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④/選ぶ側、選ばれる側
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緋菜の声は、小さかった。
「死にたくないよ……」
俺は、その言葉を聞いたのか、聞いていないのか分からない。
ただ、病室の空気がわずかに揺れた気がした。
ソファーで目を開ける。首が痛い。
腕の痺れより先に、胸の奥が痛んだ。
ベッドの上の彼女は、泣いていた。
泣くのを隠すみたいに、口元を押さえて。
泣き声はない。
それが余計に刺さった。
「……起きてたのか」
自分の声が、思ったより低い。
緋菜はびくりとして、慌てて顔を拭いた。
そして、無理に笑った。
「ごめんなさい……起こしちゃいました?」
「いや、問題ない」
病室の白がまぶしい。
この白は、市場の白とは違う。
清潔だ。だからこそ、残酷に映る。
「……大丈夫か」
それしか言えない。
緋菜は頷こうとして、途中で止まった。
少しだけ息が詰まる。
「動く、から……大丈夫」
言い方が子どもみたいで、俺は喉の奥が熱くなった。
扉がノックされ、看護師が入ってくる。
点滴の滴下を確認し、体温計を差し出す。
「白鷺さん、もうだいぶ落ち着いてますね。よかった」
緋菜は小さく「ありがとうございます」と言った。
看護師は俺の方を見る。
どこか、申し訳なさそうな顔だった。
「……夜間、お電話しましたよね。緊急連絡先がこちらになっていましたので」
緋菜が、ほんの一瞬だけ固まった。
俺は言葉が出なかった。
あの市場の入口で。
彼女は確かに言った。
──もし私が倒れたら、連絡していいですか?
俺は、馬鹿、と言った。
家族にしろ、と言った。
そのときの彼女の返事が、頭の中で遅れて響く。
──"家族には……言えないので"。
「……俺が、連絡先に?」
看護師は頷く。
「はい。ご本人が。何度も確認しました」
緋菜は、視線を落とした。
まつ毛が震えている。
看護師が出て行くと、病室はまた静かになった。
小さな機械音だけが続く。
俺は、言うべき言葉を探して、見つけられないまま口を開いた。
「……家族って」
緋菜は顔を上げない。
「……弟だけです」
声が、薄い。
薄いのに、言葉が重い。
「両親は?」
「いません。もう」
それだけだった。
余計な説明はない。
だから余計に、現実味が強く、叩きつけられる。
──"馬鹿。家族にしろ"。
自身のあの時の台詞が、何度も脳内を巡る。
俺は息を吐いた。
吐いたつもりで、うまく吐けなかった。
「……悪かった。無神経だった」
緋菜が少しだけ目を見開く。
俺が謝るところを、想像していなかったみたいに。
「鷹宮さんは悪くないです」
すぐに否定する。
癖みたいに。
「……悪い」
俺はもう一度言った。
今度は、逃げない。
逃げたくない。
緋菜は困ったように笑った。
「じゃあ……半分だけ、悪いです」
その言い方が、いつもの彼女で。
俺は少しだけ救われた。
でも、救われちゃいけない気がした。
今はまだ。
スマートフォンが震える。
画面に表示された名前で、胸が冷える。
──『葛城』。
病室の白に、黒い文字が浮いた。
通話を切る。
すぐに、もう一度鳴る。
切る。
また鳴る。
気付けば、緋菜が心配そうにこちらを見ている。
「……仕事?」
「違う」
違わない。
でも、違うと言いたかった。
スマートフォンが鳴り続ける。
白い部屋の中で、それだけが異物みたいに暴れる。
苛立ちが募る。
俺は立ち上がり、廊下に出た。
扉を閉める。
呼吸を整える。
通話ボタンを押す。
「……何だ」
『逃げんなよ、鷹宮』
低い声。笑っている。
『三日。期限は切れた』
「まだ本人が——」
『本人は今、病院だろ?』
心臓が音を立てて跳ねる。
全て、お見通しってことか。
『市場は何でも知ってる。医者も人間だからな。金が嫌いな奴はいない』
息が詰まる。
胸の内側に、鉄の匂いが戻ってくる。
『お前がやらないなら、別の奴がやる。それだけだ』
「……強制はさせない」
『強制? 違うな。取引だ』
笑い声が、耳に張り付く。
