奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏

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『三河平定編』 天文十六年(一五四七年)

第65話 お前に仕えてやる

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 お館様たちとの密談を終えると、五郎八郎は宛がわれている岡崎城下の空き屋敷へと向かった。
 戻ってすぐに兵庫助が「叔父上に客人がお待ち」と報告してきた。広間に顔を出すと、そこで待っていたのは長坂九郎こと信也であった。

 九郎を自室に招き入れ、小姓の浅羽新三郎に誰も部屋に近づけないようにと命じる。新三郎はいつものように少し離れた場所で刀の柄に手をかけて待機。それを見届けてそっと襖を閉めた。

 無言で茶をすすり、二人同時にことりと湯飲みを床に置く。そして、同時に豪快に笑い出した。

「聞いたよ! 信秀が討死したんだってな! これで確実に歴史は変わった! もしかしたら桶狭間の戦いそのものが消えたかもしれん! 何せ俺も佐々政次を討ち取ってやったからな!」

 信也が膝をパンパン叩いて喜んでいる。

 「そこをどけ!」そう言って佐々政次は打ちかかってきたらしい。矢を撃たれ乗馬を失い、肩、膝に矢を受け、戦袍せんぽうも引き裂かれ、まるで落ち武者のような出で立ちで。
 繰り出された突きは確かに鋭かった。だが十文字槍で引っ掛けてひと巻きしてやっただけで、佐々は簡単に槍を弾かせてしまった。そこを喉の下を一突き。
 無双の勇士のはずだったのだろう。それがあっという間に打ち取られ、織田軍はあからさまに士気を低下させた。

「その時の信秀の青ざめた顔といったらなかったぜ! 宗太にも見せてやりたかったよ!」

 信也のテンションがあまりにも高いので「酒でも持ってこさせようか?」と言うと、信也は「良いねえ」と言って喜んだ。
 五郎八郎こと宗太は新三郎を呼び寄せ、酒を持って来るようにお願いした。
 酒が来るまでの間も戦の話に花が咲き続ける。酒と簡単なつまみが運ばれてくると、二人は「まずは一献」と言って酒を酌み交わした。

「しかしあの雪斎ってのは大した坊さんだな。あれ、前回の敗戦をわざわざなぞって相手油断させてるだろ。二段構えの『釣り野伏』。あんなに綺麗に決まるもんなんだな」

 あまりにも雪斎禅師を信也が褒めるものだから、宗太は不機嫌な顔をし「大した事ない」と言い出した。「前回だってちゃんと連携が取れていれば、あんな負け方する事は無かった」と。
 信也は大笑いしながら宗太の肩を叩き、「そういう事にしておいてやる」と言ってかわらけを煽った。

「ところでさ、信也。この後、尾張ってどうなると思う? 明らかに信秀が死ぬの早かったよね」

 真顔で聞く宗太に、信也も真顔になり、かわらけを床に置いて腕を組んだ。ふむうと鼻から息を放ち天井を見上げる。

「一つだけわかっている事がある。恐らくこの時点で織田家と美濃斎藤家の間では停戦協定はまだ結ばれていないって事だ。つまり、まだ帰蝶との婚姻前って事なんだよ」

 元々この小豆坂での織田軍の敗戦は予定にはあった。だがこんな致命的な大惨敗では無い。
 今川家の脅威を感じた織田信秀は斎藤道三と今川義元、二正面作戦を犯す愚を避け、斎藤家と結び今川家との対立一本に絞った。その成果が信長と帰蝶との婚姻であった。

「実は本来ならこの後、織田信長というか平手政秀と水野信元の策謀によって、三河は織田派と今川派に別れる事になるんだよ。松平家当主の広忠が殺されるのを皮切りとしてな」

 その対処の途中で雪斎が亡くなった事で、今川家の将来に不安を感じた諸家が一斉に織田派に鞍替えし、『三河忩劇そうげき』といわれる大混乱が起きる。その対処として尾張に攻め込んだ途中で発生したのが桶狭間の戦い。

 その信也の説明に「今なら平手の考えが理解できる」と言って宗太はかわらけを手に取った。
 織田家と斎藤家は、共に尾張と美濃という一国しか領しておらず、その領土は直接隣接してしまっている。一方の今川家は、本拠地の駿河は尾張からは遠く、さらに三河という緩衝地を挟んでいる。策謀に対しての対処速度が、今川家の方が圧倒的に鈍いのだ。

 ただ、それがわかっているのであれば対処は簡単かもしれない。まずは工作拠点となっている刈谷城を落とす。そして今川家から誰かを派遣し、逆に刈谷城を謀略の前線基地とすれば良い。

 問題は、雪斎の指示ではなく己の判断で尾張の工作がやれる人材に心当たりが無いという事であろう。
 いや、もしかしたら雪斎禅師なら誰かしら名前をあげるかもしれない。そういう方面では今川家において雪斎禅師の右に出る者はいないだろうから。

