残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第二章】動乱の都

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(一)花の都  
 
 
 文久三年(一八六三)の末頃、榎本武揚は事情があってパリにいた。パリはこの時代、ナポレオン三世のもと都市の大改造が行われているさなかだった。
 だいたいヨーロッパの都市というのは近世まで、そのいずれもが極めて不衛生で都市のインフラとしては最悪といってよかった。パリもまた同様だったといえる。
 道幅は極めて狭く、陽当たりが悪い。風遠しも悪く、排泄物や汚物の悪臭が強烈だった。やがてそれらはセーヌ川へと流れこむ。パリの住民にとりセーヌ川の水は貴重な飲み水であるため不衛生極まりなく、コレラなどの伝染病の原因ともなった。しかも産業革命以後は急激な人口増によって、一人あたりの居住面積は十平方メートルにも及ばないという過密ぶりだった。
 それが今日いわれるような「花の都」パリへと豹変しようとしていたのである。
 紀元前三世紀頃、ケルト系の民族がセーヌ川の中州に砦を築いたのが、パリの始まりだったといわれる。紀元前五十八年ローマに支配される。ローマ人はこの地をルテティア(湿地)と呼んだという。ローマ人は中州から川の左岸へと橋をかけ集落を広げていく。この当時セーヌ川は度々氾濫をおこしており、それをさけるためでもあったという。
 その後ローマは五世紀に滅亡するも、パリはフランク人の都市として、英国やヴァイキングなど幾度もの外敵との戦いを経て発展を続ける。十三世紀末には人口二十万人のヨーロッパ最大の都市へと成長していた。
 しかしこの都市にはやはり致命的な弱点が存在した。それは飲み水の確保だった。増え続ける人口に飲み水がまったく追いつかなくなったのである。なにしろ十八世紀末までのパリの水資源は極めて限られており、二十一世紀の今日のパリ市民の百分の一にも満たなかったといわれる。そして十九世紀にはいると土木技師等により、抜本的な解決策が模索されはじめる。
 パリの東の田園地帯に豊かな水源があった。それを百キロ先のパリまで引くことができれば水不足を解消することができる。そのために巨大な運河が掘られ、セーヌ川と直結し、パリ市街まで飲み水をもたらすこととなったのである。
 榎本は考えた。江戸もかってはそのほとんどが湿地帯だった。オランダの諸都市にせよパリにせよ、人間と都市の歴史というのは、しょせん水との戦いの歴史なのではないか。世界の海を周り、幾度かの遭難事件を経験した榎本はつくづく思うのだった。
 榎本はパリに到着したその翌日には、コンコルド広場から東のセーヌ右岸地区まで歩いた。もちろん凱旋門やノートルダム大聖堂といった名所・旧跡はあらかた散策した。

 
 その日の榎本は、パリのキヤプシーヌ街にあるオテル・グランに宿泊した。
 翌日には有名なフランス革命の関連史跡を中心にパリを散策する。まずバスティーユ広場。フランス革命の発端となったバスティーユ監獄襲撃事件があった場所である。当時は国事犯が収容されていた施設で、パリ市民にとり悪政の象徴であったといわれる。
 パレ・ド・ジュスティス。ここはかって王会があった場所である。革命期には革命裁判所が設置され、一度でも反革命派の烙印を押された者は、さして取り調べも受けないまま断頭台の露と消えたといわれる。そしてあのマリー・アントワネットが収容されていた場所でもある。
 そしてコンコルド広場も今一度見学した。マリー・アントワネットやルイ十六世の処刑が行われた場所である。
 フランス革命は当時第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)、第三身分(庶民)に分かれていたフランスにおいて第三身分による反乱であった。しかし国王の処刑が行われた後も、今度は第三身分の中でもブルジョワ階級からなるジロンド派と貧民を中心としたジャコパン派の間で激しい争いが行われた。結局、フランス革命は二百万人もの犠牲を伴ったといわれている。

 

 