『今夜、詳しい話をする。場所はいつもの個室。必ず来い』
通話が切れた。
俺はスマートフォンを握り潰しそうになる。
振り返ると、扉の向こうは静かだった。
彼女はあそこにいる。
機械音の中で、生きている。
生きているのに。
あの市場は、まだ赤い。
病室に戻ると、緋菜は少しだけ顔色が悪かった。
泣いたせいかもしれない。
それとも、ただ弱っているだけか。
「……どこ行ってたんですか」
「ちょっと」
「ちょっと、って……」
緋菜が笑いかけて、途中で咳き込む。
胸を押さえる。
呼吸が浅くなる。
俺は反射的に近寄った。
背中に手を当てる。
骨が当たる。
軽い。
また、軽い。
「……だい、じょうぶ」
言葉に詰まりながら、緋菜が言う。
さっきと同じ言葉。
でも、今度は信じられない。
「大丈夫じゃないだろ」
声が強くなる。
緋菜は少し驚いた顔をして、それから目を逸らした。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
続く言葉が、出てこない。
沈黙が続くと、
緋菜は視線を落とし、布団を握りしめた。
「……私、迷惑ですか?」
その言葉は、刃だった。
まっすぐで、弱いふりをしていない。
「違う」
即答だった。
「迷惑じゃない」
言った瞬間、自分で自分の逃げ道を塞いだと分かった。
緋菜は少しだけ笑った。
泣きそうな笑い方だった。
「じゃあ……困りますよ」
前にも聞いた言葉。
同じなのに、意味が違う。
──突き放してほしくない。
言葉にしなくても、伝わる。
緋菜は、静かにそう言っている。
俺は、ベッドの端に座った。
触れるか触れないかの距離。
「……退院できそうなら、今日は一旦、帰れ」
「え?」
「ちゃんと寝ろ」
緋菜が唇を噛む。
「鷹宮さんは?」
「……俺は」
言いかけて、喉が詰まる。
葛城との話が、頭のどこかに引っかかっている。
赤いランプの光と、この白い病室が、うまく結びつかない。
「俺は、ちょっと行ってくる」
緋菜の目が揺れた。
「どこに?」
「……仕事」
嘘じゃない。
でも、本当でもない。
緋菜は何か言いかけて、やめた。
代わりに、枕元のコップに触れる。
手が少し震えている。
「……戻って、きますよね……?」
問いでも、確認でもない。
まるで、祈りのようだった。
俺は一瞬、答えに迷った。
迷ったことが、腹立たしい。
「ああ。戻る」
根拠はない。
でも、言わなければならない。
「ちゃんと戻ってくる」
緋菜は、ようやく小さく頷いた。
俺は立ち上がり、病室を出た。
廊下の白い光が、肌に刺さる。
ポケットの中で、スマートフォンが震える。
画面を見なくても分かる。
あいつだ。
さっきまで握っていた緋菜の手の感触が、まだ残っている。
軽くて、細くて、冷たかった。
あのまま、消えそうだった。
エレベーターの扉が閉まる。
鏡に映った自分の顔が、思ったより疲れている。
地下へ降りるボタンを押す指が、わずかに震えた。
白い部屋の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
なのに、思い出すのは赤いランプだ。
あの部屋に戻れば、また数字になる。
四年。
三年。
ゼロ。
胸の奥が、また、ざらつく。
俺は目を閉じた。
……戻ると言った。
それだけは、嘘にしたくない。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
湿った空気が、肺に入る。
いつも通りのはずなのに、
今日は吐き気がする。
◆◆◆
地下の廊下を歩きながら、俺は一度だけ足を止めた。
病室の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
消毒液とも違う、あの清潔すぎる空気。
それが、ここに漂う鉄の匂いと混ざり合って、気分が悪くなる。
赤いランプの灯る扉の前に立つと、胸の奥がわずかに重くなった。
この部屋には、何度も入ってきたはずなのに、今日はやけに遠い。
ノックをせずに扉を開けると、葛城はソファーに腰を沈め、グラスの中の氷を揺らしていた。
「遅かったな」
