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第3章/死の境界 cross-border
3-⑥/訓練・序/衝動
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【訓練一日目】
少し、移動する。
人の気配はない。けれど、空気だけがやけに澄んでいる。
そこは綺麗な神社だった。
その境内に足を踏み入れた瞬間、胸の奥が、ひくりと鳴った。
──嫌な感じ。
懐かしい、という方が近いかもしれない。
血の匂いがしないのに、夜の気配だけが、ここには残っている。
「ここは"結界の中"だ。いくら暴れても平気だぞ」
京二の声が、背後から聞こえた。
振り返ると、彼はいつも通り穏やかな表情をしている。
なのに、その足元だけ、微かに霊力が渦を巻いていた。
「結界の向こうでは、葉月が頑張ってる」
京二はそう言って、札を取り出す。
「──レイ。君には、スイッチの入り時間を長くするための訓練をしてもらう」
京二の声が、遠くなる。
「まずこれからやるのは、"対話"だ。
そのために──」
一拍。
「完全に、入れ替わってもらう」
入れ替わる──完全に、破壊衝動に成り代わるということ。
対話、なんて出来るのだろうか。
否。奴はただの衝動。
暴れて、お終いだろう。
私は、苦く笑った……つもりだった。
「止めてくれるんですよね」
声が、震えないように気をつける。
「戻れなくなったら」
「ああ、止める」
即答だった。
「だから、ここにいる」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが──ほどけた。
「──起きて」
静かに、呼ぶ。
一瞬じゃない。
完全に、切り替える。
次の瞬間。
意識が、沈む。
暗くなる、というより、
押し潰される感覚だった。
胸の奥。
心臓よりも、もっと深い場所。
そこに──何かがいる。
……だめ。
止めようとした思考は、途中で千切れた。
熱。
怒り。
理由のない殺意。
あの夜に見た光景が、重なる。
血の匂い。
刃の軌跡。
──殺す。
衝動が、形を持った瞬間。
「ァ──」
喉が、勝手に震えた。
声にならない声が、外に漏れる。
その中で。
ひとつだけ、はっきりとした言葉が、吐き出される。
「……ジン」
名乗った、という感覚はなかった。
ただ、
そういう音が必要だっただけだ。
「"ジン"、か。
それが、お前の名だな」
京二が、微笑む。
次の瞬間、世界が跳ねた。
前後の区別が消える。
距離という概念が、意味を失う。
斬る。
壊す。
引き裂く。
理由はない。
対象が京二である必要もない。
──そこに“壊せるもの”がある。
それだけ。
だが。
衝突は、起きなかった。
衝撃の代わりに、
視界が反転する。
地面。
空。
上下。
背中が叩きつけられ、肺が潰れる。
「……っ!」
息が、吸えない。
喉元に、何かがある。
触れていない。
なのに、完全に固定されている。
京二の手。
その距離、数センチ。
「……」
言葉は、なかった。
ただ、圧だけがある。
気付けば、周りの木々にはこちらを囲うように、幾つもの護符が貼られている。
……いつの間に。
逃げ場のない、
生存を許すための拘束。
衝動が、暴れる。
壊せ。
殺せ。
意味のない命令が、内側で反響する。
──でも、身体が動かない。
初めて。
壊したいのに、壊せない。
京二が、静かに距離を取る。
「……今のが、“お前”だ」
誰に向けた言葉か、分からない。
私か。
それとも、内側のそれか。
「名を持った時点で、
もうただの衝動じゃない」
胸の奥が、軋む。
理解できない。
したくもない。
でも。
──怖い。
力を奪われた恐怖じゃない。
この人は、止められる。
壊すことしかできないそれを、
壊さずに、封じられる。
その事実が。
……戻らなきゃ。
必死に、意識を引き戻す。
爪を立てる。
呼吸を探す。
熱が、少しずつ引いていく。
視界が、元に戻る。
京二が、こちらを見ている。
その目には、恐れも、嫌悪もない。
ただ。
「……地獄を、よく耐えたな」
静かな声。
「それを抱えたまま、
まだ“戻ろう”としている」
私は、膝を抱える。
震えが、止まらない。
京二は、続けた。
「だが、覚えておけ」
低く、確かな声で。
「次にあれを呼び起こす時は、
必ず“帰り道”を決めてからだ」
それが出来なくなったら。
──終わりだ。
言葉にしなくても、分かった。
私は、深く息を吸った。
まだ、生きている。
