Brain/赤の章

新田朝弥

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第1章/笑うピエロ Missing children

1-⑦/Echoes of the Past

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 明日に備え、さすがに帰ることにした。
 駅へ、向かう途中だった。

 夜の商店街は、昼間とは別の顔をしている。
 明るすぎるコンビニの灯り。油の匂いが残る惣菜屋。
 シャッターを下ろしきれず、半端に開いた店先。

 仕事を終えた人間たちが、それぞれの疲労を引きずりながら歩いている。

 その中に、ふと、引っかかる背中があった。

 細身で、少し前屈み。
 肩に掛けたトートバッグが重そうで、歩幅が微妙に乱れている。

 ──見覚えが、ある。

 正確には、資料で見た顔に似ていた。

 迷いは、一瞬だけだった。

「……すみません」

 声を掛けると、女性はびくりと肩を震わせ、振り返った。

 警戒。
 戸惑い。
 そして、警戒。

「……はい?」

「あの、突然すみません。浅見といいます」

 名乗った途端、彼女の視線が鋭くなる。

「……乃村、さんですよね」

 その名前を出した瞬間、空気が変わった。

 女性は一歩、距離を取る。
 夜の街灯の下で、その表情が硬直するのがはっきり分かった。

「どうして……」

 当然の反応だ。
 知らない人間に、こんな時間帯に、名前を呼ばれる理由なんて。

「驚かせてしまって、すみません」

 私は、すぐに頭を下げた。

「私は、今回の件で……少し、調べるお手伝いをしていて」

 “探偵”でも、“関係者”でもない。
 事実だけを、最低限。

 彼女──乃村 茉希は、私を一度だけじっと見てから、長く息を吐いた。

「……仕事帰りなんです」

 それだけ言って、歩き出す。

 拒絶でも、受容でもない。
 ただの、疲労。

 私は半歩遅れて、隣に並んだ。

 信号が変わるまでの短い時間。
 沈黙が、妙に長く感じられる。

「……お子さんは」

 言いかけて、言い直す。

「リコちゃんは、今……?」

 茉希は、間を置かず答えた。

「実家に預けています」

 硬い声。

「しばらくは、そちらで」

 “しばらく”がどれほどの期間なのか。
 私は、聞かなかった。

 横断歩道を渡る。
 白線の上を踏む音が、やけに大きい。

「……あの子」

 信号を渡りきったところで、茉希がぽつりと言った。

「変わってしまって」

 私は、何も言わない。

「事件の後から、絵ばかり描くようになったんです」

 街灯が、二人の影を長く伸ばす。

「前は、そんなに描く子じゃなかった。幼稚園の頃は……」

 言葉が途切れる。

「でも今は、毎日」

 胸の奥が、じくりと痛んだ。

「ピエロ、ですか」

 思わず、口にしてしまう。

 茉希が、驚いたようにこちらを見る。

「……どうして、それを」

「すみません。想像です」

 嘘ではない。
 けれど、真実でもない。

「赤い口で、笑ってるピエロ。風船を持ってる絵ばかり」

 諦めたように、彼女は続けた。

「夜中に起きて、描いてることもあります。理由を聞いても……」

 首を振る。

「何も、言わない。ただ、『見てる』って」

「……見てる?」

「はい。『ピエロが、見てる』って」

 足元の影が、歪む。

 住宅街に入り、人通りが減った。
 静かすぎる夜。

「警察にも、相談しました」

 茉希の声が、少し低くなる。

「でも……決定的なものは何もなくて。『気のせい』『子どもは想像力が豊か』って」

 言葉の端に、疲労と怒りが混じる。

「だから……」

 だから、誰かに話してしまった。
 今日、たまたま声を掛けてきた他人に。

 私は、その重さを受け取る。

「比恵呂町って……」

 しばらく歩いた後、茉希が言った。

「昔、事故があったって、聞いたことはありますか」

 私は、首を横に振る。

「私も、詳しくは知らないんです。でも……」

 歩幅が、少しだけ遅くなる。

「子どもが、一人亡くなったって」

 胸の奥で、静かに歯車が噛み合う。

「その時、一緒に遊んでいた子がいたらしいんです」

「……誰かは、分かっているんですか?」

「いいえ」

 即答だった。

「名前も、顔も。ただ、その子は助かって……今は、もう大人でしょうって」

 今は、親になっていてもおかしくない年齢。

 私は、無意識に拳を握る。

「……もし」

 茉希の声が、わずかに震える。

「もし、その子が……何かを、抱えたままだったとしたら」

 言葉の続きを、私は受け取った。

「今回の件と、関係している可能性も」

 茉希は、バッグの持ち手を強く握りしめた。

「そんな……」

 否定は、弱い。

「まだ、仮説です」

 私は、すぐに言った。

「確証はありません。ただ……」

 線は、集まり始めている。

 子ども。
 過去の事故。
 現在の事件。

 駅前に着き、足を止める。

「……突然、声を掛けてすみませんでした」

「いえ……」

 茉希は、少し迷ってから、小さく頭を下げた。

「もし……何か分かったら」

 言葉は、最後まで出てこなかった。

「はい」

 私は、それだけ答えた。

 別れ際、思う。

 ピエロは、何を見ているのか。
 そして──誰を、見ているのか。

 夜の街灯が、足元を照らす。

 過去は、終わっていない。
 静かに、こちらを覗いている。
 もう──帰る訳には、いかない。













 1-⑦/Echoes of the Past~過去のこだま~
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