 その夜、オテル・グランに戻った榎本は奇妙な夢を見た。
 パリのセーヌ川の近くの公園に、日本の芸者風の姿をした謎の美女が座っており、彼女に導かれてパリを散策する。 
 ノートルダム大聖堂からドフィーヌ広場、コンシェルジュリーへと……。不思議なのは夜半とはいえ、どこにも人影一つ見当たらなかったことだった。ふと振り返った彼女の目を見た時、榎本の脳裏を瞬時にしてフランスの歴史がかけぬけていく。百年戦争でのジャンヌ・ダルクの活躍、ルイ十四世による絶対王政から革命期へ……。
「そなたは一体何者?」
 榎本は思わず問いかけた。
「そのようなことは知る必要もないこと。ただ私は、榎本様に今宵一晩だけでもお相手していただければそれでよいのです」
 そういうと女は自らの懐にスッと手を差し入れた。榎本は抗わなかった。そのままパリ市を一望できる小高い丘の上に連れていかれ、そこで口づけをかわした。長い口づけの間に彼女はいつの間にか泣いていた。
「なぜ泣く?」
「申し訳ありません。実は父を殺されたのです。どうか早く日本へお戻りください。あなただけが頼りなのです」
 そういうと女はいずこかへ消えてしまった。

 榎本はようやく夢から覚め、そして改めて遠い日本を思った。文久三年のこの年、ヨーロッパにいる榎本のもとには、新聞などで激動する日本の政局の様相が刻々と伝えられていたのである。

 
(二)八・一八の政変~長州都より追放される

 
 京都はおよそ千年の歴史を持つ王城の地である。このかっての唐の都・長安をモデルに碁盤の目状に区画された都市は、徳川三百年を通じて表の政治の舞台から遠ざかっていた。
 それが徳川幕府の開国以後は日本国中から尊王攘夷の志士を名乗る者が集結し、毎日のように放火、殺人、強盗まがいのことが繰り返された。鴨川あたりにはしばしば水死体が上がり、三条河原にも志士同士の乱闘などで斬られた武士の生首がさらされたりした。
 文久三年のこの頃、京都には二つの尊攘派の勢力が存在した。それが薩摩藩と長州藩である。いずれも徳川草創期よりはるか以前にさかのぼる外様の名門である。互いのライバル意識もあり、双方が相手を蹴落とそうとすきをうかがっていた。
 ところが五月、薩摩、長州いずれにとっても不幸な事件がおこる。当時の宮廷において長州側に属する有力な公卿であった姉小路公知が、何者かによって惨殺されたのである。
 現場に残された刀などから下手人として名があがったのは、薩摩の田中新兵衛という者だった。新兵衛は取り調べを受けるも、突如として刀をぬいて自害してしまう。
 長州は宮廷との重要なパイプを失ってしまうが、薩摩が受けたダメージはさらに深刻だった。事件の真相が闇のまま、薩摩藩は京都御所の乾御門の警備から外されてしまう。
 
 しかし、はからずも御所より追放された薩摩藩の巻き返しはすぐに開始される。ここに薩摩、長州と今一つ幕末京都の政局の鍵をにぎる勢力が出現する。会津藩である。
 幕末、著しく治安が悪化した都の警備、そして秩序回復の責務を担ったのが京都守護職の大任をまかされた会津藩であった。
 会津藩は現在の福島県にあった。この藩は三代将軍家光の異母弟で保科正之を祖とする。そして十五箇条からなる家訓なるものが存在したようである。その第一条には次のように記されている。
「大君の義一心に忠勤に励むべし。もし二心を抱けば我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」
 徳川家に対する絶対的な忠義である。そしてこの一条がやがて会津藩を窮地においやるのである。
 現藩主は九代目の松平容保。この人物の若い頃の肖像画は現存している。色白のいかにも貴公子といった風貌をうかべているが、一方で病弱だったともいわれる。決して頑健な人物ではなかった。やがて政治に翻弄され、運命に翻弄される哀れな定めのもとに生まれた人といっていいだろう。



(松平容保) 
 
