残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第三章】江戸無血開城

遊撃隊と脱藩大名

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   かろうじて江戸は戦火を免れたが、同時に多くの旧幕臣達がその後の生き方の選択を迫られた。遊撃隊の伊庭八郎は、もちろん盟友の人見勝太郎と共に薩長に徹底抗戦する覚悟でいた。
 その夜、伊庭八郎は夢にあの小稲を見た。八郎と小稲はその後直接会ってはいなかったが、夢の中では幾度も関係をもった。
「うちは狐憑きどす。一度関係を持った相手の夢を支配することくらいは簡単にできるのどす」
 こうして夜が過ぎ、この小稲なる妖魔のあまりに激しい愛欲に精神的にまいりはじめた頃に目を覚ますのである。
 しかしこの日は違った。関係を求めてくるのでもなく、部屋の隅で泣くばかりである。一体何が悲しいのかと八郎が訪ねると、思ってもみなかった返答がかえってきた。
「どうか、どうか江戸市中よりお出になられぬよう。これは警告にござります。恐ろしい災いが貴方様に次から次へとふりかかりまする」
 それだけいうと小稲は消えた。しかし八郎は、小稲の警告に耳を貸すことはなかった。そしてその将来には、はるか延々と続く過酷な戦いの道が待ちかまえていたのである。
 将軍はいまだに上野寛永寺に蟄居したままだが、伊庭八郎は遊撃隊を率いて、盟友の人見勝太郎とともに動いた。まず品川沖に錨をおろしている榎本艦隊をたずねる。
「八郎、八郎じゃねえか。何年ぶりかな? 鳥羽伏見では負傷したと聞いたが大丈夫だったか」
「なにかすり傷程度です。それより榎本さんの阿波沖での活躍聞いております。薩摩の船を自爆に追いこんだとか?」
「おう! けど一橋の腰抜けのせいでせっかく手に入れた制海権まで、手放すはめになっちまった。あれを思うと今でもなんともいえねえ!」
 榎本は思わず唇を噛んだ。両者は初対面ではない。年は八つはなれているが、生まれた場所が近く、幼少の頃から旧知の仲だったのである。早速、開陽丸の艦長室で八郎と人見そして榎本で今後の方針を話しあった。その時、榎本が提示したのが艦隊三分の計である。
 すなわち幕府艦隊を三つに分け、一隊は箱根あたりで新政府軍を迎え撃ち、一隊は京・大坂を占拠。さらにもう一隊は、敵の本拠地である薩摩もしくは長州を攻めるというものだった。
 慶応四年の四月十二日、この日は正式な江戸城明け渡しの日であった。しかし榎本は軍艦を官軍に明け渡すどころか、品川沖から出奔してしまう。
「べらぼうめ! 軍艦ことごとを明け渡すだと? お断りだな」
 まず目指すは房総半島である。房総半島には佐幕意識の強い藩がひしめいていたのである。