境界の、こちら側に。
◆◆◆
日は、すでに山の向こうへ落ちていた。
社殿の前で、葉月は凩を膝に置いたまま、深く息を吐く。
肩も、腕も、脚も、ひどく重い。
だがそれ以上に、胸の奥に残るのは──掴みきれなかった感覚だった。
「……」
何度も試した。
霊力を身体から切り離し、武器へ流す。
理屈は、分かっている。
けれど。
流そうとした瞬間、どうしても“守り”に回ってしまう。
身体が先に備えてしまう。
結果、凩は中途半端に重くなり、
そのたびに京香の指が、容赦なく喉元まで届いた。
「今日はここまで」
京香の声で、葉月は顔を上げる。
「顔に出てるよ。全然、掴めてないって」
苦笑しようとして、失敗する。
「……すみません」
「謝る必要はないわ」
京香は淡々と言った。
「今日一日で出来るレベルのことなら、最初から教えてない」
それでも。
葉月は、凩を強く握りしめる。
出来なかった、という事実だけが、重く残っていた。
◆◆◆
社殿から少し離れた場所。
京二と京香は、並んで腰を下ろしていた。
夜の気配が、ゆっくりと濃くなっていく。
「……葉月は、どんな感じだ?」
京二が、静かに問う。
「筋は良いよ。"逸材"って言ってもいい」
即答だった。
「本来なら、霊力定着の修行だけで数年かかる。その過程で、少しずつ操作が出来るようになるものだけど」
京香は、指で空をなぞる。
「あの子の場合は、順序が逆ね」
「逆?」
「初めから、霊力が完璧に定着してる」
京二は、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
「だから、力が大きすぎる」
京香は続ける。
「大きすぎて、細かく操れない。
本人は無意識に“守り”に回してるから、余計にね」
一拍。
「あとは、本人が掴むしかない」
夜風が、二人の間を抜ける。
「……レイは?」
京香が、今度は問い返した。
京二は、懐から護符を取り出す。
──いや。
正確には、“護符だったもの”。
紙は裂け、焼け、穴が空いている。
「……思った以上に、強大だ」
京香が、思わず口笛を吹く。
「念のため、十枚ほど重ねてたんだけどな」
京二は苦笑する。
「全部、貫通された」
「それは……」
「“アレ”を制御するってのは、中々に骨が折れる」
京二は、護符を見つめたまま言った。
「“アレ”は、レイの九年間の地獄の日々の……言わば、集合体みたいな存在だ」
静かな声。
「相当に、手強い」
京香は、何も言わなかった。
ただ、その表情だけで、同意していた。
◆◆◆
夜。
境内の隅で、私は石段に腰を下ろしていた。
昼間の熱が、まだ身体に残っている。
……正直、きつかった。
“完全に切り替える”時間を、ほんの少し延ばしただけで、
身体の内側が、焼けるように痛む。
「……あ」
隣に、気配。
顔を上げると、葉月だった。
手には、凩。
「隣、いい?」
「うん」
短く答える。
少しの沈黙。
それから、葉月がぽつりと言った。
「……今日さ」
「うん」
「気づいたんだけど」
言葉を選んでいる。
「俺がやろうとしてることって……
レイが、無意識にやってることなんじゃない?」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「……スイッチの、切り替え」
葉月は続ける。
「攻撃の一瞬だけ、全部を切り替えて……また戻る」
私は、空を見上げた。
「……そう、だね」
否定はできなかった。
「なんかさ」
葉月が、困ったように笑う。
「コツとか、ないの?」
一瞬、言葉に詰まる。
コツ。
そんなもの。
──あったら、私自身が、こんなに苦労してない。
でも。
私は、考える。
自分が、どうやってやっているのか。
「……自分を、一回捨てる」
葉月が、こちらを見る。
「捨てる……?」
「うん」
私は、ゆっくり言葉を探した。
「喩えるなら……高い所から、飛び降りるイメージ」
葉月の目が、見開かれる。
「でも、一瞬だけ」
続ける。
「着地する場所を、先に決めて……
そこに向けて、一気に飛び込む」
夜風が、頬を撫でた。
「……そんな感じ」
葉月は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……怖く、ない?」
その問いに、私は小さく笑う。
「怖いよ」
即答だった。
「だから、一瞬しかやらない」
葉月は、凩を見下ろす。
「……俺、まだ。
飛び降りる場所が、決めきれてない」
私は、何も言わなかった。
それは、他人が決めてやれるものじゃない。
夜の境内に、静寂が落ちる。