 文久三年も八月になり、会津藩預かりの壬生浪士組の局長・近藤勇が直属の上司ともいうべき会津藩公用人筆頭・野村左兵衛に面会を申し出た。
  幕府の浪士募集に応じ上京した二百三十人近くの浪人者たちの大半は、清川八郎とともに江戸に帰っていった。残留したのは近藤勇を中心とする試衛館出身者と、芹沢鴨を筆頭とする水戸出身者だけである。彼らは身のふり方を相談した末に、京都守護職の松平容保に救いを求めた。容保は彼らの要求を入れ、ここに二十四人による壬生浪士組が誕生した。
「近藤か面を上げるがよい。ここのところのそなた達の活躍聞き及んでおる。して今日はいかな用向きであるか?」
 左兵衛は鷹揚にたずねた。
「されば他ならぬ長州のことにござる。薩摩藩の権威が失墜し、今やこの都は連中の天下。長州の息のかかった者たちが帝の周囲を固め、その帝をも掌中のものとして、とてつもない計画を練っているとか」
「ほう、してそれはいかな計画じゃ?」
「ほどなく帝は大和に行幸なされ攘夷を祈願されるとか。それを契機に長州を中心に倒幕の軍をおこし、錦の御旗をおしたて江戸に攻め上るとか……」
 座はどよめいた。左兵衛もまたかすかに顔色が変わった。
「いや、もちろん風聞にござる。いかに長州といえどかほどの大事、にわかに信じがたいことにござるが、とにかく万が一のこともござれば」
「うむ、あいわかった。心に留めておくこととしよう。我が殿はそなたたちに期待しておる。今後も存分に励め。ところで近藤ちこう寄れ」
 近藤が不振に思いながらも、左兵衛の側近くによると、左兵衛はいっそう声を小さくして近藤の耳元で何事かささやいた。
「例の一件早々にかたをつけよ。我が殿も、あの者の乱暴狼藉ひどく心を痛めておる」
「承知いたしました」
 と近藤は深々と頭を下げた。
 
 
 左兵衛のいう乱暴者とは芹沢鴨のことだった。この頃壬生浪士組には局長が三人いた水戸の芹沢派の新見錦、そして近藤勇、筆頭局長は水戸の芹沢だった。
 芹沢は剣の腕こそ尋常ではないが、酒乱で新選組の活動資金のためといっては、京の商家相手にゆすりまがいのこともすれば、大坂では力士相手に乱闘事件をおこす。ときおり京女を強姦したとまでいわれる。
 この時から数日後の八月十三日には、京の豪商大和屋に会津藩から借りた大砲を十数発を撃ちこむという、前代未聞の事件までおこしている。理由はやはり、新選組の活動資金の借用を大和屋が断ったことにあったようである。大和屋は炎上しほぼ全焼した。
 とにもかくにも芹沢の存在は近藤たち試衛館出身者にとっても、松平容保にとっても頭痛の種であった。