その声は穏やかだったが、目は笑っていない。
「時間通りだ」
短く返すと、葛城は鼻で笑った。
「病院に寄ってたんだろ」
一瞬、呼吸が詰まる。だが顔には出さない。
葛城は他人の動向を探ることに躊躇がない。知っていても不思議はない。
「で、用件は」
話を逸らすと、葛城はグラスをテーブルに置いた。
「分かってるだろ。
三年分。あの子だ」
やはり、その話か。
分かっていたはずなのに、実際に言葉にされると腹の底が冷える。
「何度も言うが、本人は同意していない」
「同意するさ」
あっさりと返される。
「金が必要なんだろう。弟の治療費。入院延長。どれも安くない」
やはり、全て調べ上げている。
この市場は、商品に関する情報を惜しまない。
赤いランプが、部屋を静かに染めている。
その色はいつもと同じなのに、今日は妙に濃く見えた。
「……今回は受けない。本人の身体が──」
言い終える前に、グラスがテーブルに叩きつけられる音が、室内に響く。中のウイスキーが、少し飛び散る。
葛城は目を細める。苛立った様子だ。
「……勘違いすんなよ。テメェに決定権なんかねェんだよ。本人が首を縦に振るかどうかだ」
奴の言っていることは、正しい。
俺たちは、あくまで仲介。私情なんて、挟んではいけない。
「情が移ったか」
軽い口調で言われる。
否定する言葉が、喉まで出かかって、止まった。
沈黙が、答えになってしまう。
葛城は小さく笑った。
「珍しいな、鷹宮」
俺は視線を逸らさなかった。
「とにかく、三年は売らせない」
「ならどうする」
淡々と問われる。
病室で、震えながら眠っていた姿が浮かぶ。
あの手の軽さ。
あの小さな声。
「……俺が買う」
口に出してから、その重さを実感する。
葛城はわずかに眉を上げた。
「三年分だぞ。安くはない」
「分かっている」
「足りるのか」
即答はできなかった。
迷ったのは一瞬だった。だが、迷ったことは、悟らせない。
「足りなくても、用意するさ」
葛城はしばらく俺を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「面白い。期限は明日だ。それまでに金を揃えろ」
それ以上は言わなかった。
言わなくても分かる。
用意できなければ、別のブローカーが動くだけだ。
部屋を出ると、湿った空気が肺にまとわりついた。
階段を上がりながら、手すりを握る。
自分の手の熱だけが浮いている。
さっき握った、彼女の手と同じ温度だった。
俺は立ち止まる。
三年三か月。
数字として見れば、ただの残り時間だ。
だが、今は違う。
あれは呼吸で、鼓動で、泣き声だ。
約束した。
戻ると。
ここで騒ぎを起こす訳にはいかない。
そう思いながら、階段を上がる。
「死にたくないよ……」
俺は、その言葉を聞いたのか、聞いていないのか分からない。
ただ、病室の空気がわずかに揺れた気がした。
ソファーで目を開ける。首が痛い。
腕の痺れより先に、胸の奥が痛んだ。
ベッドの上の彼女は、泣いていた。
泣くのを隠すみたいに、口元を押さえて。
泣き声はない。
それが余計に刺さった。
「……起きてたのか」
自分の声が、思ったより低い。
緋菜はびくりとして、慌てて顔を拭いた。
そして、無理に笑った。
「ごめんなさい……起こしちゃいました?」
「いや、問題ない」
病室の白がまぶしい。
この白は、市場の白とは違う。
清潔だ。だからこそ、残酷に映る。
「……大丈夫か」
それしか言えない。
緋菜は頷こうとして、途中で止まった。
少しだけ息が詰まる。
「動く、から……大丈夫」
言い方が子どもみたいで、俺は喉の奥が熱くなった。
扉がノックされ、看護師が入ってくる。
点滴の滴下を確認し、体温計を差し出す。
「白鷺さん、もうだいぶ落ち着いてますね。よかった」
緋菜は小さく「ありがとうございます」と言った。
看護師は俺の方を見る。
どこか、申し訳なさそうな顔だった。
「……夜間、お電話しましたよね。緊急連絡先がこちらになっていましたので」
緋菜が、ほんの一瞬だけ固まった。
俺は言葉が出なかった。
あの市場の入口で。
彼女は確かに言った。
──もし私が倒れたら、連絡していいですか?