 
   今日の地名でいうと千葉県の木更津に講西藩という小藩があった。石高わずかに一万石にすぎない。藩主の林昌之助忠崇はまだ二十一歳の青年大名である。小藩の主ながら忠崇は幼少時より聡明であった。忠崇自身が著した回想録に曰く。
「江戸浜町の本邸に生まれ、伊東一雲斎に宝蔵院流の槍術を学び、馬術は西丸下に通学し、弓は旧幕旗下坂本氏に、朱子学等は同じく旗下専門家に学び、又洋式兵術等も藩士と共に学んだ」
 また和歌の道にも秀でていたようである。若い頃の写真も残っているが、瓜実顔の鼻筋の通った中々の美男子である。
 遊撃隊が講西藩の陣屋を訪れたのは四月二十八日のことだった。しかし忠崇も家臣達も歓迎する気にはなれなかった。「また来たか」というのが本音だった。
 四月十七日頃、旧幕府撤兵隊隊長福田八郎右衛門なる者が、やはり遊撃隊同様旧幕臣として官軍と事を構える目的で木更津を訪れている。忠崇は一旦は同盟を約束したが、この撤兵隊なる部隊は、全く軍の規律というものが存在しない烏合の衆だったのである。民家に押し入って金品を強奪するなどという不法行為は日常茶飯事で、婦女子を強姦する者までいた。
 しかし遊撃隊はさすが選びぬかれたエリート集団だけあって、鳥羽伏見の戦いなどで死傷した者を除いて三十名ほどだったが、軍全体の士気がまるで違っていた。もちろん撤兵隊が行ったような不法行為は一切みられなかった。そのため忠崇はそれほど年齢も違わない遊撃隊一番隊長の人見勝太郎、二番隊長の伊庭八郎に次第に心を開いていく。
 三人は講西藩の真武根陣屋で今後を語り合い、榎本の艦隊三分の計を打ち明けた。
「艦隊三分の計か、なにげに古の諸葛孔明の天下三分の計みたいで恰好いいな」
 人見はかすかに笑いながらいう。
「なんなら、ここで三人で桃園の誓いでも結ぶか?」
 と忠崇がいうので、勝太郎は恐縮した。
「いや、さすがにそれはあまりに恐れ多いことでございます」
 と忠崇の身分をおもんばかっていう。
「おい勝太郎、俺は水滸伝は詳しいが三国志はほとんど知らん。何だその天下三分の計や桃園の誓いというのは?」
 八郎が不思議そうな顔で聞いた。
「なんだ知らんのか? 我等生まれた日と違えど必ずや同年同月同日に死する者なり!」
 ちなみにこの三人のうち人見勝太郎は、明治をも通りこして大正まで生きることとなる。林忠崇にいたっては大正どころか昭和まで生きることとなる。しかし八郎は、残すところあとわずかな命だったのである。
 その後、具体的な出兵計画の話しに入る。
「して、いずこの御家来の方が我等と行軍を共にしていただけますか?」
 と八郎が聞くと、忠崇から思いもかけない返答がかえってきた。
「この余自らじゃ」
「なんと仰せられた……?」
 一万石の小藩ということになると、藩士の数はおよそ二百人ほどだったと推定される。そのうち七十人ほどが遊撃隊と行動を共にすることとなった。合わせておよそ百。しかし藩主自らが脱藩して軍に加わるということになると、まさに前代未聞である。重臣たちの中にも反対する者は多かったが、忠崇の決意は固かった。
 忠崇は自ら家臣に命じて真武根陣屋に火を放ち、不退転の決意を明らかにしたという。彼らは榎本武揚を信じて開陽丸へと赴く。しかしここに想定外の事態が待っていた。

 
(林忠崇)
   
