Frail/Little Assassin

新田朝弥

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第3章/死の境界 cross-border

3-⑩/虎口竜穴

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 木皿儀は、崩れた壁に、背中を預ける。

 身体が、言うことを利かない。
 霊力は、もう空っぽだ。

 視界の端で、京香がこちらに背を向けるのが見えた。

 ──行くのか。

 胸の奥が、ざわつく。

「……殺していけ」

 声は、思ったよりも低く出た。

 京香の足が、止まる。

「言ったでしょ」

 振り返らずに、軽く言う。

「私はもう引退したの。
 殺しなんて、真っ平ごめんよ」

 その言葉が、妙に胸に刺さった。

「……今、殺さねぇと」

 歯を食いしばる。

「今度は、お前を付け狙うぞ」

 自分でも、何を言っているのか分からない。
 脅しなのか、縋りなのか。

 京香は、肩越しにこちらを見た。

「やだ、ストーカー?」

 呆れたように。

「キモいから、やめな」

 軽口。
 だが、そこに嘲りはなかった。

 しばらくの沈黙。

 やがて、京香が小さく息を吐く。

「……私もね」

 今度は、少しだけ声が低かった。

「過去に、復讐に囚われた身」

 木皿儀は、目を見開いた。

「アンタの気持ち……
 分からなくもない」

 一歩も近づかない。
 それでも、言葉だけは、確かに届く距離。

「でもね」

 京香の目は、静かだった。

「復讐の“先”なんて、何も無い」

 断言。

「ホントに、何も」

 その言葉に、反論が浮かばない。

 京二を殺したら。
 それで、何が残る?

 勝利か?
 名誉か?
 それとも──空っぽの自分か。

「今からでも、遅くないよ」

 京香は、はっきりと言った。

「“人として”、生きてみな」

 それだけ言って、今度こそ背を向ける。

 足音が、遠ざかっていく。

 木皿儀は、動けなかった。
 追いすがることも。
 罵ることも。

 胸の奥で、何かが軋んでいる。

 ──復讐が、正義じゃないなら。

 ──自分は、今まで何を支えに生きてきた?