私たちは同じ“境界”を、見ている。
それぞれ別の崖の上、別の立ち方で。
そんな気がしていた。
少し、移動する。
人の気配はない。けれど、空気だけがやけに澄んでいる。
そこは綺麗な神社だった。
その境内に足を踏み入れた瞬間、胸の奥が、ひくりと鳴った。
──嫌な感じ。
懐かしい、という方が近いかもしれない。
血の匂いがしないのに、夜の気配だけが、ここには残っている。
「ここは"結界の中"だ。いくら暴れても平気だぞ」
京二の声が、背後から聞こえた。
振り返ると、彼はいつも通り穏やかな表情をしている。
なのに、その足元だけ、微かに霊力が渦を巻いていた。
「結界の向こうでは、葉月が頑張ってる」
京二はそう言って、札を取り出す。
「──レイ。君には、スイッチの入り時間を長くするための訓練をしてもらう」
京二の声が、遠くなる。
「まずこれからやるのは、"対話"だ。
そのために──」
一拍。
「完全に、入れ替わってもらう」
入れ替わる──完全に、破壊衝動に成り代わるということ。
対話、なんて出来るのだろうか。
否。奴はただの衝動。
暴れて、お終いだろう。
私は、苦く笑った……つもりだった。
「止めてくれるんですよね」
声が、震えないように気をつける。
「戻れなくなったら」
「ああ、止める」
即答だった。
「だから、ここにいる」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが──ほどけた。
「──起きて」
静かに、呼ぶ。
一瞬じゃない。
完全に、切り替える。
次の瞬間。
意識が、沈む。
暗くなる、というより、
押し潰される感覚だった。
胸の奥。
心臓よりも、もっと深い場所。
そこに──何かがいる。
……だめ。
止めようとした思考は、途中で千切れた。
熱。
怒り。
理由のない殺意。
あの夜に見た光景が、重なる。
血の匂い。
刃の軌跡。
──殺す。
衝動が、形を持った瞬間。
「ァ──」
喉が、勝手に震えた。
声にならない声が、外に漏れる。
その中で。
ひとつだけ、はっきりとした言葉が、吐き出される。
「……ジン」
名乗った、という感覚はなかった。
ただ、
そういう音が必要だっただけだ。
「"ジン"、か。
それが、お前の名だな」
京二が、微笑む。
次の瞬間、世界が跳ねた。
前後の区別が消える。
距離という概念が、意味を失う。
斬る。
壊す。
引き裂く。
理由はない。
対象が京二である必要もない。
──そこに“壊せるもの”がある。
それだけ。
だが。
衝突は、起きなかった。
衝撃の代わりに、
視界が反転する。
地面。
空。
上下。
背中が叩きつけられ、肺が潰れる。
「……っ!」
息が、吸えない。
喉元に、何かがある。
触れていない。
なのに、完全に固定されている。
京二の手。
その距離、数センチ。
「……」
言葉は、なかった。
ただ、圧だけがある。
気付けば、周りの木々にはこちらを囲うように、幾つもの護符が貼られている。
……いつの間に。
逃げ場のない、
生存を許すための拘束。
衝動が、暴れる。
壊せ。
殺せ。
意味のない命令が、内側で反響する。
──でも、身体が動かない。
初めて。
壊したいのに、壊せない。
京二が、静かに距離を取る。
「……今のが、“お前”だ」
誰に向けた言葉か、分からない。
私か。
それとも、内側のそれか。
「名を持った時点で、
もうただの衝動じゃない」
胸の奥が、軋む。
理解できない。
したくもない。
でも。
──怖い。
力を奪われた恐怖じゃない。
この人は、止められる。
壊すことしかできないそれを、
壊さずに、封じられる。
その事実が。
……戻らなきゃ。
必死に、意識を引き戻す。
爪を立てる。
呼吸を探す。
熱が、少しずつ引いていく。
視界が、元に戻る。
京二が、こちらを見ている。
その目には、恐れも、嫌悪もない。
ただ。
「……地獄を、よく耐えたな」
静かな声。
「それを抱えたまま、
まだ“戻ろう”としている」
私は、膝を抱える。
震えが、止まらない。
京二は、続けた。
「だが、覚えておけ」
低く、確かな声で。
「次にあれを呼び起こす時は、
必ず“帰り道”を決めてからだ」
それが出来なくなったら。
──終わりだ。
言葉にしなくても、分かった。
私は、深く息を吸った。
まだ、生きている。
境界の、こちら側に。
◆◆◆
日は、すでに山の向こうへ落ちていた。
社殿の前で、葉月は凩を膝に置いたまま、深く息を吐く。
肩も、腕も、脚も、ひどく重い。
だがそれ以上に、胸の奥に残るのは──掴みきれなかった感覚だった。