   艦隊の脱走を知った勝海舟は、馬を疾駆して館山付近まで榎本を追いかけてきた。海舟は開陽丸に乗りこむと、ただちに艦長室で榎本に直談判におよんだ。
「何をいいたいのかおよそ想像がつきますが、その前にコーヒーでもどうです? ここまでよほどの勢いで馬を飛ばしてきたのでしょう」
 海舟は疲労のせいか青白い顔をしていた。
「いらねえよ。とにかく今すぐ江戸へ戻れ! 俺がいいたいのはそれだけだ」
「残念だが、いくらあなたの命令でもそれだけはできぬ相談だ」
「徳川の処分が未解決なんだよ。徳川が生き残れるか否かに、全ての旧幕臣の命運がかかっているんだ」
 すると榎本はかすかに首を横に振った。
「例え徳川家が死のうと、生き残ろうとこれだけは確かに俺にもわかる。どの道このままいけば多くの幕臣が路頭に迷うことになる。海軍を預かる身としてこれを放置することはできない」
「それじゃお前さん一体どうするつもりなんだい? 何か妙案でもあるのかい」
 海舟はつめよるように聞いた。その時、榎本の口から海舟の想像もしていなかった答えが帰ってきた。
「もしどうしてもというなら、俺は大勢の幕臣を連れて蝦夷へ行く」
「蝦夷……? 江戸じゃなくて蝦夷かい? おめえさん頭大丈夫か。あんな北の果て未開の地へ行ったところでどうしょうもならないだろ。幕臣もろとものたれ死ぬだけだ」
「開拓をするんですよ。原野だろうとなんだろうと切り開いて、そしてそこに新たなる国を作る」
「絵に描いた餅だな。特に冬の寒さは尋常一様じゃないというじゃないか。幕臣を凍え死にさせる気かい?」
「勝さん、あなたらしくもない物言いだ。世界地図を見たことがないんですか? この地上に蝦夷より高緯度にあり、冬の寒さが厳しくても人が住んでる土地などいくらでもある。ロシア然り、オランダもまた然りだ。あわせて幕臣をして日本国の北の防備にあてるつもりです。なんといっても蝦夷の北にはロシアの脅威がある」
 海舟はしばし言葉を失った。
「いやーまいったな。そんなこと考えていたとはな。それでは試みに聞きたい。もし本当にロシアが攻めてきたら、お前さんどうやってこれを防ぐ。蝦夷は広大な土地だが、それでもロシアからみたら鼻くそみたいなもんだ。軍備も我が国とは比較にならない。どうする釜次郎」
 榎本はしばしの間考えた。
「そうですな。確かにまともに戦ったら勝ち目は薄いかもしれない。ならば一旦兵を撤退させ、敵を蝦夷地の奥地へと誘いこみます。そのうえであちこちに伏兵を配置して、敵に奇襲をかけ疲労させる。そして開陽はじめ海軍でもって蝦夷の北方の海で敵の兵糧輸送船を襲撃し、敵の補給路を完全を断つ。そうすればいかにロシアといえども降伏するしかないでしょう」
 すると今度は海舟が首を横にふった。
「まあまあ及第点といったところかな。だが俺の考えは違う。まず外交だな。ロシアは東西に広大な領土をもっている。奴らはその両方面でもめ事がおこるのを極度に嫌うんだよ。かってロシアがトルコ国に攻めいった時、西欧のエゲレスとフランスはこれ以上のロシアの勢力拡大を恐れて、宗教がまるで違うのにトルコに味方してロシアに宣戦布告した。特にエゲレスとロシアは昔から仲がわるい。これと同盟して、東西でロシアを揺さぶれば、さすがに和議を申し入れてくるかもしれないだろ」
「できるんですかそんなことが? エゲレスほどの大国が我が国のような弱小国とまともに交渉してくれますか?」
 海舟はため息をついた。
「確かにおめえさんのいう通りかもな。日本がエゲレスとまともに交渉するまでには少なくとも百年はかかりそうだ。その間に日本はロシアに飲まれてしまう。それならいっそのこと朝鮮、それに清国と同盟を結んで共にロシアの南下に備えるというのはどうだい?」
「国と国との同盟なんてそんな簡単なものじゃない。例え同盟が成立したところで清国は今やあの様じゃないですか。それに今の朝鮮王朝は、確か国家として成立したのは、日本では南北朝の合一がなった頃のことだったはず。日本でいえば室町幕府がいまだに続いているようなもんですぜ。その間あの国の王族が政権を維持するのと引き換えに、遠い昔から何も進歩していない。そんな国と手を結んでも仕方ないでしょう」
「それならもういっそのこと、朝鮮を奪ってしまえばいい」
 と海舟はかすかに声を小さくしていった。
「おまえさんのいう通りだ。俺たちの国では浦賀にペリーが来てから、大砲も小銃も著しく進歩した。未熟ながら蒸気船も何艘かはつくった。だがあの国では欧米列強の勢力が迫っているというのに、ちっとは国防のため軍備を増強したという話しは聞こえてこない。もし戦えば俺たちの国が勝てる。あの国を分捕って、ロシアが攻めてきた時日本国の盾にすればいい。
 でもなあ榎本いずれにしたって、日本がこの先生き残るには、まず国内の内乱をできるだけ早くに沈静化しなくちゃいけねえ。そのためには徳川が生き残る必要がある。徳川が滅びれば、もはや幕臣をおさえるすべはない。俺たちはな所詮どこまでいっても幕臣なんだ。もしお前さんのおかげで徳川に災いが及ぶようなことがあれば、俺は腹を斬るつもりだ」
 そういって海舟は、卓に刀を置いた。
 結局、榎本は海舟の言葉どおり江戸へ戻ることとなった。八郎たち遊撃隊は館山で榎本艦隊と別の道をゆくこととなる。遠ざかる艦隊を観望しながら人見は愚痴をいった。
「あの榎本って人は信用ならないな」
「いやあの人は頼りになる人なんだ俺は信じている」
 と榎本と幼少の頃より付き合いのある八郎が反論した。

 この後、八郎たち遊撃隊は海を渡り小田原藩に協力を求めることとなる。しかしその途上風聞で信じられない悲報を耳にすることになる。新選組が壊滅したというのである。


(人見勝太郎)





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