俺は、馬鹿、と言った。
家族にしろ、と言った。
そのときの彼女の返事が、頭の中で遅れて響く。
──"家族には……言えないので"。
「……俺が、連絡先に?」
看護師は頷く。
「はい。ご本人が。何度も確認しました」
緋菜は、視線を落とした。
まつ毛が震えている。
看護師が出て行くと、病室はまた静かになった。
小さな機械音だけが続く。
俺は、言うべき言葉を探して、見つけられないまま口を開いた。
「……家族って」
緋菜は顔を上げない。
「……弟だけです」
声が、薄い。
薄いのに、言葉が重い。
「両親は?」
「いません。もう」
それだけだった。
余計な説明はない。
だから余計に、現実味が強く、叩きつけられる。
──"馬鹿。家族にしろ"。
自身のあの時の台詞が、何度も脳内を巡る。
俺は息を吐いた。
吐いたつもりで、うまく吐けなかった。
「……悪かった。無神経だった」
緋菜が少しだけ目を見開く。
俺が謝るところを、想像していなかったみたいに。
「鷹宮さんは悪くないです」
すぐに否定する。
癖みたいに。
「……悪い」
俺はもう一度言った。
今度は、逃げない。
逃げたくない。
緋菜は困ったように笑った。
「じゃあ……半分だけ、悪いです」
その言い方が、いつもの彼女で。
俺は少しだけ救われた。
でも、救われちゃいけない気がした。
今はまだ。
スマートフォンが震える。
画面に表示された名前で、胸が冷える。
──『葛城』。
病室の白に、黒い文字が浮いた。
通話を切る。
すぐに、もう一度鳴る。
切る。
また鳴る。
気付けば、緋菜が心配そうにこちらを見ている。
「……仕事?」
「違う」
違わない。
でも、違うと言いたかった。
スマートフォンが鳴り続ける。
白い部屋の中で、それだけが異物みたいに暴れる。
苛立ちが募る。
俺は立ち上がり、廊下に出た。
扉を閉める。
呼吸を整える。
通話ボタンを押す。
「……何だ」
『逃げんなよ、鷹宮』
低い声。笑っている。
『三日。期限は切れた』
「まだ本人が——」
『本人は今、病院だろ?』
心臓が音を立てて跳ねる。
全て、お見通しってことか。
『市場は何でも知ってる。医者も人間だからな。金が嫌いな奴はいない』
息が詰まる。
胸の内側に、鉄の匂いが戻ってくる。
『お前がやらないなら、別の奴がやる。それだけだ』
「……強制はさせない」
『強制? 違うな。取引だ』
笑い声が、耳に張り付く。
『今夜、詳しい話をする。場所はいつもの個室。必ず来い』
通話が切れた。
俺はスマートフォンを握り潰しそうになる。
振り返ると、扉の向こうは静かだった。
彼女はあそこにいる。
機械音の中で、生きている。
生きているのに。
あの市場は、まだ赤い。
病室に戻ると、緋菜は少しだけ顔色が悪かった。
泣いたせいかもしれない。
それとも、ただ弱っているだけか。
「……どこ行ってたんですか」
「ちょっと」
「ちょっと、って……」
緋菜が笑いかけて、途中で咳き込む。
胸を押さえる。
呼吸が浅くなる。
俺は反射的に近寄った。
背中に手を当てる。
骨が当たる。
軽い。
また、軽い。
「……だい、じょうぶ」
言葉に詰まりながら、緋菜が言う。
さっきと同じ言葉。
でも、今度は信じられない。
「大丈夫じゃないだろ」
声が強くなる。
緋菜は少し驚いた顔をして、それから目を逸らした。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
続く言葉が、出てこない。
沈黙が続くと、
緋菜は視線を落とし、布団を握りしめた。
「……私、迷惑ですか?」
その言葉は、刃だった。
まっすぐで、弱いふりをしていない。
「違う」
即答だった。
「迷惑じゃない」
言った瞬間、自分で自分の逃げ道を塞いだと分かった。
緋菜は少しだけ笑った。
泣きそうな笑い方だった。
「じゃあ……困りますよ」
前にも聞いた言葉。
同じなのに、意味が違う。
──突き放してほしくない。
言葉にしなくても、伝わる。
緋菜は、静かにそう言っている。
俺は、ベッドの端に座った。
触れるか触れないかの距離。
「……退院できそうなら、今日は一旦、帰れ」
「え?」
「ちゃんと寝ろ」
緋菜が唇を噛む。
「鷹宮さんは?」
「……俺は」
言いかけて、喉が詰まる。
葛城との話が、頭のどこかに引っかかっている。
赤いランプの光と、この白い病室が、うまく結びつかない。
「俺は、ちょっと行ってくる」
緋菜の目が揺れた。
「どこに?」
「……仕事」
嘘じゃない。
でも、本当でもない。
緋菜は何か言いかけて、やめた。
代わりに、枕元のコップに触れる。
手が少し震えている。
「……戻って、きますよね……?」
問いでも、確認でもない。
まるで、祈りのようだった。
俺は一瞬、答えに迷った。