 
 しかし京都守護職たる松平容保にとり、芹沢どころではない事態が勃発しようとしていた。ちょうど同じ十三日、噂は現実味を帯びはじめたのである。加賀、薩摩、長州、土佐、久留米、肥後の六藩に対し、帝の伊勢、大和行幸のため金十万両を差し出すようにとの勅命がくだったのでる。ちなみ当時に一両は現在の貨幣価値に直すとおよそ十万円ほどになるといわれる。
 このような勅命に会津藩もまた動揺する中、会津藩士・山本覚馬、秋月悌次郎の二人は山本覚馬の洋学塾で一人の薩摩武士と面会する。名刺には高崎左太郎と書かれていた。
 ちなみに山本覚馬は会津藩の砲術指南役で、この年三十八歳だった。秋月悌次郎はこの年三十九歳。会津藩公用方にして、かって幕府の昌兵坂学問所に学んだ秀才である。すでに薩摩・長州など諸国を巡った経歴を持っているが、薩摩において高崎などという藩士の名は聞いたことがなかった。
「して用向きは?」
 山本覚馬がたずねると、高崎左太郎は驚くべきことを語りだした。
「幕府をさしおいて帝が攘夷祈願をすっとは、幕府をないがしろにしたも同然ごわす。こいは全て長州の策謀ごわんと。恐らく黒幕は長州の桂小五郎、久坂玄瑞、そして久留米の真木和泉あたり」
 高崎はどもりながらも、声を大にしていう。
「うむ帝は確かにひどい異人嫌いと聞く。なれど和宮様を将軍家に嫁がせたは、まさに公武一和を願ってのこと。よもや幕府を倒そうとなどと、そのような大それたこと到底帝の本心とは思えん」
 秋月は思わずため息をついた。
「じゃっどん帝の本心を知ろうにも、帝の周辺は長州の息のかかった公家どもががっちり固めており手出しできもうはん。そいでん我が藩としておまはん達の助けがいる」
「どうしたいと申すのだ?」
 秋月はしばし息を飲んだ。
「我が藩と貴藩が手を結んで長州を都より追放するのでごわす」
 座にしばし沈黙があった。
「かようなこと簡単に申されるな。我が藩はちょうど兵の交代を終えたばかりにて、帰国途上にある兵を呼び戻しても二千。薩摩が確か一千ほどのはず。しかし長州の都での兵力は万はござりましょう。それで勝ち目はありますかな?」
「勝てる。帝より勅許をいただきもす。君側の肝を排除せよと……」
 秋月は額に脂汗をうかべた。再び座に沈黙があった。
「かほどの大事、むろん島津候はご存じであろうな?」
 と山本覚馬が念を押した。
「もし我が藩がその話にのらなかったとしたら?」
 と秋月がたずねる。
「その時は致し方ごわはん。おまんらには目をつぶってもらって、薩摩だけでんやりもうす」
 秋月は床を拳で叩きながらいった。

 
 この高崎と名乗る若い薩摩藩士の気迫に押されるように、事は動き始めた。
 密談の後、秋月悌次郎は早駕籠で会津藩の京での仮の宿舎とでもいうべき金戒光明寺へ急ぐ。松平容保に面会すると事の子細を告げる。
「長州は偽りの勅許をもって帝をないがしろにし、世を惑わせておりまする! 薩摩が我らと事を共にすると申しますれば、長州を追い落とすは、今をおいて他にないかと!」 
「もしまことに長州が長州派の公卿を通じて偽勅を連発しているのなら、やはり君側の肝は排除せねばなるまい」
 さしもの会津中将・松平容保も事の重要さにかすかに体を震わせていた。
「されどまことに薩摩は信用できるのでござろうか?」
 疑念をていしたのは山本覚馬だった。
「覚馬殿! この期に及んで何をいわれる!」
 と秋月が怒ると、会津中将はしばし考えこんだ。
「いや、京都守護職として己の職務に殉ずるが勤め。田中土佐に命ずる万一の事態に備えて兵たちに外出禁止を命じよ。それから帰国途上にある我が藩兵も早馬にて呼び戻せ。また所司代、町奉行所、壬生浪士組にもいつ何時でも出兵できるよう待機させるのじゃ」
 容保はすばやく命をくだした。
 この後、秋月は烏丸通り今出川東の薩摩藩邸に高崎を訪ねる。日も暮れる頃、高崎と秋月は下立売門内にある中川宮邸を訪れた。中川宮は伏見宮家に生まれ、先代仁孝天皇の養子でもあった。また前関白近衛忠房とも親しい間柄であったといわれる。島津久光の行動力を評価する島津派の公卿であり、また島津家は代々近衛家と親しい間柄にあるため、帝へのパイプ役として適任の人物と判断したわけである。果たしてこの年不惑をむかえる中川宮は、二人の話しを聞き終わると年がいもなく顔を紅潮させた。
「薩摩と会津がそのつもりなら麿にも覚悟ある。この上は身命をなげうってでも宸襟を安んじたてまつろうやないか」
 中川宮としては、昼間は長州派の公卿たちが帝の近辺を取り囲んでいるため、夜半を見計らって帝を訪ね勅許を得ることとなった。手筈が整うと秋月はただちに再び光明寺をめざす。
「宮様におかれましては、我らの計略に賛同を示しました。後は帝の勅許がおりるのを待つのみでござる」
 この時、容保はすでに烏帽子白鉢巻に純緋の陣羽織という勇ましい姿になっていた。そして軍配をもつ手に自然と力がはいった。
 やがて軍議が開かれ、詳細な打ち合わせが行われた。まず勅許がおりると同時に、会津・薩摩そして京都所司代・淀の三藩が長州藩が守る堺町御門にくりだし、大砲を合図に長州兵を追い払う。同時に中川宮が長州派の公家に禁足を命じるというものだった。砲術方の山本覚馬のもとにも至急伝令があり、三藩の配備がすむと同時に空砲を撃つよう命がくだった。