「……ちくしょう」

 声にならない呟きが、零れた。

 京香の背中は、もう見えない。

 残されたのは、
 憎しみを失った自分と──
 それでも、まだ終われない現実だけだった。

 しばらくして、
 京香の気配が、完全に消えた。

 残された静寂の中で、木皿儀は瓦礫に背を預けたまま、天を仰ぐ。
 胸の奥が、妙に空っぽだった。

 ──人として、生きてみな。

 耳に残る声。

「……ふざけたこと、言いやがって」

 吐き捨てるように呟いた、その瞬間だった。

 ぞわり、と。
 空気が変わる。

 霊力の“質”が違う。
 だが、さっきまでのような圧倒的な濃度ではない。

 ──数だ。

 気配が、増えていく。

 屋根の上。
 路地の奥。
 割れたビルの影。
 同時に、複数。

「……早ぇな」

 木皿儀は、口の端を吊り上げた。

 あまりにも早い。
 まるで──
 最初から、この結果を待っていたかのような到着速度。

「ハッ……」

 笑いが漏れる。

「そういうことかよ、ワタリ」

 "雪村 葉月の排除"という名目だったが、
 本当は──京香と戦わせるために、送り出された。
 勝つことも、帰ることも、想定されていなかった。

 失敗する前提。
 いや──
 成功の定義が、最初から違っていた。

 京香の戦闘。
 霊力の制御。
 技の精度。

 それを“見せる”ための、囮。

「……つくづく、クソ女だ」

 影が、姿を現す。

 揃いの装束。
 無機質な仮面。
 だが。
 感じる霊力は、薄い。

「……ん?」

 木皿儀は、眉をひそめた。

「ナンバーズじゃねぇな」

 鎌を支えに、ゆっくりと立ち上がる。
 身体は、悲鳴を上げている。
 それでも、笑った。

「ったく、こんな雑兵、寄越しやがって……」

 吐き捨てる。

「舐められたもんだな」

 雑兵の一人が、無言で符を構える。
 別の者は、刃を抜いた。

 統率は取れている。
 だが──個としての圧は無い。

 その瞬間。
 脳裏に、声が蘇る。

 ──今からでも遅くないよ。
 ──“人として”、生きてみな。

「……チッ」

 木皿儀は、顔を歪めた。

「皮肉だな」

 復讐に縋っていた自分が。
 初めて、それ以外の選択を考えた直後に──
 消される側になるとは。

 鎌を、構える。
 刃は欠け。
 霊力も、ほとんど残っていない。

 それでも。

「少しばっか……」

 目を細める。

「抵抗させてもらうぜ」

 踏み込んだ。

 雑兵の一人が、反応する前に。
 鎌が、地面を抉る。

 衝撃で、数名が吹き飛ぶ。

「……っ!?」

 驚愕が走る。

 ──想定より、動く。
 そう判断したのだろう。
 雑兵たちは、一斉に距離を取り、符を展開する。

 結界。
 拘束。
 封殺。

 数で潰すための、徹底した手順。

「は……」

 木皿儀は、血を吐きながら笑った。

「やっぱりだ」

 ワタリは、何もかも計算済みだ。
 京香のデータは取った。
 役目は、終わり。

 だから。
 自分は──

「……それでもよ」

 鎌を、地面に突き立てる。

「ここで、何もせず消えるほど……」

 霊力を、無理やり引き上げる。
 身体が、軋む。

「……素直じゃねぇんだよ、俺は」

 結界が、閉じる。
 光が、視界を塗り潰した。

 その中で、木皿儀は──
 京香の背中を、思い出していた。

 復讐から、降りた女。
 それでも、前に進んでいる人間。

「……人として、か」

 かすれた声。

 次の瞬間。
 爆音が、澪尽町の片隅を包んだ。

 そして──
 そこに、木皿儀 岳の姿を見た者は、いなくなった。

 ◆◆◆

 目を閉じると、まだ、金属の音が耳に残っていた。

 鎌が振るわれる音。
 鉄パイプが弾く音。
 そして──
 京香の刃が、世界を切り替えた、あの一瞬。

 葉月は、布団の上で天井を見つめたまま、息を整えていた。

 眠れない。

 身体は、確かに休息を欲している。
 なのに、頭だけが、やけに冴えていた。

 ──俺は、死にかけた。
 それも、はっきりと。

 「視えていた」のに、
 「分かっていた」のに、
 次の一手が、選べなかった。

