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第1章/笑うピエロ Missing children
1-⑨/End of performance
しおりを挟む廃工場は、相変わらず息を潜めていた。
夜の空気は冷たく、錆びた鉄骨を撫でる風が、低い音を立てて通り抜ける。
外観は、前に訪れた時と何も変わらない。
変わったのは、ここに来た理由だけだ。
一階は、暗い。
でも──。
私は、足を止めた。
二階。
奥の方で、かすかな光が揺れている。
「……やっぱり」
階段へ向かう。
軋む音。
夜の静けさの中で、それはやけに大きく響く。
それでも、引き返す理由はなかった。
二階に上がると、橙色の光が視界を満たした。
ランタンだ。
壁に映る影が、ゆっくりと揺れている。
その前に座っていたのは──ピエロではない。
白塗りの顔も、派手な衣装もない。
風船すら、ここにはなかった。
そこにいたのは、
E棟四〇二号室の住人──林田 風花だった。
「……来たんだ」
彼女は、こちらを見ずに言った。
驚きはない。
むしろ、どこか覚悟していたような声音だった。
「夜の工場なんて、普通は来ないと思ったけど」
「普通じゃないことが起きていましたから」
私は、静かに答えた。
距離を保ったまま、視線を巡らせる。
簡素な机に置かれたランタンと、
床に置かれた小さなバッグ。
まるで生活の延長線にある、そんな空間。
「ここ、使ってたんですね」
風花さんの指が、ランタンの取っ手に触れる。
「……証拠は?」
「……あります」
即答。
「工場の二階。奥のデスク」
風花さんの肩が、わずかに強張る。
「紙束がありました。漫画の原稿」
「それが?」
風花さんは、ようやくこちらを見る。
「ここ、廃工場よ。誰が使ってても不思議じゃない。それこそ、悪ガキの溜まり場とか」
「ええ」
私は頷く。
「それだけなら、私も気にしませんでした」
一歩、近づく。
「でも、あなたは“使っていた”」
風花さんの眉が、僅かに動く。
「前日も、ここに来ていた。
だから、置きっぱなしになっているものがあると分かっていた」
沈黙。
「私たちが工場を調べていると知って、先回りした」
淡々と続ける。
「でも、間に合わなかった。
だから、二階の中央に“目を引くもの”を置いた」
風花さんの視線が、逸れる。
「……風船、ね」
「はい」
肯定する。
「異様で、象徴的で、目立つ。しかも、ピエロの話をした後。
他の物から、注意を逸らすには十分です」
「……想像力豊かだね」
風花さんは、鼻で笑った。
「それだけで、私を疑う?」
「いいえ」
私は、首を振る。
「決定打は、別です」
間を置く。
「工場で見たピエロが、スニーカーを履いていました」
風花さんの表情が、僅かに硬くなる。
「スニーカー? そんなの、誰だって履いてるでしょ」
「ええ」
私は、同意する。
「だから、最初は気にしませんでした」
視線を、まっすぐ向ける。
「でも、あなたの部屋の玄関にあった靴と──同じだった」
沈黙。
サイズ。
色褪せ具合。
紐の結び目。
その全てが、ピエロのものと、一致している。
でもその事実は、私にしか分からない。
ランタンの炎が、揺れる。
「……偶然」
風花さんは、そう吐き捨てる。
「よくある形だし」
「そうですね」
私は、一歩踏み出す。
「だからこそ、確認したいんです」
「何を?」
「今回は──」
はっきりと、言う。
「──ピエロの衣装を着ていない」
風花さんの目が、細くなる。
「つまり、衣装は別の場所にある」
言外の意味は、明白だった。
確信が、ある。
彼女の部屋に、"それ"があると。
「……今から、行く?」
風花さんが、嘲笑混じりに言う。
その声は、分かりやすぐらい、低い。
「はい」
視線を逸らさない。
ただ真っ直ぐに、風花さんを見つめる。
「ご一緒に。何なら、警察も交えて」
数秒の沈黙の後、
風花さんは、ふっと力を抜いた。
ため息の音が、空間に広がる。
「……負け、か」
小さく呟き、立ち上がる。