 
 同じ頃、黒幕と名指しされた久坂玄瑞と桂小五郎は、京・祇園の料亭で酒をかわしながら密談を重ねていた。久坂玄瑞はもともと藩医の息子として生まれた。吉田松陰の松下村塾に学び、村塾の四天王の一人とか、あれいは高杉晋作とならび村塾の双璧とまでいわれた若き秀才だった。
 さて久留米の神官出身の真木和泉がたてた詳細な計画としては、帝の伊勢・大和での攘夷祈願の後、勅命により幕府に攘夷を命じる。尾張以東は幕府の指揮下において攘夷を決行、尾張以西は朝廷の指揮下とするというのである。
 もちろん幕府は簡単にはこれに応じないだろうから、その時は幕府の非をならして箱根以東に軍を進める。幕府が倒れた後は将軍を備前藩あたりに預け、都は大坂に移し、王政復古を宣言するというのである。
 しかし桂は、もともと顔面神経痛のような顔をさらに渋くした。
「久坂よ、今日はお前さんの本心が聞きたいんじゃ」
 と桂は酒を注ぎながらいう。
「本心とは?」
「おまん、ほんにこんな計画が成功すると思うちょるんか? 幕府がまっこて倒れると思うか?」
 桂は地図を指さしながらいう。
「正直、私も無謀な企てなのは重々承知しております」
 久坂はあっさりいった。
「でも誰かが事を前に進めないと、これをきっかけに日本が動くならそれでいいじゃありませんか。私が死んでもいい。いや最悪長州藩がなくなってもいいじゃありませんか」
 そこで久坂は酒を一息に飲みほした。
「久坂、おまん酔っているわけではあるまいな? 本気でそげぃなこといっておるんかい?」
「本気ですよ。僕は今でも松陰先生を夢に見るんです。松陰先生ならこういう時どうしただろう? こういう時なんといってくれただろう? 僕はもう後悔したくないんです。あの日、僕は先生を乗せた唐丸駕籠が江戸に護送されていくのを黙ってみているしかなかった。何もできない自分が不甲斐なくて、悔しくて……。とにかく松陰先生のいっていた実践をこころみたいだけなんです。それに……」
「それになんじゃ?」
「先生はいっておられた生きて大業の見こみあらばいつまででも生きるべしと……。でも最近自分が少しずつわかってきて、自分は生きて権力や富貴を得る人間ではないような気がしてならないんです」
 久坂は苦笑しながらいうと、桂はしばし久坂の顔を凝視した。なるほど、確かにこの男は政治家には向いていないのかもしれない。
 政治家になるには時として悪事に手を染めることもあるし、平気で偽りを並べることも必要なのかもしれない。長州藩はそのための許容範囲というものが他藩に比べても極めて広かった。そのため後年の初代総理・伊東博文にせよ井上聞多にせよ、少々度がすぎるほど金と女と権力にのめりこんでいった。だが桂が見たところ、この久坂はやはり真っ正直にすぎるのかもしれない。
「なるほど、藩のため日本のため己が犠牲になっても構わんいうなら、わしもあえて止めはせん。なれどなあ久坂これだけはいっておく。簡単には死ぬな。先生の妹さんを泣かしたら承知せんぞ」
 とこの堅物といっていい男は、珍しく冗談めいたことをいった。久坂の妻は亡き吉田松陰の妹にあたり、いわば久坂と松陰は義理の兄弟でもあったわけである。 

