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第3章/死の境界 cross-border
3-⑦/訓練・破/掴む
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【訓練二日目】
朝の空気は、やけに冷たかった。
社殿の前に立った瞬間、葉月はそれを感じる。
昨日と同じ場所。
同じ地面。
同じ木刀。
なのに、身体が落ち着かない。
「……考えすぎ」
小さく呟いて、息を整える。
昨日、出来なかった。
だから今日は、出来る気がしない──
そう思った瞬間、京香の声が飛んだ。
「考えるな」
鋭い。
「考えるのも、反省するのも、失敗してからでいい」
京香は、既に間合いの外にいる。
立ち方も、気配も、昨日よりさらに削ぎ落とされていた。
「今日は、細かい説明はしない」
凩を顎で示す。
「一回だけ、成功させなさい」
葉月は、喉を鳴らす。
「……一回、だけ?」
「そう」
京香は、淡々と言った。
「その一回で、“あんたの癖”が分かる」
葉月は、凩を構える。
昨日、レイが言っていた言葉が、脳裏をよぎる。
──自分を、一回捨てる。
──着地点を決めて、飛び込む。
高いところから、飛び降りる。
……怖い。
だが。
ここで躊躇ったら、何も変わらない。
葉月は、目を閉じた。
霊力を感じる。
いつも通り、身体の内側を満たす流れ。
──違う。
それを、止める。
身体を“守ろう”とする意識を、意図的に切り捨てる。
それはまさに、
丸腰で暗闇へ潜っていく──そんな感覚。
「……っ」
怖い。
皮膚が、薄くなったような感覚。
世界に、直接触れているみたいな、不安定さ。
霊力を、凩へ。
流す。
逃がす。
その瞬間。
凩が、ずしりと重くなった。
「……!」
葉月の目が、見開かれる。
違う。
昨日までと、明確に違う。
ただの木刀じゃない。
握っている“向こう側”に、何かがある。
「さあ、ここから」
京香の声。
「来るわよ」
次の瞬間。
霊力が溢れる。大きい。
いつもは“空気の流れ”みたいに曖昧だったそれが、輪郭を持って見えた。
──守りじゃない。外へ放つための霊力。
逃がすな。凩の周りに留めろ。
霊力を“留める”ことだけは、葉月の得意分野だった。
しっかり握っていないと、弾き飛ばされそうな程の、圧。
昨日とは、まるで違う。
葉月は、それ以上考えなかった。
身体は、軽い。
軽すぎるほどだ。
だから──
凩を、振り抜く。
空気が、裂ける。
目の前の大木へ向けて、一振り。
速さは、まるで無い。
相手が人間であれば、簡単に避けられるだろう。
それでも。
その威力は、凄まじく──
「……っ」
葉月は、息を呑んだ。
確かな“手応え”。
大木は、まるで薪割りの丸太のように、真っ二つに切れ、静かに倒れていく。
「……成功」
京香が、静かに言う。
その瞬間。
葉月の膝が、がくりと落ちた。
「え……?」
世界が、ぐらつく。
視界が、白くなる。
皮膚が、薄い。足元が、頼りない。
──戻してない。
霊力を、身体に戻していない。
防御が、ゼロのまま。
「バカ!」
京香の声と同時に、衝撃。
──来る。
反射的に、身を強張らせた瞬間。
身体が、宙に浮いた。
背中から、地面に叩きつけられる。
「……っ!!」
息が、抜ける。
肺が、潰れる。
何も、防げていない。
地面に叩きつけられたと思っていた背中は、京香が支えている。
より大きな霊力で包んで、瞬時に受け止めてくれたのが分かった。
「今のが、“死ぬ”ってこと」
冷たい声。
「成功に、酔うな」
葉月は、必死に呼吸を探す。
「攻撃に全振りするってことは」
一歩、退く。
「戻す判断が、遅れた瞬間──終わりよ」
ようやく、霊力を戻す。
身体に、血が戻る感覚。
遅れて、痛みが襲ってくる。
「……っ」
それでも。
葉月は、凩を離さなかった。
震える手で、強く握る。
成功した。
確かに、出来た。
そして。
──一歩間違えば、死んでいた。
京香は、それを見て、小さく頷いた。
「いい顔してる」
容赦のない評価。
「今日の成果は、それで十分」
