スカーレット・マーケット

新田朝弥

文字の大きさ
3 / 8

③/赤いランプの向こう

しおりを挟む

 深夜。
 突然、電話が鳴った。

 病院からだった。
 ……病院?
 身内が入院しているわけでもない。

「白鷺さんの容体が急変しました」

 一瞬、意味が分からなかった。

 急変。
 それは市場で何度も聞いた言葉だ。
 だが、今は違う。

 すぐに病院に駆け込む。
 廊下の白い光が、やけに長い。

 ICUの、赤いランプ。
 商談室のものと似ている。

 心電図の波形。
 規則的な電子音。
 それが、止まったら終わる。
 誰が見ても分かるぐらい、分かりやすい。

 ガラス越しに見る緋菜は、
 あまりにも静かだった。

 酸素マスク。
 見慣れた細い腕と、動かない指。

 こんなにも、軽かったのか。

 三年三か月。

 あの数字が、急に嘘みたいに思えた。

 医師の声が遠くで言う。

「一時的に心停止しました。今は戻っていますが……予断は許しません」

 心停止。
 数秒……たった数秒。
 それだけで、人は消えてしまう。

 俺は、何も言えなかった。

 今まで、何人もの寿命を削ってきた。
 泣きもしないし、祈りもしなかった。
 ……なのに。
 
 ガラスに手をつく。

 ──妹の姿と、重なる。

「……死ぬな」

 思わず、声が出た。
 誰に言っているのか分からない。

「……頼む」

 それはただの、泥臭い懇願だった。

 ガラス越しの姿が、揺れる。

 ──妹も、こんなふうに寝ていた。

 酸素マスク。
 白い天井。
 機械音。

 あのときも、医師は同じ顔をしていた。

「できることは、やりました」

 できること。
 できることって、何だ?