 
 薩摩と会津による長州追い落としの計画は事が思うように運ばなかった。帝はちょうど体調に不調を訴えており、ようやく中川宮が拝謁を果たしたのは八月十五日の寅の刻(午前四時)であった。この時、宮中の奥深くにていかな密談がおこなわれたかは定かでない。結局、中川宮は帝から勅許を得ることがかなわず空しく御所をあとにする。翌、夕刻の密会も失敗。三度目に中川の宮が参内したのは、十七日の深夜のことであったといわれる。そしてついに勅許はおりた。
 



御所に九つの門があった。このうち長州藩が堺町御門の担当だった。そして他の門は因幡、水戸、仙台、肥後、土佐、阿波、備後の諸藩が警備にあたっていた。さらに天皇のおわす内裏には六つの門があり、こちらは会津、米沢、奥平、所司代が警備を担当していたといわれる。
 中川宮からの知らせがとどくや否や、たちまち松平容保は馬上の人なった。十八日九つ半(午前一時)のことだった。まず会津兵千八百が松明の炎がゆらめく中九門のうちに入り、京都所司代たる淀兵およそ五百が続く。そして門はことごとく閉ざされた。
「召命のない者は堂上人、例え関白であろうと参朝を許さず」
 という布令が出されたのは、ほどなくのことであった。
 一方、薩摩兵は今出川通りに面する近衛家裏門から九門内に入り、唐門前に整列。その数およそ百五十ほどであるが、全員がゲベール銃で武装していた。
  そして壬生浪士組もまた、会津藩の要請を受けて初めて公に出動する。ところがである。御所の蛤御門(新在家御門)前で、門を守っていた会津藩兵に行く手をふさがれてしまう。
「我らは会津の殿の要請により、このたび出動となった壬生浪士組と申す者でござる。どうかそこをお通しあれ」
 近藤は思わぬ手違いに動揺しながらいうも、警護の兵士は素性が怪しい者と思い中々門を通そうとしない。すると筆頭局長たる芹沢鴨が進みでてきた。
「わしは尽忠報国の士で芹沢と申す者だ。おまえらこれ以上の無礼は許さんぞ!」
 芹沢には最初から人を呑む気迫があった。自慢の鉄扇を振りかざしながらいうと、気合の入った一声に警護の兵士もたじろいだ。
 あわやというところで公用方の野村がやってきて、かろうじて壬生浪士組は門内に入ることができた。
 そして十八日も未明になって、ようやく長州の桂小五郎、久坂玄瑞らは異変に気付いたが、もはや後の祭りだった。

 
 桂、久坂、久留米の真木和泉、それに御所より追放された三条実朝等の七人の長州派の公卿たちは、関白鷹司邸に集まって善後策を協議する。
「敵は薩摩・会津合わせても二千ほどか、勝てるな。かくなりたるうえは、もはや躊躇している余裕はない。武力に物いわせて御所の門を突破。君側の肝より帝をお救いいたそうぞ!」
 すでに黒の陣羽織に陣笠といういでたちの桂は、この慎重な人物にしては珍しく主戦論をとなえた。その場にいた久留米の真木和泉などもこれに同調するも、ここに立ちはだかる者がいた。
「待たれよ! お主たちは本気で御所に向かって兵を向けるつもりか! 長州は逆賊ぞ!」
 それは周防国岩国領をあずかる吉川経幹だった。
「状況は我らにとりあまりに不利じゃ。ここは萩へ戻り新たな策を検討するべきだ」
 しかし小五郎は、この時は経幹の言葉に反論した。
「吉川殿、そこをおどきなされ。今は長州にとっても、この日本国にとっても重要な岐路にござる。弁当を食ってる時ではござらぬぞ!」
「なにい~!?」
「かって毛利家の始祖・毛利元就公におかれては、厳島にて五倍の敵に敢然と立ち向かい、これに勝利なされた。我が遠祖・桂元澄公におかれては死を覚悟して敵の陣に赴き、敵を欺き、毛利の中国制覇に貢献されたのじゃ。今こそ我ら元就公の故事にならう時でござる。そこをどきなされ」
「己! その言葉聞き捨てならじ!」
 経幹は刀の鍔に手をかけた。あわやというところでその場にいた者が止めに入り、かろうじて事なきにいたる。