葉月は、荒い息のまま、空を見上げた。
怖い。
でも。
飛び降りる感覚が、少しだけ分かった。
境界は──
遠くじゃない。
踏み外せば、すぐそこにある。
◆◆◆
呼吸が、まだ浅い。
境内を歩くだけで、身体の内側がざわつく。
昨日、完全に“入れ替わった”せいだ。
──ジン。
あの名前を吐き出した瞬間から、何かが変わった。
押し込めていた衝動に、輪郭が生まれてしまった。
「……嫌な感じ」
小さく呟く。
逃げたい、とは思わない。
でも──近づきすぎると、戻れなくなる。
そんな距離感。
「今日は、昨日より踏み込むぞ」
背後から、京二の声。
振り返ると、いつも通りの顔。
穏やかで、緊張感の欠片もない。
……それが、一番怖い。
「スイッチの“時間”を伸ばす」
京二は、淡々と続ける。
「オンの瞬間だけじゃない。
五秒。
十秒。
呼吸一つ分」
視線が、真っ直ぐこちらに向く。
「その間、“あれ”と同じ場所に立つ」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「……正気じゃない」
思わず、本音が漏れた。
「だろうな」
京二は、あっさり肯定した。
「だから、俺がいる」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は意味が違って聞こえた。
「理由を言おうか」
京二は、ゆっくりと歩き出す。
「なぜ、お前が“戻る”必要があるのか」
私は、黙って続きを待つ。
「破壊衝動は、便利だ」
一歩。
「迷わない」
二歩。
「恐れない」
三歩。
「だがな」
距離が、詰まる。
「それは、“選ばない”ということでもある」
はっと、する。
「壊すか、壊さないか。
生かすか、殺すか」
京二は、静かに言った。
「選んでいるようで、
実際は流されているだけだ」
胸の奥に、鈍い痛み。
「戻れなくなった人間はな」
京二の声が、低くなる。
「“守る理由”を、失う」
その一言で、全てが繋がった。
──だから、戻る。
壊すためじゃない。
選ぶために。
「……分かった」
私は、短く答えた。
怖い。
でも、逃げる理由にはならない。
「じゃあ、やるぞ」
京二は、札を取り出す。
昨日より、多い。
紫色の札が、空に舞う。
霊力を帯びたそれらが、円を描く。
「今日は、止めない」
心臓が、跳ねる。
「“戻れなくなりそうになるまで”、待つ」
つまり──
限界まで、行けということだ。
「……っ」
私は、目を閉じた。
深く、息を吸う。
昨日よりも、ゆっくり。
「──起きて」
呼びかける。
昨日のように、一気には沈まない。
抵抗が、ある。
内側から、叩くような衝動。
出ろ。
壊せ。
「……うるさい」
歯を食いしばる。
スイッチを、押す。
完全じゃない。
でも、確実に──
世界が、赤くなる。
「……ッ」
視界が、歪む。
足元の感覚が、消える。
身体が、軽い。
軽すぎる。
──来る。
理由もなく、斬りたくなる。
京二の姿が、視界に入る。
壊せる。
壊せるものが、そこにある。
踏み込む。
刃が、走る。
だが。
京二は徐に、札を取り出す。
護符ではない。
禍々しいほどの霊力が込められた、"紫色"の札。
それらが瞬時に、形を変えた。
刃。
鎖。
壁。
全てが、一拍遅れもなく連動する。
「……っ!」
攻撃が、全て潰される。
否。
潰されているんじゃない。
“誘導されている”。
無駄な動きが、全部読まれている。
怒りが、膨れ上がる。
もっと。
もっと。
──殺せ。
「……」
声が、喉までせり上がる。
その瞬間。
視界が、急に“狭まった”。
京二が、すぐ目の前にいる。
札が、喉元に突きつけられている。
触れていない。
でも──
動けば、終わる。
「……戻れ」
京二の声。
命令じゃない。
“選択肢”だ。
戻るか。
壊すか。
私は──
歯を食いしばり、呼吸を探す。
痛み。
記憶。
夜の匂い。
全部、押しのけて。
引き戻す。
スイッチを、切る。
「……はっ」
膝が、崩れる。
視界が、元に戻る。
心臓が、暴れている。
京二は、札を回収しながら言った。
「今のが、“戻る”ってことだ」
私は、地面に手をついたまま、息を整える。
