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第1章/笑うピエロ Missing children
1-⑧/Recollection Trigger
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夜更けの公園は、異様なほど静かだった。
昼間なら、子どもたちの声やボールの弾む音で満ちているはずの場所。
今は、ベンチと遊具が闇の中に沈み、街灯の白い光だけが、現実を辛うじて照らしている。
私は、ベンチに腰掛けたまま、紙束を膝の上に広げていた。
神津さんづてに受け取った、桐弥さんの資料。
コピー用紙の端は、何度もめくられたせいで少し丸まり、インクの匂いが夜気に混じる。
……これで、何度目だろう。
最初から最後まで、もう一度。
いや、正確には──"最初から最後まで、覚えている内容を、なぞっているだけ”。
文章の行間。
数字。
日時。
名前。
どこにも、曖昧な部分はない。
一字一句、完璧に頭の中にある。
それなのに。
「……どうして、気づかなかったの」
声に出した瞬間、その音が自分のものとは思えないほど遠く感じた。
資料の中盤。
事件概要の中に、紛れ込むように書かれている一件。
大きな見出しもない。
強調も、太字もない。
ただの事実として、淡々と記されている。
──二十年前、比恵呂町にて、子どもの溺死事故が発生。
私は、指先でその行をなぞる。
用水路。
当時は、今よりも整備が不十分だった地域。
「事故」という言葉が、やけに軽く見えた。
次の行へ、視線を落とす。
──被害者は当時七歳。
七歳。
その数字が、胸の奥に沈み込む。
リコちゃんと、そう変わらない。
文字にすれば一桁の数字なのに、想像すると、やけに生々しい。
さらに、続く一文。
──事故当時、最後に一緒に遊んでいた子どもが存在していたことは確認されているが、身元は特定されていない。
「……一緒に、遊んでいた」
思わず、口の中で反芻する。
遊び。
子ども。
最後。
ピエロの絵。
風船。
子どもに向けられる、過剰なほどの視線。
これまで、無関係だと思っていた断片が、静かに位置を探り始める。
私は、資料をめくった。
次のページ。
下の方。
欄外に近い位置。
そこに、名前があった。
──被害者氏名:林田 涼花
……あ。
思考が、一瞬、停止する。
林田。
涼花。
頭の中で、名前をなぞる。
文字の形を、音を、意味を。
偶然じゃ、ない。
不思議なほど、拒絶反応がなかった。
七歳。
用水路。
事故。
そして、「一緒に遊んでいた子ども」。
資料を持つ手が、僅かに震える。
これは、単なる見落としじゃない。
私は──避けていた。
この名前に、正面から向き合えば、
その先で何を見ることになるのか。
薄々、分かっていたから。
ポケットに手を入れる。
取り出したのは、小さなヘアピン。
十年前、誕生日に楓さんから貰ったものだ。
「能力に頼るな」と言いながら、
それでも最後には、必ず背中を押してくれた人。
楓さんが亡くなってから、身につけるのを避けていた。
思い出に縋るみたいで、怖かったから。
でも今は、迷わず、髪に留める。
それは、祈りでも、依存でもない。
自分が選んだ、決意の印。
「……楓さん」
声に出した途端、胸の奥が軋んだ。
もう、この人は返事をしない。
それでも、言葉は自然と零れる。
「──本気、出します」
誰かに許可を取るための言葉じゃない。
これは、宣言だ。
私は、ベンチに深く腰を下ろす。
背もたれに体重を預け、夜空を仰ぎ、そして──目を閉じた。
意図的に、視界を遮断する。
廃工場。
風船。
ピエロの絵。
四〇八号室。
呼吸を、整える。
こめかみの奥が、すでにじくじくと痛み始めている。
能力を使えば、もっと酷くなる。
分かっている。
それでも、止めない。