「……」
何度も試した。
霊力を身体から切り離し、武器へ流す。
理屈は、分かっている。
けれど。
流そうとした瞬間、どうしても“守り”に回ってしまう。
身体が先に備えてしまう。
結果、凩は中途半端に重くなり、
そのたびに京香の指が、容赦なく喉元まで届いた。
「今日はここまで」
京香の声で、葉月は顔を上げる。
「顔に出てるよ。全然、掴めてないって」
苦笑しようとして、失敗する。
「……すみません」
「謝る必要はないわ」
京香は淡々と言った。
「今日一日で出来るレベルのことなら、最初から教えてない」
それでも。
葉月は、凩を強く握りしめる。
出来なかった、という事実だけが、重く残っていた。
◆◆◆
社殿から少し離れた場所。
京二と京香は、並んで腰を下ろしていた。
夜の気配が、ゆっくりと濃くなっていく。
「……葉月は、どんな感じだ?」
京二が、静かに問う。
「筋は良いよ。"逸材"って言ってもいい」
即答だった。
「本来なら、霊力定着の修行だけで数年かかる。その過程で、少しずつ操作が出来るようになるものだけど」
京香は、指で空をなぞる。
「あの子の場合は、順序が逆ね」
「逆?」
「初めから、霊力が完璧に定着してる」
京二は、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
「だから、力が大きすぎる」
京香は続ける。
「大きすぎて、細かく操れない。
本人は無意識に“守り”に回してるから、余計にね」
一拍。
「あとは、本人が掴むしかない」
夜風が、二人の間を抜ける。
「……レイは?」
京香が、今度は問い返した。
京二は、懐から護符を取り出す。
──いや。
正確には、“護符だったもの”。
紙は裂け、焼け、穴が空いている。
「……思った以上に、強大だ」
京香が、思わず口笛を吹く。
「念のため、十枚ほど重ねてたんだけどな」
京二は苦笑する。
「全部、貫通された」
「それは……」
「“アレ”を制御するってのは、中々に骨が折れる」
京二は、護符を見つめたまま言った。
「“アレ”は、レイの九年間の地獄の日々の……言わば、集合体みたいな存在だ」
静かな声。
「相当に、手強い」
京香は、何も言わなかった。
ただ、その表情だけで、同意していた。
◆◆◆
夜。
境内の隅で、私は石段に腰を下ろしていた。
昼間の熱が、まだ身体に残っている。
……正直、きつかった。
“完全に切り替える”時間を、ほんの少し延ばしただけで、
身体の内側が、焼けるように痛む。
「……あ」
隣に、気配。
顔を上げると、葉月だった。
手には、凩。
「隣、いい?」
「うん」
短く答える。
少しの沈黙。
それから、葉月がぽつりと言った。
「……今日さ」
「うん」
「気づいたんだけど」
言葉を選んでいる。
「俺がやろうとしてることって……
レイが、無意識にやってることなんじゃない?」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「……スイッチの、切り替え」
葉月は続ける。
「攻撃の一瞬だけ、全部を切り替えて……また戻る」
私は、空を見上げた。
「……そう、だね」
否定はできなかった。
「なんかさ」
葉月が、困ったように笑う。
「コツとか、ないの?」
一瞬、言葉に詰まる。
コツ。
そんなもの。
──あったら、私自身が、こんなに苦労してない。
でも。
私は、考える。
自分が、どうやってやっているのか。
「……自分を、一回捨てる」
葉月が、こちらを見る。
「捨てる……?」
「うん」
私は、ゆっくり言葉を探した。
「喩えるなら……高い所から、飛び降りるイメージ」
葉月の目が、見開かれる。
「でも、一瞬だけ」
続ける。
「着地する場所を、先に決めて……
そこに向けて、一気に飛び込む」
夜風が、頬を撫でた。
「……そんな感じ」
葉月は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……怖く、ない?」
その問いに、私は小さく笑う。
「怖いよ」
即答だった。
「だから、一瞬しかやらない」
葉月は、凩を見下ろす。
「……俺、まだ。
飛び降りる場所が、決めきれてない」
私は、何も言わなかった。
それは、他人が決めてやれるものじゃない。
夜の境内に、静寂が落ちる。
私たちは同じ“境界”を、見ている。
それぞれ別の崖の上、別の立ち方で。
そんな気がしていた。
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