「……なんで」
掠れた声。
「なんで、あそこまで出来るんですか」
京二は、一瞬だけ黙った。
それから。
「昔な」
静かに言った。
「戻れなかった奴を、何人も見た」
視線が、遠くを見る。
「止められなかった」
一拍。
「だから、止める側に立った」
それだけ。
でも。
その背中が、何よりも雄弁だった。
私は、立ち上がる。
まだ、震えている。
でも──
戻れた。
「……もう一回、やれます」
京二は、少しだけ目を細めた。
「いいだろう」
紫の札が、再び舞う。
「今日、三回戻れたら合格だ」
……無茶を言う。
でも。
それでも。
この人がいる限り、私は。
──戻ることを、選べる。
◆◆◆
夜。
澪尽町の空から、星がひとつ、ふっと消えた。
──黒い塔、上層。
窓という概念のない空間で、
淡い光の粒子が、静かに流れている。
円形の部屋の中央。
記録端末が、微かに音を立てていた。
「……反応、更新」
低い声が響く。
端末の前に立つ男は、
数値の変化を、淡々と追っていた。
「境界反応、第二波を確認。
強度──上昇傾向」
「一過性じゃ、なかったみたいね」
背後から、女の声。
白に近い銀髪。
感情を削ぎ落としたような表情。
No.2──ワタリ。
彼女は、端末を覗き込む。
「……二箇所、同時?」
「はい」
男が応じる。
「一つは、前回と同じ未登録個体。
もう一つは──」
画面が切り替わる。
「……レイ」
ワタリは、静かに名を呼んだ。
その響きに、わずかな“温度”が混じる。
「訓練、かしらね」
「恐らく」
男は頷く。
「境界の揺らぎが、一定周期で発生しています。
意図的な出力調整──
つまり、制御の兆候」
ワタリは、指先で端末を叩く。
軽い音。
「……面倒ね」
「危険度は?」
「当然、上がるでしょう」
即答だった。
「制御を覚えた破壊衝動ほど、
厄介なものはない」
男が、躊躇いがちに言った。
「介入、しますか?」
問いは、慎重だった。
ワタリは、即座に首を振る。
「いいえ」
冷静な声。
「今は、皆が固まっている」
端末に映る波形──
澪尽町の一点に重なる、複数の反応。
「機が来るまで、待ちましょう」
男は、僅かに眉を寄せる。
「ですが……このまま放置すれば、
手が付けられなくなる可能性も──」
「ええ」
ワタリは、遮らない。
「それよりも、今突っ込むことのリスクの方が、圧倒的に高いわ」
視線を外し、歩き出す。
「アナタは知らないの」
低く、静かな声。
「神谷兄妹の、恐ろしさを」
男は、一瞬、言葉に詰まった。
「……恐ろしさ、ですか?」
確認するように聞き返す。
ワタリは、足を止める。
端末の光が、
彼女の横顔を、冷たく照らした。
「ええ」
淡々と。
「私が、長年No.3に甘んじていたのも──
“奴が居座っていた”せいだもの」
男の目が、わずかに見開かれる。
「神谷 京香、ですか」
「そう」
一拍。
「……でもね」
ワタリは、僅かに口角を上げる。
「噂では、その京香よりも。
兄の方が、実力は上だそうよ」
「……」
男は、即答できなかった。
「にわかには……
信じられないですね」
正直な反応だった。
京香の戦闘能力は、
黒い塔の中でも“記録外”とされている。
それ以上が存在するなど──
ワタリは、小さく息を吐く。
「何年前だったかしら」
記憶を辿るように、天井を仰ぐ。
「当時の"No.1"が、
返り討ちにあったという話」
男は、言葉を失った。
「……公式記録には、ありません」
「ええ。消されたもの」
淡々と。
「黒い塔が、
“なかったことにした”事件よ」
一歩、男に近づく。
「彼はね」
低く。
「勝てる戦いをしない。
でも──負ける戦いは、もっとしない」
沈黙。
端末の波形が、静かに脈打つ。
「だから、今は手を出さない」
ワタリは、踵を返す。
「兄妹が揃っている今は、特にね」
歩きながら、続ける。
「削るなら、
まず“周囲”から」
男は、理解したように息を呑む。
「……町、ですか」
「ええ」
淡く、冷たい微笑。
「守りたいものがある者ほど、
選択を誤る」
光が、ゆっくりと落ちていく。
黒い塔は、まだ動かない。
だが。
神谷兄妹という“異物”を、