「──じゃあ、本気出して思い出そうとしなきゃ問題ないってことですね?」
「まぁ、そんなところかな」
不意に、声がした。
昔の、楓さんとの会話だ。
昔と同じ、少し低くて、落ち着いた声。
楓さんは、言った。
「本気出して思い出そうとしなきゃいけない時なんて、
だいたい──思い出さなくていい時だから」
それが、忠告だったのだと。
今になって、分かってしまう。
それでも、私は──
「……視せて」
意識を、深く、深く沈める。
すぐに、締め付けられるような痛みが走った。
視界が、闇に沈む。
──カシャリ。
映像が、浮かび上がる。
廃工場の二階。
埃っぽい空気。
床に置かれた、風船。
その奥。
簡素なデスク。
上に積まれた、紙の束。
白い原稿用紙。
走り書きの線。
コマ割り。
次の瞬間、場面が切り替わる。
──玄関。
無造作に置かれたスニーカー。
揃えられていない靴。
生活の匂い。
人が、確かに住んでいる部屋の空気。
──映像が、割り込む。
洗濯機の中で、絡まった靴下。
回り続けて、何度も、何度も、同じ位置に戻る。
……関係ない。
そう分かっているのに、視線が剥がれない。
そして。
夕暮れ。
用水路。
水音。
子どもの笑い声。
小さな手が、別の手を引いている。
「──っ」
息が、喉に詰まる。
映像が、重なり合う。
過去と現在。
工場と部屋。
風船と、ピエロ。
点だったものが、線になる。
線が、輪郭を持つ。
私は、目を閉じたまま、長く息を吐いた。
……見えてしまった。
まだ、すべてじゃない。
でも、もう十分だった。
疑いは、消えた。
残ったのは、冷たい確信。
二十年前の事故は、終わっていない。
形を変えて、今も続いている。
ゆっくりと、目を開ける。
頭痛は限界に近い。
それでも、意識は冴え切っていた。
「……見つけた」
それは、独り言であり、宣言だった。
次に、対峙する時。
私は、もう問いかけない。
答えを知ったまま、向き合う。
風船は、何を隠したのか。
ピエロは、誰だったのか。
その核心に、
ようやく──手が届いた。
1-⑧/Recollection Trigger~記憶の引き金~
昼間なら、子どもたちの声やボールの弾む音で満ちているはずの場所。
今は、ベンチと遊具が闇の中に沈み、街灯の白い光だけが、現実を辛うじて照らしている。
私は、ベンチに腰掛けたまま、紙束を膝の上に広げていた。
神津さんづてに受け取った、桐弥さんの資料。
コピー用紙の端は、何度もめくられたせいで少し丸まり、インクの匂いが夜気に混じる。
……これで、何度目だろう。
最初から最後まで、もう一度。
いや、正確には──"最初から最後まで、覚えている内容を、なぞっているだけ”。
文章の行間。
数字。
日時。
名前。
どこにも、曖昧な部分はない。
一字一句、完璧に頭の中にある。
それなのに。
「……どうして、気づかなかったの」
声に出した瞬間、その音が自分のものとは思えないほど遠く感じた。
資料の中盤。
事件概要の中に、紛れ込むように書かれている一件。
大きな見出しもない。
強調も、太字もない。
ただの事実として、淡々と記されている。
──二十年前、比恵呂町にて、子どもの溺死事故が発生。
私は、指先でその行をなぞる。
用水路。
当時は、今よりも整備が不十分だった地域。
「事故」という言葉が、やけに軽く見えた。
次の行へ、視線を落とす。
──被害者は当時七歳。
七歳。
その数字が、胸の奥に沈み込む。
リコちゃんと、そう変わらない。
文字にすれば一桁の数字なのに、想像すると、やけに生々しい。
さらに、続く一文。
──事故当時、最後に一緒に遊んでいた子どもが存在していたことは確認されているが、身元は特定されていない。
「……一緒に、遊んでいた」
思わず、口の中で反芻する。
遊び。
子ども。
最後。
ピエロの絵。
風船。
子どもに向けられる、過剰なほどの視線。
これまで、無関係だと思っていた断片が、静かに位置を探り始める。
