争いになりかけて、神津さんが折れた。
「……無理はするな」
その言葉が、重い。
建物を出ると、夜風が頬を打った。
団地の灯りは、どれも等しく穏やかで、さっきまでの出来事が嘘みたいだった。
神津さんと別れ、私は一人、駅とは逆方向へ歩き出す。
──団地の中へ。
自分でも、何をしようとしているのか分かっていた。
四〇八号室。
あの部屋の、違和感。
ピエロが潜んでいた痕跡。
それだけじゃない。
あの部屋は、“使われていた”にしては、整いすぎていた。
生活感の配置が、どこか不自然だった。
私は、確認しなければならなかった。
頭が痛む。
視界が滲む。
それでも、足は止まらない。
「……少しだけ」
誰に言い訳するでもなく、呟く。
団地の中庭を抜け、D棟を見上げる。
四階の窓は、すべて暗い。
あまりにも、静かだ。
昼間と違い、夜の団地は“箱”のようだった。
人の生活が、薄い壁の内側に押し込められている。
階段を上る。
足音が、やけに大きく響く。
四階。
四〇八号室の前に立つ。
ここに来たことを、後悔はしていなかった。
むしろ、はっきりと理解する。
私はもう、逃げる側じゃない。
ゆっくりと、ドアに手を伸ばす。
ドアに触れた瞬間、胸の奥がざわついた。
──この部屋は、まだ“使われている”。
私は音を殺し、四〇八号室の中へ滑り込んだ。
懐中電灯は使わない。外灯の光が、カーテンの隙間から淡く差し込み、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。
昼間と同じ配置。
ランドセル。段ボール。画用紙。
それなのに、決定的に違う。
空気が、澱んでいない。
人が、ついさっきまで居た部屋の匂いだ。
私は、壁一面に貼られた絵を改めて見た。
子供の絵。ピエロ。風船。
……やっぱり、多すぎる。
異常性を演出するにしては、過剰だ。
しかも、その“異常”は、妙に統一されている。
工場の光景が、脳裏に重なる。
二階の広い空間。
床に置いてあった、風船。
あれは、象徴なんかじゃない。
「……視線を、集めるため?」
小さく呟く。
人の目を、一点に集中させるための小道具。
他の物から、注意を逸らすための。
だから、工場には生活の痕跡がなかった。
代わりに、風船だけが置かれていた。
まるで、
「ここだけ見ていればいい」
とでも言うみたいに。
胸の奥が、ひやりと冷える。
私は視線を落とした。
部屋の隅に転がる、ピンク色のスニーカー。
乃村リコちゃんの靴。
昼間よりも、細部がはっきり見える。
サイズ。擦り切れた踵。紐の結び方。
……小さい。
その瞬間、脳の奥が、嫌な音を立てた。
工場で対峙したピエロ。
跳ねるように動いた足元。
──スニーカー。
白くて、ありふれた形。
でも、不思議と記憶に引っかかっている。
「……どこかで……」
思い出しかけて、止まる。
頭痛が、きつくなった。
能力が、勝手に反応しそうになる。
駄目。
ここで“見たら”、立っていられなくなる。
私は深く息を吸い、無理やり思考を切り離す。
それでも、断片は浮かんでくる。
玄関。
無造作に置かれた靴。
揃えられていないスニーカー。
知らないはずなのに、知っている光景。
「……偶然……だよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
被害者の持ち物と、
工場で見た靴と、
過去にどこかで見た記憶。
それらが、一本の線になりかけている。
でも、まだだ。
証拠が足りない。
何より、それを認めるには──あまりにも、近すぎる。
私は視線を逸らし、部屋をもう一度見回した。
ここは、住処じゃない。
必要な時だけ使う場所だ。
必要な物だけ置いて、あとは派手な物で飾る。
……そういう“部屋”に見える。
風船も、絵も、
すべては“隠すため”。
何を?
──考えるな。
頭が、限界を訴えている。
私は静かに玄関へ戻り、靴を履く。
ドアノブに手を掛けた、その時。
ふと、思った。
もし、工場の二階に。
もし、あの風船の近くに。
──見られたら困る物が置いてあったとしたら?
背筋が、ぞっとした。
犯人は、私たちが工場に向かうのを知っていた。
だから、先回りした。
でも、間に合わなかった。
だから、
目を引く物を置いた。
──風船。
私は、ゆっくりとドアを閉めた。
夜の団地は、何事もなかったかのように静かだ。
窓の向こうには、いつもの生活。
でも、もう分かってしまった。
この事件は、遠くにある異常じゃない。
ごく身近な場所で、静かに息をしている。
次に、廃工場で“あれ”と対峙した時。
私は、きっと聞いてしまう。
あの風船は、何を隠した?
その答えは、
もう、すぐそこまで来ている。
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