正面から叩かないという選択そのものが──
彼らを、
どれほど脅威と見なしているかを、
雄弁に物語っていた。
朝の空気は、やけに冷たかった。
社殿の前に立った瞬間、葉月はそれを感じる。
昨日と同じ場所。
同じ地面。
同じ木刀。
なのに、身体が落ち着かない。
「……考えすぎ」
小さく呟いて、息を整える。
昨日、出来なかった。
だから今日は、出来る気がしない──
そう思った瞬間、京香の声が飛んだ。
「考えるな」
鋭い。
「考えるのも、反省するのも、失敗してからでいい」
京香は、既に間合いの外にいる。
立ち方も、気配も、昨日よりさらに削ぎ落とされていた。
「今日は、細かい説明はしない」
凩を顎で示す。
「一回だけ、成功させなさい」
葉月は、喉を鳴らす。
「……一回、だけ?」
「そう」
京香は、淡々と言った。
「その一回で、“あんたの癖”が分かる」
葉月は、凩を構える。
昨日、レイが言っていた言葉が、脳裏をよぎる。
──自分を、一回捨てる。
──着地点を決めて、飛び込む。
高いところから、飛び降りる。
……怖い。
だが。
ここで躊躇ったら、何も変わらない。
葉月は、目を閉じた。
霊力を感じる。
いつも通り、身体の内側を満たす流れ。
──違う。
それを、止める。
身体を“守ろう”とする意識を、意図的に切り捨てる。
それはまさに、
丸腰で暗闇へ潜っていく──そんな感覚。
「……っ」
怖い。
皮膚が、薄くなったような感覚。
世界に、直接触れているみたいな、不安定さ。
霊力を、凩へ。
流す。
逃がす。
その瞬間。
凩が、ずしりと重くなった。
「……!」
葉月の目が、見開かれる。
違う。
昨日までと、明確に違う。
ただの木刀じゃない。
握っている“向こう側”に、何かがある。
「さあ、ここから」
京香の声。
「来るわよ」
次の瞬間。
霊力が溢れる。大きい。
いつもは“空気の流れ”みたいに曖昧だったそれが、輪郭を持って見えた。
──守りじゃない。外へ放つための霊力。
逃がすな。凩の周りに留めろ。
霊力を“留める”ことだけは、葉月の得意分野だった。
しっかり握っていないと、弾き飛ばされそうな程の、圧。
昨日とは、まるで違う。
葉月は、それ以上考えなかった。
身体は、軽い。
軽すぎるほどだ。
だから──
凩を、振り抜く。
空気が、裂ける。
目の前の大木へ向けて、一振り。
速さは、まるで無い。
相手が人間であれば、簡単に避けられるだろう。
それでも。
その威力は、凄まじく──
「……っ」
葉月は、息を呑んだ。
確かな“手応え”。
大木は、まるで薪割りの丸太のように、真っ二つに切れ、静かに倒れていく。
「……成功」
京香が、静かに言う。
その瞬間。
葉月の膝が、がくりと落ちた。
「え……?」
世界が、ぐらつく。
視界が、白くなる。
皮膚が、薄い。足元が、頼りない。
──戻してない。
霊力を、身体に戻していない。
防御が、ゼロのまま。
「バカ!」
京香の声と同時に、衝撃。
──来る。
反射的に、身を強張らせた瞬間。
身体が、宙に浮いた。
背中から、地面に叩きつけられる。
「……っ!!」
息が、抜ける。
肺が、潰れる。
何も、防げていない。
地面に叩きつけられたと思っていた背中は、京香が支えている。
より大きな霊力で包んで、瞬時に受け止めてくれたのが分かった。
「今のが、“死ぬ”ってこと」
冷たい声。
「成功に、酔うな」
葉月は、必死に呼吸を探す。
「攻撃に全振りするってことは」
一歩、退く。
「戻す判断が、遅れた瞬間──終わりよ」
ようやく、霊力を戻す。
身体に、血が戻る感覚。
遅れて、痛みが襲ってくる。
「……っ」
それでも。
葉月は、凩を離さなかった。
震える手で、強く握る。
成功した。
確かに、出来た。
そして。
──一歩間違えば、死んでいた。
京香は、それを見て、小さく頷いた。
「いい顔してる」
容赦のない評価。
「今日の成果は、それで十分」
葉月は、荒い息のまま、空を見上げた。
怖い。
でも。
飛び降りる感覚が、少しだけ分かった。
境界は──
遠くじゃない。
踏み外せば、すぐそこにある。
◆◆◆
呼吸が、まだ浅い。
境内を歩くだけで、身体の内側がざわつく。