「つまり、ここで刈谷城の水野家を潰しておけば、三河はパワーゲームの場にされずに済むかもしれないって事か。だけど問題はその先だなあ」

 その先、つまり明らかに勢力を縮小させた尾張に誰が手を付けるか。今川家と事を構えようとするのは誰になるか。

 悩む宗太に、信也は不思議そうな顔をする。

「誰って、普通に考えて斎藤道三以外いなくね? 他に誰がいるってんだ? まさか伊勢の剣豪国司こくしか?」

 「北畠家は無いだろう」と信也は言うのだが、宗太は実は可能性は半々だと思っている。

 昔、歴史ゲームをやっていて、北畠具教とものりという大名の事が気になって調べた事がある。信也も言ったが北畠家は守護ではなく国司である。

 国司というのは南北朝の争乱の名残で、幕府の地方長官である守護に対抗して南朝が与えた役職。南北朝の争乱で伊勢北畠家は南朝の主力の一家ともいえる家で、そのまま戦国時代まで続いてしまっている。他には陸奥の浪岡(北畠)家、飛騨の姉小路家、阿波の一宮家、土佐の一条家、伊予の西園寺家などがいる。その中にあって伊勢北畠家は別格に勢いの強かった国司で、幕府から守護職を与えられたりもしている。

 そんな伊勢北畠家なのだが、織田信長が台頭してくる前に北畠具教という人物が現れる。剣豪塚原卜伝ぼくでんから一の太刀を伝授されたほどの剣豪とされているのだが、実際には偶然武者修行で立ち寄った卜伝から稽古を受けたという程度であろう。

 そういう話を聞くと武芸に特化した人物のように感じるが、なかなかどうして、伊勢と志摩を平定するまでの手腕はまさに見事。北伊勢の長野工藤家を攻めて傘下に加えたり、志摩では友好的な国人を支援して他の国人を滅ぼさせたりと、あの手この手であっという間に伊勢、志摩をまとめ上げている。

 はっきり言って、そこまで優秀な配下がいたというわけでも無く、さらにはそこまで有能な一門がいた訳でもない。強いていえば鳥屋尾とやのお満栄みつひでくらい。つまりは、ほぼ具教一人の才覚で伊勢、志摩をあっという間に平定したという事になると思う。

 父の死がよほどショックであったらしく、そこで楽隠居してしまう。それを幸いとした織田信長に切り崩し工作を受けてしまい、織田家に従属してしまうのだが、もしその才覚をいかんなく発揮していたら織田信長もどうなっていた事か。

 用兵、戦術、統治、謀略、外交、全てに「優」を付けられる人物は中々いない。そんな数少ない人物が北畠具教という人物だと思う。

「なるほどねえ。つまり織田家の勢力が弱い分、北畠家が尾張まで手を伸ばしてくるかもしれないって事なのか。そう聞くと確かに一代の傑物って感じだもんな。確かに無いとは言えんわな」

 「さすがは今川家の重鎮、色々とよく考えている」と言って信也は笑い出した。


 用意された酒を飲みきり、宴もたけなわという状況になった。五郎八郎はかなり顔を赤く染めており、信也も顔は真っ赤である。そんな信也が「いつ駿府に帰るんだ?」と聞いてきた。

「まだわからないよ。家康の行方もまだわかってないしね。ただ、まだ暫くはここにいると思うな。もしかしたら安祥城と刈谷城を落としてから帰る事になるかも」

 宗太の回答を、信也は宗太の目を見つめ黙って聞いた。また離れ離れになるのが寂しいのかな、そう宗太は考えていた。

「実はな、さっき本多忠高に暇乞いとまごいをしてきたんだ。昨日の戦で忠高は初陣にも関わらず中条ちゅうじょう家忠いえただとかいう武者首を取った。ならば、もう俺の役目は終わったと言ってな。今年元服した息子は残るって言ってるけどな」

 え?
 今何て言った?
 元服した息子って言った?

 宗太は驚きで話の前の部分が全部飛んでしまった。そんな宗太を信也は少し呆れた顔で見て、肩をパンと一叩きする。

「こっちに来て何年になると思ってるんだよ。そりゃあ子供だって元服くらいするだろ。もしかして宗太はまだ子供いないのか?」

 嫡男の徳王丸はもう九歳になる。現在、毎日のように和田八郎二郎があれやこれやと養育に当たっている。
 昨年娘の萱はめでたく土方城の岡部五郎兵衛に貰われていった。土方城は萱が嫁いでからすぐに『高天神城』と名を変えている。なんでも萱が有名な占い師から習った占い方法で占ったところ、土方城という名前はあまり良い名前ではないという結果が出たのだとか。
 二人の事を考えれば、別に信也の息子が元服していても不思議な事は何も無かった。

「なんだか話がずれちまったな。それでだ、俺も駿府に行くよ。宗太の下で働いてやる。幼馴染なんだから、ちゃんと厚遇しろよ?」

 信也は最後に残った酒を舐めるように飲んでゲラゲラと笑い出した。
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