 
 その日夕刻に至るも、長州藩と会津、薩摩、淀の三藩は御所を挟んでにらみ合ったままである。
「まだやってるのか長州の連中もしつこいな」
 と土方歳三は長時間の待機に半ばつかれたように生あくびをした。壬生浪士組はちょうど御所の建礼門の近くの御花畑を守っていた。
「でも楽しいとは思いませんか? こうして天下の情勢が変貌するのを目の前で見ることができて、多摩の田舎にいてはありえませんよ」
 とにこにこしながらいったのは山南敬助だった。ちなみに土方と山南は共に壬生浪士組の副長に就任していた。
「長州の連中にしてもここは引くに引けんだろう。最も、会津だけならまだしも薩摩がついていることが、長州の連中には厄介だな」
 と近藤は、会津藩から支給された弁当を食いながらいった。
「なにしろ薩摩の連中の武力ときたら、エゲレスの艦隊をもってしても屈服させることができなかったというほどだからな。なんでも連中は示現流とかいう妙な剣術を使用するらしい」
 といったのは、新選組でも随一の使い手といわれる永倉新八だった。
「とにかく二の太刀は必要ない。必ず一の太刀で相手をしとめるという極めて実戦向きの剣術だとか」
 永倉は刀を振る仕草をまねながらいった。
「そうか? 天然理心流とどちらが強いかな。でもそれなら一の太刀を外せばいいだけのことかな?」
 近藤は涼しい顔でいう。
「いや流派の問題じゃないだろ。理心流だろうと示現流だろうと誰が刀を握っているかの問題だ。ひょっとしたら芹沢だったら相手が薩摩の侍でも勝てるかもしれねえ」
 と土方は声を小さくしていう。芹沢はこの時近くの石段で居眠りしているさなかだった。
「奴め! いかに警護の交代の後の休憩だからといって、自分が筆頭局長なのに緊張感がなさすぎる。起こしてきますか」
 永倉が立ち上がったが土方が止めた。
 土方は、大坂で芹沢が例の力士との乱闘事件で、力士を一刀のもとに斬り捨てる様を目の前で見ていた。行く手に立ちはだかる相撲取りを、芹沢は声もなく刀をぬき、左肩を雁金に斬りすてた。肩の肉がめくれて、まるで豚の脂身のように白い肉がみえた。その肉がさらにめくれて黄色い脂がみえた。
 土方をもってしてもおぞ気が走るような光景だった。恐らく試衛館の面々で最強とされる沖田や目の前の近藤でも、芹沢と正面からやり合ったら危ないだろう。
「まあ、いずれにせよ時代は確実に動いているんだ。今はもう商家相手に乱暴狼藉を働いたり、相撲取りと喧嘩をしている時じゃねえ」
 かすかに近藤が真顔になった。
「やりますか芹沢を?」
 と話しに割って入ったのは、近くで聞いていた沖田総司だった。
「会津藩からも早く芹沢を始末するようにいわれているんだ。やむをえまい」
 と食事を終えた近藤は、自慢の愛刀虎徹を手入れしながらいった。
 
 
 ……もはや長州に事態を打開する策はなかった。三条実美以下七人の長州派の公卿たちは都を追放されることとなり、夜なって激しい雨が降る中、都を後にすることとなった。長州にしてみればあまりに惨めな退却だった。この時、久坂がよんだ歌がのこっている。

 降りしく雨の絶え間なく
 涙に袖の濡れ果てて これより海山あさぢが原
 露霜おきてあしが散る 難波の浦にたく塩の
 辛き浮世はものかはと 行かむとすれば東山
 峰の秋風身に染みて 朝な夕なに聞き慣れし
 妙法院の鐘の音も 何と今宵は哀れなる
 いつしか暗き雲霧を 払い尽くして百敷(ももしき)の
 都の月をし愛で給ふらむ
 
 これを八・一八政変と呼ぶ。時の勝者となった会津藩は、帝より感状を賜るという栄誉に酔いしれた。しかし長州藩は、このまま黙ってはいなかったのである。

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【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
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四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

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