 凩を、ぎゅっと握る。
 掌に残る感触は、現実だ。

 あの男──木皿儀。
 間違いなく、強かった。

 それでも。

 京香が前に出た瞬間、
 戦いの“次元”そのものが、変わった。

 ……同じ土俵に、立ってなかった。

 悔しさよりも先に、理解が来てしまった。

 自分は、まだ“戦っている”段階。
 京香は、“支配していた”。
 霊力の量じゃない。
 技の多さでもない。

 ──使い方だ。

 使う場所。
 使う瞬間。
 そして、使わない判断。

 それを、すべて同時にやっていた。

「……まだまだ、か」

 小さく呟いた、その時。
 ふすまの向こうで、気配が動いた。
 足音は、二つ。
 聞き覚えのある、重さと、軽さ。

 京二と、京香だ。

 葉月は、呼吸を殺した。

 聞くつもりはなかった。
 だが、声は、自然と耳に入ってきた。

「──葉月は、もう“対象”だ」

 京二の声。
 低く、断定的。
 胸の奥が、ひくりと揺れる。

「ええ。偶然じゃない」

 京香の声が、続く。

「分断。
 完全に、こちらを崩しに来てる」

 ──やっぱり。

 今日の出来事は、偶然じゃなかった。

 俺が、商店街に一人で出たこと。
 そこに、刺客が来たこと。

 全部。
 ……俺が、原因だ。

 歯を食いしばる。

 守られた。
 助けられた。
 それは事実だ。

 でも。
 同時に、
 “巻き込んだ”のも、事実だった。

「隠すのは、もう無理ね」

 京香の声が、少しだけ柔らぐ。

「置いていく方が、危険」

 京二の言葉が、静かに重なる。

 葉月は、目を閉じた。

 怖い。
 正直に言えば、怖い。

 また、あの距離で、
 “死の境界”を突きつけられるかもしれない。

 だが。
 ……目を逸らしたら。
 きっと、もっと後悔する。

 あの戦いで、
 目指す場所を、見てしまった。
 知らなかった頃には、戻れない。

 葉月は、布団の上で、静かに上体を起こした。
 凩を取り、膝の上に置く。

「……狙われてるなら」

 誰に聞かせるでもなく、呟く。

「逃げる理由には、ならない」

 障子の向こうで、足音が止まった。
 一瞬の、間。

 そして。
 ふすまが、静かに開く。

 京香が、こちらを見ていた。
 視線が合う。
 少しだけ、困ったように笑う。

「起きてた?」

 葉月は、頷いた。

「……聞こえてました」

 沈黙。
 だが、京香は否定しなかった。
 代わりに、肩をすくめる。

「隠す気も、なくなったしね」

 その背後で、京二が立っている。
 いつもと変わらない表情。
 だが、どこか、張り詰めている。

「葉月」

 京二が、まっすぐに言った。

「これからは、狙われる」

 回りくどい言い方は、しない。

「一人で動くことは、原則禁止だ」

 葉月は、凩を握ったまま、顔を上げた。

「……それでも」

 声が、少し震える。

「俺、前に出ます」

 一瞬、空気が止まる。
 だが、京二は、すぐに頷いた。

「分かっている」

 否定しない。

「だからこそ、だ」

 京香が、葉月の目を、まっすぐ見る。

「次は、“守られる前提”じゃない。
 ──“並ぶ”前提よ」

 葉月の胸が、強く打った。

 並ぶ。
 その言葉の重さが、はっきりと伝わってくる。

 京二は、静かに続けた。

「次に壊される場所は、まだ断定できない。
 ──だが」

 視線が、窓の外へ向く。

「必ず、また来る」

 澪尽町の夜は、静かだった。

 けれど。
 葉月には分かる。
 この静けさは、
 “嵐の前”だ。

 そして。

 その中心に、
 自分が立ち始めていることも。

 ◆◆◆

 その夜は、結局、ほとんど眠れなかった。

 布団に横になっても、意識は浅いまま、何度も浮かんでは沈む。
 京香の短剣。
 木皿儀の叫び。
 そして──
 「並ぶ」という言葉。

 朝方。
 ようやく身体が重くなり始めた頃だった。

 ──とん。
 微かな音。

 最初は、気のせいだと思った。
 風か、家鳴りか。

 だが、もう一度。
 ──とん、と。

 葉月は、ゆっくりと目を開けた。

 ……今の、外?