 金が足りなかった。
 時間も足りなかった。
 俺は、何もできなかった。

 手を握った。
 驚くほど軽い手。
 熱が、逃げていくみたいだった。

 あのとき、俺は祈らなかった。
 祈っても意味がないと、知っていたからだ。

 でも──今は、違う。

 ガラスに触れたまま、目を閉じる。

 頼む。
 助かってくれ。

 今度は、削らせない。
 奪わせない。
 例え俺が、削ってきた側だとしても。

 機械の音が、規則正しく続いている。

 それが止まらないことだけを祈るしかない自分が、
 たまらなく腹立たしかった。

 ◆◆◆

 夜が明ける頃、医師が言った。

「峠は越えました」

 膝の力が抜けた。
 座り込む。

 情けないと思う余裕もない。

 ……助かった。
 たったそれだけで、呼吸ができる。

 いつからだろう。
 気づけば、数字より先に、緋菜の名前が浮かぶ。

 ◆◆◆

 地下へ降りる階段は、今日も湿っていた。
 滑らないように、と分かっているのに、つい急いでしまう。
 早く終わらせたいからだ。

 消毒液の匂いは慣れた。鉄の匂いも。
 最初は吐きそうになったのに、今は平気な顔ができる。

 ドアの前で一度、深呼吸。
 大丈夫。いつも通り。

 鷹宮さんは、いつもと同じ声で名前を呼ぶ。
 事務的で、少し低い声。
 あの人はたぶん、優しくないふりが上手い。

 残存寿命、四年三か月。

 数字を見るたびに、頭の中で指を折る。
 あと何回。
 あといくら。
 弟の治療費。
 薬代。
 入院の延長。

「一年でいいんですね?」

 いいんですね、じゃない。
 いいわけない。
 でも、はい、と言う。

 端数は残しておきたいので、と笑う。
 本当は端数なんてどうでもいい。
 ただ、全部を差し出す勇気がないだけだ。

 袖を捲ると、腕の内側に薄い痣が残っている。前回の跡。
 見られないように、角度を変える。

 針が刺さる瞬間、やっぱり少しだけ怖い。
 痛みより、体の芯が空洞になる感じが嫌だ。
 足の先が冷える。耳鳴りがする。

 でも顔は上げる。
 笑う。

「慣れてますから」

 本当は、慣れていない。
 帰り道に、何度も立ち止まる。
 階段を上がるとき、膝が笑う。
 夜、布団の中で急に心臓が早くなる。

 それでも、慣れていることにしないと怖い。

 移転が終わって立ち上がった瞬間、視界が揺れた。
 あ、まずい、と思う前に、
 腕を掴まれる。

 温かい、と思った。
 それから、自分が冷たいことに気づく。

「座ってろ」

 低い声。少し怒っているみたいで、なぜかほっとする。
 怒られると、少しだけ安心する。
 ちゃんと生きてるんだって、分かるから。

 残存寿命、三年三か月。

 頭の中で計算する。
 三年。三年あれば、弟は高校を卒業できる。
 たぶん。
 たぶん、だけど。

 全部売ったらどうなるか。
 答えは分かっている。

 0。

 簡単すぎて、笑いそうになる。
 でも笑えない。

 この前、店の裏口で倒れかけたとき、本気で思った。
 死ぬのかも、って。

 怖かった。
 すごく、怖かった。

 それなのに、まだここに来ている。

 矛盾しているのは分かっている。
 でも弟の顔を思い出すと、怖いより先に、焦りが来る。

 鷹宮さんは、たぶん気づいている。
 私が強がっていることも、計算ばかりしていることも。

 それでも何も言わない。
 言わないくせに、今日は少しだけ声が揺れた。

「……全部は、やめろ」

 その言い方が、少し情けなくて、少し嬉しかった。

 優しいですね、と言ったけれど、あれは半分本当で、半分は確認だ。
 もし私が倒れたら、誰か来てくれるのか。

 だから聞いた。

「連絡していいですか」

 断られたら、少し楽になれると思った。
 でも、完全には突き放されなかった。

 それが、困る。

 市場の赤い灯りが、目に残る。
 あの色は値札の色だと思っていたのに、最近は違う。

 あの部屋を出るとき、ほんの少しだけ思う。

 あと三年三か月。
 本当に、足りるのかな。

 階段を上がる。
 手すりが冷たい。

 それでも、まだ歩ける。
 だから、もう少しだけ……。

 ◆◆◆

 目が覚めると、見たことのない天井。
 薬品の匂い。
 病院だと、すぐに分かった。

 そっか……。
 倒れたんだっけ、私。

 目眩も、頭痛もない。
 指も、腕も動く。
 ……まだ動く。

 ゆっくりと身体を持ち上げる。

 ふと右を見る。
 ソファーに、彼が座っていた。

 ……寝てる。

 いつも仏頂面をしてるから、無邪気な寝顔が、一段と可愛い。

 来てくれたんだ。
 その事実だけで、胸がいっぱいだ。

 起こさないように、そっと、手を重ねる。

 その瞬間、
 安堵と共に、熱いものが込み上げてきた。

「鷹宮さん……」

 嗚咽が混じる。
 堪えても堪えても、止まらない。

「鷹宮さん……怖いよ……」

 泣いちゃいけない。
 泣いちゃ、いけない。
 思えば思うだけ、溢れてしまう。

「死にたくないよ……」

 誰にも聞こえないくらい、小さな声だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

この離婚は契約違反です【一話完結】

鏑木 うりこ
恋愛
突然離婚を言い渡されたディーネは静かに消えるのでした。

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

短編)どうぞ、勝手に滅んでください。

黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。 あらすじ) 大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。 政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。 けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。 やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。 ーーー ※カクヨム、なろうにも掲載しています

走馬灯に君はいない

優未
恋愛
リーンには前世の記憶がある。それは、愛を誓い合ったはずの恋人の真実を知り、命を落とすというもの。今世は1人で生きていくのもいいと思っていたところ、急に婚約話が浮上する。その相手は前世の恋人で―――。

愛のゆくえ【完結】

春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした ですが、告白した私にあなたは言いました 「妹にしか思えない」 私は幼馴染みと婚約しました それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか? ☆12時30分より1時間更新 (6月1日0時30分 完結) こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね? ……違う? とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。 他社でも公開

断罪された薔薇の話

倉真朔
恋愛
悪名高きロザリンドの断罪後、奇妙な病気にかかってしまった第二王子のルカ。そんなこと知るよしもなく、皇太子カイルと彼の婚約者のマーガレットはルカに元気になってもらおうと奮闘する。  ルカの切ない想いを誰が受け止めてくれるだろうか。  とても切ない物語です。  この作品は、カクヨム、小説家になろうにも掲載中。   

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

処理中です...