迷ったことが、腹立たしい。
「ああ。戻る」
根拠はない。
でも、言わなければならない。
「ちゃんと戻ってくる」
緋菜は、ようやく小さく頷いた。
俺は立ち上がり、病室を出た。
廊下の白い光が、肌に刺さる。
ポケットの中で、スマートフォンが震える。
画面を見なくても分かる。
あいつだ。
さっきまで握っていた緋菜の手の感触が、まだ残っている。
軽くて、細くて、冷たかった。
あのまま、消えそうだった。
エレベーターの扉が閉まる。
鏡に映った自分の顔が、思ったより疲れている。
地下へ降りるボタンを押す指が、わずかに震えた。
白い部屋の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
なのに、思い出すのは赤いランプだ。
あの部屋に戻れば、また数字になる。
四年。
三年。
ゼロ。
胸の奥が、また、ざらつく。
俺は目を閉じた。
……戻ると言った。
それだけは、嘘にしたくない。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
湿った空気が、肺に入る。
いつも通りのはずなのに、
今日は吐き気がする。
◆◆◆
地下の廊下を歩きながら、俺は一度だけ足を止めた。
病室の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
消毒液とも違う、あの清潔すぎる空気。
それが、ここに漂う鉄の匂いと混ざり合って、気分が悪くなる。
赤いランプの灯る扉の前に立つと、胸の奥がわずかに重くなった。
この部屋には、何度も入ってきたはずなのに、今日はやけに遠い。
ノックをせずに扉を開けると、葛城はソファーに腰を沈め、グラスの中の氷を揺らしていた。
「遅かったな」
その声は穏やかだったが、目は笑っていない。
「時間通りだ」
短く返すと、葛城は鼻で笑った。
「病院に寄ってたんだろ」
一瞬、呼吸が詰まる。だが顔には出さない。
葛城は他人の動向を探ることに躊躇がない。知っていても不思議はない。
「で、用件は」
話を逸らすと、葛城はグラスをテーブルに置いた。
「分かってるだろ。
三年分。あの子だ」
やはり、その話か。
分かっていたはずなのに、実際に言葉にされると腹の底が冷える。
「何度も言うが、本人は同意していない」
「同意するさ」
あっさりと返される。
「金が必要なんだろう。弟の治療費。入院延長。どれも安くない」
やはり、全て調べ上げている。
この市場は、商品に関する情報を惜しまない。
赤いランプが、部屋を静かに染めている。
その色はいつもと同じなのに、今日は妙に濃く見えた。
「……今回は受けない。本人の身体が──」
言い終える前に、グラスがテーブルに叩きつけられる音が、室内に響く。中のウイスキーが、少し飛び散る。
葛城は目を細める。苛立った様子だ。
「……勘違いすんなよ。テメェに決定権なんかねェんだよ。本人が首を縦に振るかどうかだ」
奴の言っていることは、正しい。
俺たちは、あくまで仲介。私情なんて、挟んではいけない。
「情が移ったか」
軽い口調で言われる。
否定する言葉が、喉まで出かかって、止まった。
沈黙が、答えになってしまう。
葛城は小さく笑った。
「珍しいな、鷹宮」
俺は視線を逸らさなかった。
「とにかく、三年は売らせない」
「ならどうする」
淡々と問われる。
病室で、震えながら眠っていた姿が浮かぶ。
あの手の軽さ。
あの小さな声。
「……俺が買う」
口に出してから、その重さを実感する。
葛城はわずかに眉を上げた。
「三年分だぞ。安くはない」
「分かっている」
「足りるのか」
即答はできなかった。
迷ったのは一瞬だった。だが、迷ったことは、悟らせない。
「足りなくても、用意するさ」
葛城はしばらく俺を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「面白い。期限は明日だ。それまでに金を揃えろ」
それ以上は言わなかった。
言わなくても分かる。
用意できなければ、別のブローカーが動くだけだ。
部屋を出ると、湿った空気が肺にまとわりついた。
階段を上がりながら、手すりを握る。
自分の手の熱だけが浮いている。
さっき握った、彼女の手と同じ温度だった。
俺は立ち止まる。
三年三か月。
数字として見れば、ただの残り時間だ。
だが、今は違う。
あれは呼吸で、鼓動で、泣き声だ。
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戻ると。
ここで騒ぎを起こす訳にはいかない。
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