 身体を起こし、障子を静かに開ける。
 廊下に人の気配はない。

 凩を手に取り、縁側へ向かう。

 外は、まだ薄暗い。
 朝と夜の境目。

 その縁側の先──庭の端に。

 小さな影が、しゃがみ込んでいた。

「……え」

 一瞬、息を呑む。

 影は、こちらに気づいたのか、
 びくりと肩を震わせた。

 そして、ゆっくりと振り返る。

 丸い目。
 短く切った髪。
 少し汚れたワンピース。

 ──フーちゃん。

「あ……」

 彼女は、声にならない声を漏らし、
 反射的に、後ずさった。

 逃げる、と思った。

「待って!」

 葉月は、思わず声を出していた。
 フーちゃんが、ぴたりと止まる。
 怯えた目。
 でも、完全には背を向けない。

 葉月は、凩を地面に置いた。
 両手を見せる。

「大丈夫……。
 怖いこと、しないから」

 自分でも、不器用な言い方だと思った。
 それでも。

 フーちゃんは、じっとこちらを見ている。
 まるで。
 “本当かどうか”を、量るみたいに。

「……また」

 かすれた声。
 フーちゃんが、小さく呟いた。

「……ここ、いた」

 胸が、少しだけ締め付けられる。

「うん」

 葉月は、ゆっくり頷いた。

「俺も、ここにいる」

 少しずつ、距離を詰める。
 フーちゃんは、逃げなかった。
 代わりに、ぽつりと。

「……こわいの、きた」

 その一言で、全身が強張る。

「……いつ?」

「さっき。
 でも……」

 フーちゃんは、空を指さした。

「まだ、いる」

 ぞわり、と。
 背筋を冷たいものが走る。

 葉月は、空気の“重さ”に意識を向けた。

 確かに。
 薄い。
 けれど、残っている。

 昨日までとは、違う形の、違和感。
 ──侵食は、終わっていない。

「……フーちゃん」

 名前を呼ぶと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。

「名前、覚えてた」

「忘れないよ」

 即答だった。
 自分でも、不思議なくらい。

 葉月は、膝を折り、目線を合わせる。

「ここは、危ない。
 だから……」

 一瞬、言葉に詰まる。
 “離れて”と言うのは、簡単だ。
 でも。
 この子は。
 きっと、もう何度も言われてきた。

 だから、葉月は、言い換えた。

「俺の近くに、いよう」

 フーちゃんの目が、わずかに見開かれる。

「……いいの?」

「うん」

 胸の奥が、静かに熱くなる。

「守るから」

 約束でも、宣言でもない。
 ただの、事実として。

 フーちゃんは、しばらく黙っていた。
 それから。
 小さく、頷いた。

「……フー、ちゃん」

 自分の名前を、確認するように言う。

「葉月、くん」

 呼ばれた瞬間。
 胸の奥で、何かが、かちりと音を立てた。

 その時だった。
 風が、止んだ。
 空気が、わずかに沈む。

 葉月は、凩に手を伸ばす。

 ──来る。

 背後から、足音。

「……やっぱりね」

 京香の声。
 振り返ると、縁側に立っていた。
 視線が、フーちゃんに向く。

 一瞬。
 ほんの一瞬だけ、驚いた顔をしてから。
 小さく、息を吐いた。

「この子が、“引き金”か」

 葉月は、前に出た。

 無意識に。
 フーちゃんを、背に庇う。

 京香は、それを見て、何も言わなかった。
 代わりに、静かに言う。

「……もう、始まってるわね」

 澪尽町は、まだ静かだ。
 けれど。
 確実に。
 “次”へと、進み始めていた。

 京香の一言のあと、場に沈黙が落ちた。

 朝の空気は澄んでいるはずなのに、
 フーちゃんの周囲だけ、どこか“薄く歪んで”見える。

 錯覚──ではない。

 葉月は、昨夜から研ぎ澄まされた感覚で、それをはっきりと捉えていた。

「……フーちゃん」

 名前を呼ぶと、彼女は小さく顔を上げた。

「なに?」

「さっき言ってたよね。
 “まだ、いる”って」

 フーちゃんは、少し考えるように視線を泳がせ、
 それから、こくりと頷いた。

「うん」

 指先で、地面をなぞる。

「ここじゃない。
 でも……近い」

 胸の奥が、ざわつく。

「それって……」

 言いかけた葉月を、京香が手で制した。

 代わりに、しゃがみ込んで、フーちゃんと目線を合わせる。

「フーちゃん」

 声は、驚くほど柔らかい。

「“見える”?」

 フーちゃんは、少し首を傾げた。

「……うん。
 でも、みんなと、ちがう」

「どう違う?」

「こわいのは、色がある」

 葉月の背筋が、ぞくりとした。

「赤いの。
 青いの。
 ぐちゃって、してる」

 ──霊力の“質”を、色として捉えている。

 それは、葉月とも、レイとも違う感覚だ。

 京香は、ゆっくり息を吐いた。

「……なるほど」

 立ち上がり、葉月を見る。

「この子、ただの“巻き込まれ”じゃないわね」

「……やっぱり?」

「ええ」

 視線を、フーちゃんに戻す。

「たぶんだけど。
 境界の“こちら側”と“向こう側”を、
 最初から分けて見てる」

 葉月は、言葉を探した。

「それって……危ない、ってことですか」

 京香は、即答しなかった。

 代わりに、短く言う。

「──怪異には、狙われやすい」

 胸が、きゅっと縮む。

 葉月は、思わずフーちゃんの前に立った。

 京香は、それを見て、何も言わなかった。
 否定もしない。

 フーちゃんが、不安そうに葉月の服を掴んだ。

 その小さな力に、
 葉月の中で、迷いが消える。

「……だったら」

 自分でも驚くほど、はっきり言えた。

「なおさら、離せない」

 京香は、一瞬だけ目を細め、
 それから、わずかに笑った。

「言うと思った」

 フーちゃんが、きょとんとする。

「……はなれるの、や?」

「うん」

 葉月は、即答した。

「一緒にいる」

 フーちゃんは、しばらく黙っていた。

 それから、ぎゅっと力を込めて、服を掴む。

「……じゃあ」

 小さな声。

「フー、ちゃんも。
 葉月くん、まもる」

 その言葉に。

 京香が、はっきりと表情を変えた。

「……ふうん」

 どこか、警戒を含んだ目。

「守られる覚悟がある子、ね」

 空気が、再び、わずかに沈む。
 葉月は、感じていた。

 フーちゃんは、
 “守られる存在”であると同時に──
 物語を動かす側に、片足を踏み入れている。

 そして。
 遠くで、微かに。
 何かが、こちらを“観測した”気配がした。
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