私は、資料をめくった。
次のページ。
下の方。
欄外に近い位置。
そこに、名前があった。
──被害者氏名:林田 涼花
……あ。
思考が、一瞬、停止する。
林田。
涼花。
頭の中で、名前をなぞる。
文字の形を、音を、意味を。
偶然じゃ、ない。
不思議なほど、拒絶反応がなかった。
七歳。
用水路。
事故。
そして、「一緒に遊んでいた子ども」。
資料を持つ手が、僅かに震える。
これは、単なる見落としじゃない。
私は──避けていた。
この名前に、正面から向き合えば、
その先で何を見ることになるのか。
薄々、分かっていたから。
ポケットに手を入れる。
取り出したのは、小さなヘアピン。
十年前、誕生日に楓さんから貰ったものだ。
「能力に頼るな」と言いながら、
それでも最後には、必ず背中を押してくれた人。
楓さんが亡くなってから、身につけるのを避けていた。
思い出に縋るみたいで、怖かったから。
でも今は、迷わず、髪に留める。
それは、祈りでも、依存でもない。
自分が選んだ、決意の印。
「……楓さん」
声に出した途端、胸の奥が軋んだ。
もう、この人は返事をしない。
それでも、言葉は自然と零れる。
「──本気、出します」
誰かに許可を取るための言葉じゃない。
これは、宣言だ。
私は、ベンチに深く腰を下ろす。
背もたれに体重を預け、夜空を仰ぎ、そして──目を閉じた。
意図的に、視界を遮断する。
廃工場。
風船。
ピエロの絵。
四〇八号室。
呼吸を、整える。
こめかみの奥が、すでにじくじくと痛み始めている。
能力を使えば、もっと酷くなる。
分かっている。
それでも、止めない。
「──じゃあ、本気出して思い出そうとしなきゃ問題ないってことですね?」
「まぁ、そんなところかな」
不意に、声がした。
昔の、楓さんとの会話だ。
昔と同じ、少し低くて、落ち着いた声。
楓さんは、言った。
「本気出して思い出そうとしなきゃいけない時なんて、
だいたい──思い出さなくていい時だから」
それが、忠告だったのだと。
今になって、分かってしまう。
それでも、私は──
「……視せて」
意識を、深く、深く沈める。
すぐに、締め付けられるような痛みが走った。
視界が、闇に沈む。
──カシャリ。
映像が、浮かび上がる。
廃工場の二階。
埃っぽい空気。
床に置かれた、風船。
その奥。
簡素なデスク。
上に積まれた、紙の束。
白い原稿用紙。
走り書きの線。
コマ割り。
次の瞬間、場面が切り替わる。
──玄関。
無造作に置かれたスニーカー。
揃えられていない靴。
生活の匂い。
人が、確かに住んでいる部屋の空気。
──映像が、割り込む。
洗濯機の中で、絡まった靴下。
回り続けて、何度も、何度も、同じ位置に戻る。
……関係ない。
そう分かっているのに、視線が剥がれない。
そして。
夕暮れ。
用水路。
水音。
子どもの笑い声。
小さな手が、別の手を引いている。
「──っ」
息が、喉に詰まる。
映像が、重なり合う。
過去と現在。
工場と部屋。
風船と、ピエロ。
点だったものが、線になる。
線が、輪郭を持つ。
私は、目を閉じたまま、長く息を吐いた。
……見えてしまった。
まだ、すべてじゃない。
でも、もう十分だった。
疑いは、消えた。
残ったのは、冷たい確信。
二十年前の事故は、終わっていない。
形を変えて、今も続いている。
ゆっくりと、目を開ける。
頭痛は限界に近い。
それでも、意識は冴え切っていた。
「……見つけた」
それは、独り言であり、宣言だった。
次に、対峙する時。
私は、もう問いかけない。
答えを知ったまま、向き合う。
風船は、何を隠したのか。
ピエロは、誰だったのか。
その核心に、
ようやく──手が届いた。
1-⑧/Recollection Trigger~記憶の引き金~
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