昨日、完全に“入れ替わった”せいだ。
──ジン。
あの名前を吐き出した瞬間から、何かが変わった。
押し込めていた衝動に、輪郭が生まれてしまった。
「……嫌な感じ」
小さく呟く。
逃げたい、とは思わない。
でも──近づきすぎると、戻れなくなる。
そんな距離感。
「今日は、昨日より踏み込むぞ」
背後から、京二の声。
振り返ると、いつも通りの顔。
穏やかで、緊張感の欠片もない。
……それが、一番怖い。
「スイッチの“時間”を伸ばす」
京二は、淡々と続ける。
「オンの瞬間だけじゃない。
五秒。
十秒。
呼吸一つ分」
視線が、真っ直ぐこちらに向く。
「その間、“あれ”と同じ場所に立つ」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「……正気じゃない」
思わず、本音が漏れた。
「だろうな」
京二は、あっさり肯定した。
「だから、俺がいる」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は意味が違って聞こえた。
「理由を言おうか」
京二は、ゆっくりと歩き出す。
「なぜ、お前が“戻る”必要があるのか」
私は、黙って続きを待つ。
「破壊衝動は、便利だ」
一歩。
「迷わない」
二歩。
「恐れない」
三歩。
「だがな」
距離が、詰まる。
「それは、“選ばない”ということでもある」
はっと、する。
「壊すか、壊さないか。
生かすか、殺すか」
京二は、静かに言った。
「選んでいるようで、
実際は流されているだけだ」
胸の奥に、鈍い痛み。
「戻れなくなった人間はな」
京二の声が、低くなる。
「“守る理由”を、失う」
その一言で、全てが繋がった。
──だから、戻る。
壊すためじゃない。
選ぶために。
「……分かった」
私は、短く答えた。
怖い。
でも、逃げる理由にはならない。
「じゃあ、やるぞ」
京二は、札を取り出す。
昨日より、多い。
紫色の札が、空に舞う。
霊力を帯びたそれらが、円を描く。
「今日は、止めない」
心臓が、跳ねる。
「“戻れなくなりそうになるまで”、待つ」
つまり──
限界まで、行けということだ。
「……っ」
私は、目を閉じた。
深く、息を吸う。
昨日よりも、ゆっくり。
「──起きて」
呼びかける。
昨日のように、一気には沈まない。
抵抗が、ある。
内側から、叩くような衝動。
出ろ。
壊せ。
「……うるさい」
歯を食いしばる。
スイッチを、押す。
完全じゃない。
でも、確実に──
世界が、赤くなる。
「……ッ」
視界が、歪む。
足元の感覚が、消える。
身体が、軽い。
軽すぎる。
──来る。
理由もなく、斬りたくなる。
京二の姿が、視界に入る。
壊せる。
壊せるものが、そこにある。
踏み込む。
刃が、走る。
だが。
京二は徐に、札を取り出す。
護符ではない。
禍々しいほどの霊力が込められた、"紫色"の札。
それらが瞬時に、形を変えた。
刃。
鎖。
壁。
全てが、一拍遅れもなく連動する。
「……っ!」
攻撃が、全て潰される。
否。
潰されているんじゃない。
“誘導されている”。
無駄な動きが、全部読まれている。
怒りが、膨れ上がる。
もっと。
もっと。
──殺せ。
「……」
声が、喉までせり上がる。
その瞬間。
視界が、急に“狭まった”。
京二が、すぐ目の前にいる。
札が、喉元に突きつけられている。
触れていない。
でも──
動けば、終わる。
「……戻れ」
京二の声。
命令じゃない。
“選択肢”だ。
戻るか。
壊すか。
私は──
歯を食いしばり、呼吸を探す。
痛み。
記憶。
夜の匂い。
全部、押しのけて。
引き戻す。
スイッチを、切る。
「……はっ」
膝が、崩れる。
視界が、元に戻る。
心臓が、暴れている。
京二は、札を回収しながら言った。
「今のが、“戻る”ってことだ」
私は、地面に手をついたまま、息を整える。
「……なんで」
掠れた声。
「なんで、あそこまで出来るんですか」
京二は、一瞬だけ黙った。
それから。
「昔な」
静かに言った。
「戻れなかった奴を、何人も見た」
視線が、遠くを見る。
「止められなかった」