「あの時──アナタにこの工場のことを教えた瞬間、"しまった"って、思ったんだ。咄嗟にピエロの格好をして行ったけど、それも大失敗……。むしろこの姿のままの方が、見つかっても言い訳がきくのにね……」
風花さんは自嘲気味に、小さく笑う。
「昔ね」
窓際へ歩き出しながら、風花さんは言った。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだ。
「姉がいたの」
私は、黙ってその言葉に耳を傾ける。
「林田 涼花。七歳で死んだ」
その名前が、静かに空間に落ちる。
「当時の私は、五歳。
何が起きたのか、よく分からなかった。
私自身、あの頃の記憶が曖昧なんだ」
階段の前で、足を止める。
「事故だって言われた。
用水路に落ちただけだって」
唇を噛む。
「家族は、団地を出た。町を離れた。
……誰も、姉の話をしなくなった」
ランタンの光が、壁を照らす。
「二十年経って、戻ってきちゃった」
乾いた笑い。
「比恵呂町に。意図的じゃない。本当に、偶然。
だからこそ──運命だと思った」
「知りたくなったんですね」
静かに言う。
「どうして、死んだのか」
「うん」
風花さんは、頷く。
「でも、誰も教えてくれなかった」
肩を竦める。
「面倒事に関わりたくない、って顔ばっかり」
少しの沈黙。
「それで、あの衣装を思い出した。昔、サーカスのバイトをしてた時があってね」
特徴的な、ピエロの衣装。
「大人が駄目なら、子どもなら、って」
声は、どこか投げやりだった。
「……四〇八号室も」
ふと、思い出したように言う。
風花さんの動きが、一瞬止まる。
「あの部屋、最初から使っていたわけじゃないですよね」
否定も、肯定もない沈黙。
私は続ける。
「最初は、廃工場だった」
お菓子。
遊び。
子どもにとって、秘密にしたくなる場所。
「人目につかないし、子どもも警戒しない。
情報を引き出すには、都合が良かった」
風花さんの視線が、床に落ちる。
「でも、団地で噂になり始めた。
“ピエロが出る”って」
私は、静かに言葉を重ねる。
「だから、場所を変えた。
もっと、安全で、閉じた場所に」
少しの、間。
沈黙を破ったのは、風花さんだった。
「……四〇八号室」
風花さんは、ゆっくりと息を吐く。
「……あそこ、ね
私の“実家”だったんだ」
風花さんは、思い出に耽るように、少し黙って、
そして、再度口を開く。
「久し振りに戻って来たら、鍵変わってないんだもん。ビックリだよね」
小さく、笑う。
「……ほんと、嫌になるね」
声は、疲れ切っていた。
「離れたつもりだったのにさ。
結局、戻ってきてる」
私は、何も言わない。
何も、言えなかった。
「工場が使えなくなって、
あそこしか、思いつかなかった」
自嘲気味に、続ける。
「子どもが出入りしても、不自然じゃない部屋。
昔のまま、時間が止まってる場所」
ランタンの光が、私たちの影を、歪ませる。
「……それで」
私は、静かに言う。
「何か、分かりましたか?」
風花さんは、首を振る。
「なーんにも」
苦笑。
今度は、完全な自嘲。
「馬鹿みたいだよね。
こんな騒ぎ起こしておいて」
笑顔は、すぐに消えた。
「結局、何も分からなかった」
夜風が、工場の中を抜ける。
「……終わりにしましょう」
裁きではない。
糾弾でもない。
ただ、芝居を降ろす合図。
風花さんは、目を閉じた。
「うん」
短く、そう答える。
「……ごめんね。怖い目に遭わせて」
ランタンの炎が、揺れる。
ピエロの芝居は、終わった。
残ったのは、
静かな夜と、取り返しのつかない現実だけだった。
◆◆◆
サイレンの音は、夜気に溶けるように遠ざかっていった。
赤色灯が、団地の壁をなぞる。
光が消えるたび、暗闇が元の場所を取り戻す。
林田 風花は、振り返らなかった。
手錠をかけられ、静かにパトカーへ乗り込む。
抵抗も、取り乱しもない。
ただ、すべてを終えた人の背中だった。
ドアが閉まり、エンジン音が低く唸る。
車体が角を曲がり、完全に見えなくなるまで、私はその場を動かなかった。
団地は、変わらず静かだ。
窓の向こうには、それぞれの生活がある。
この数時間で起きたことなど、知らないまま。
私は、D棟を見上げた。
四階。
四〇八号室の位置。
明かりは、点いていない。
あの部屋は、今もそこにある。
でも、もう“使われる”ことはない。
そう思った瞬間、
胸の奥に、言葉にできない違和感が残った。
──後日談だが、
翌朝すぐに、四〇八号室は、封鎖された。
廊下を横切る、黄色と黒のテープ。
管理会社の立ち会いのもと、警察が部屋を確認し、
今更ながら、鍵は交換された。
壁一面の絵は撤去され、
段ボールは運び出され、
あの部屋は、再び「空室」になった。
何事もなかったかのように。
絵が撤去された後の壁には、子どもの落書きがあったという。
二人の女の子が、仲良く手を繋いでいる絵。
名前は──"すずか"と、"ふうか"。
「……何やってる」
背後から、低い声。
振り返ると、神津さんが立っていた。
夜のせいか、いつもより表情が硬い。
「……無事、確保しました。現行犯じゃないですが、状況証拠は十分だったので」
「そうか」
結果報告。
安堵より先に、疲労が押し寄せた。
「……で?」
神津さんは、腕を組む。
「どうして、ここに一人でいる」
視線が、鋭い。
「撤退って、言ったよな」
「……はい」
「夜だぞ」
一歩、距離を詰められる。
「危険度、分かってるだろ」
私は、視線を落とした。
「……確認が、必要でした」
「確認?」
「四〇八号室の、違和感を」
一瞬、神津さんが言葉を詰まらせる。
「……単独行動」
低く、重い声。
「また、能力、使ったな」
「使いました」
否定はしない。
神津さんは、ゆっくりと息を吐いた。
「……馬鹿」
怒鳴らない。
だからこそ、きつい。
「君が無事だったから、こうして言える」
短い沈黙。
「一歩違えば、取り返しがつかなかった」
「……すみません」
「謝るな」
即座に返される。
「次があったら、止める。力づくでも」
それだけ言って、視線を逸らした。
「……でもな」
少し間を置いて。
「助けたのは、事実だ」
それ以上は、何も言わなかった。
夜は、まだ終わらない。
団地を離れ、公園の縁に立つ。
街灯の下、地面に長く影が伸びる。
桐弥さんから送られてきた、追加の資料。
スマートフォンの画面を、私は一人で開いた。
二十年前の事故。
用水路。
溺死。
再整理された情報の中に、変わらない一文がある。
──事故当時、最後に一緒に遊んでいた子どもが存在。
名前は、不明。
ただ、条件だけが並ぶ。
・年齢が近い
・事故現場に居た可能性
・周囲の人間の証言に、一貫性がない
私は、画面を閉じた。
答えは、どこにも書かれていない。
書けるはずもない。
でも──
子どもが二人で遊んでいて、
その姿を、誰一人として覚えていない。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
用水路ということは、少なくとも通学路の近くのハズである。
──「私自身、あの頃の記憶が曖昧なんだ」。
風花さんの言葉が、脳裏を巡る。
──もし。
もしもの話。
団地の皆が事故について協力的じゃなかったのではなく、
誰かの為に、何かを隠していたのだとしたら。
胸の奥で、一つの可能性が、静かに浮かび上がる。
涼花と、最後に遊んでいた子ども。
それは──
「……」
私は、首を振った。
確証はない。
そして、確証が出ることもない。
二十年前の事故は、事故として処理され、
誰かの中でだけ、形を変えて残る。
それでいい。
それ以上を、私は掘り起こさない。
芝居は、終わった。
幕の向こう側に残るのは、
誰にも完全には回収されない、
小さな後悔と、夜の静けさだけだ。
私は、ゆっくりと歩き出した。
夜は、まだ深い。
けれど──
もう、戻らない。
1-⑨/End of performance~終演~
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