一拍。
「だから、止める側に立った」
それだけ。
でも。
その背中が、何よりも雄弁だった。
私は、立ち上がる。
まだ、震えている。
でも──
戻れた。
「……もう一回、やれます」
京二は、少しだけ目を細めた。
「いいだろう」
紫の札が、再び舞う。
「今日、三回戻れたら合格だ」
……無茶を言う。
でも。
それでも。
この人がいる限り、私は。
──戻ることを、選べる。
◆◆◆
夜。
澪尽町の空から、星がひとつ、ふっと消えた。
──黒い塔、上層。
窓という概念のない空間で、
淡い光の粒子が、静かに流れている。
円形の部屋の中央。
記録端末が、微かに音を立てていた。
「……反応、更新」
低い声が響く。
端末の前に立つ男は、
数値の変化を、淡々と追っていた。
「境界反応、第二波を確認。
強度──上昇傾向」
「一過性じゃ、なかったみたいね」
背後から、女の声。
白に近い銀髪。
感情を削ぎ落としたような表情。
No.2──ワタリ。
彼女は、端末を覗き込む。
「……二箇所、同時?」
「はい」
男が応じる。
「一つは、前回と同じ未登録個体。
もう一つは──」
画面が切り替わる。
「……レイ」
ワタリは、静かに名を呼んだ。
その響きに、わずかな“温度”が混じる。
「訓練、かしらね」
「恐らく」
男は頷く。
「境界の揺らぎが、一定周期で発生しています。
意図的な出力調整──
つまり、制御の兆候」
ワタリは、指先で端末を叩く。
軽い音。
「……面倒ね」
「危険度は?」
「当然、上がるでしょう」
即答だった。
「制御を覚えた破壊衝動ほど、
厄介なものはない」
男が、躊躇いがちに言った。
「介入、しますか?」
問いは、慎重だった。
ワタリは、即座に首を振る。
「いいえ」
冷静な声。
「今は、皆が固まっている」
端末に映る波形──
澪尽町の一点に重なる、複数の反応。
「機が来るまで、待ちましょう」
男は、僅かに眉を寄せる。
「ですが……このまま放置すれば、
手が付けられなくなる可能性も──」
「ええ」
ワタリは、遮らない。
「それよりも、今突っ込むことのリスクの方が、圧倒的に高いわ」
視線を外し、歩き出す。
「アナタは知らないの」
低く、静かな声。
「神谷兄妹の、恐ろしさを」
男は、一瞬、言葉に詰まった。
「……恐ろしさ、ですか?」
確認するように聞き返す。
ワタリは、足を止める。
端末の光が、
彼女の横顔を、冷たく照らした。
「ええ」
淡々と。
「私が、長年No.3に甘んじていたのも──
“奴が居座っていた”せいだもの」
男の目が、わずかに見開かれる。
「神谷 京香、ですか」
「そう」
一拍。
「……でもね」
ワタリは、僅かに口角を上げる。
「噂では、その京香よりも。
兄の方が、実力は上だそうよ」
「……」
男は、即答できなかった。
「にわかには……
信じられないですね」
正直な反応だった。
京香の戦闘能力は、
黒い塔の中でも“記録外”とされている。
それ以上が存在するなど──
ワタリは、小さく息を吐く。
「何年前だったかしら」
記憶を辿るように、天井を仰ぐ。
「当時の"No.1"が、
返り討ちにあったという話」
男は、言葉を失った。
「……公式記録には、ありません」
「ええ。消されたもの」
淡々と。
「黒い塔が、
“なかったことにした”事件よ」
一歩、男に近づく。
「彼はね」
低く。
「勝てる戦いをしない。
でも──負ける戦いは、もっとしない」
沈黙。
端末の波形が、静かに脈打つ。
「だから、今は手を出さない」
ワタリは、踵を返す。
「兄妹が揃っている今は、特にね」
歩きながら、続ける。
「削るなら、
まず“周囲”から」
男は、理解したように息を呑む。
「……町、ですか」
「ええ」
淡く、冷たい微笑。
「守りたいものがある者ほど、
選択を誤る」
光が、ゆっくりと落ちていく。
黒い塔は、まだ動かない。
だが。
神谷兄妹という“異物”を、
正面から叩かないという選択そのものが──
彼らを、
どれほど脅威と見なしているかを、
雄弁に物語っていた。
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