残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第三章】新選組壊滅

甲府・勝沼の戦い

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   何が何でも薩長との間に事を穏便に運びたい勝海舟にとり、主戦派の新選組などという存在は邪魔者以外の何者でもなかった。
 海舟が新選組に多額の軍用金と大砲、それに甲府百万石切り取り次第の墨付きを与え甲府へ出立させたことはすでにふれた。この時新選組は甲陽鎮撫隊と名を改めて江戸を後にする。慶応四年(一八六八)三月一日のことだった。
 途中で府中を通った。ここいらあたりまでくると新選組の郷にほど近い。近藤勇の郷里である上石原からも人がつめかけ、一行は多くの人々の歓待を受けた。
 翌日はいよいよ日野である。日野では土方の義兄・佐藤彦五郎が名主をつとめており、ここでも新選組改め甲陽鎮撫隊は故郷の人たちの大歓迎を受けた。
 近藤は気持ちよく酒を飲み、池田屋の変のおりのことを延々と語って聞かせたりした。さらに着ていたものを脱ぎ上半身裸となって、京洛での不逞浪士との斬りあいでできた傷を見せびらかしたりする。そしてついには、自分はもうじき甲府百万石の大名になると大声で自慢した。しかし副長の土方は気が気でない。
 宴会も一段落し、近藤は庭の木々を眺めながら一人酒を飲んでいた。外では小雨が降りはじめていた。
「近藤さん、宴会もいいが俺たちはこの先戦が待っている。薩長の連中に先に甲府城に入られたら事だ。早く先を急ぐべきだ」
 この時、近藤から思いもかけない言葉がかえってきた。
「何かまいやしないよ。お前さんも薄々察しているだろう。今度の戦、どっちに転んでも俺たちに勝ち目なんてありゃしない」
「近藤さん!」
 土方の表情が険しくなった。
「勝安房守(海舟)殿はな、俺たちに死ねと仰せなのだ。のう歳よ、もしここで踏みとどまって、ずっと余生を過ごすことができたらお前さんはどうする。俺は子供たちに剣術を教えながらのんびりと過ごしたいな」
「近藤さん、しっかりしてくれ! 例えこれが死への旅路だとしても、俺たちはもう前へ進むしかないし、決してここにいた頃には戻れないんだ!」
「そうか……でも人の運命というのは謎だな。もし俺たちが百回やり直せるとして、やっぱり百度、同じようにこの先は茨の道しかありえないのかな?」
「わからない。でもこれだけは確かにいえる。もし百度やり直せるとして、そのいずれもが同じ破滅だったとしても。俺はあんたと一緒なら、例え百度だろうが千度だろうが決して悔いはない」
「おい歳、見ろ雪が降ってきたぞ」
 冬の最中である。小雨がかすかに雪に変わった。雪を見て無邪気にはしゃぐ近藤の様子は、まるでどこぞのやんちゃ坊主のようであった。


(洋装した土方歳三)

 この後、土方は姉の佐藤のぶと会った。この時のぶは三十七歳。姉といっても母を早くに亡くした土方にとり、母親代わりのようなものだった。まずのぶは土方の姿、恰好に驚いた。すでに髷を落とし、フロックコートのような外套を着て、膝まであるレーザーのブーツ。土方の洋装を最初見た時は、他の新選組隊士達も一様に驚いたことはいうまでもない。
 この時、土方はのぶに土産の母衣を渡したという。
「武士にとり一寸先は闇だ。明日ここを出立すれば次は何年先に会えるかわかりゃしねえ。もし俺が死んだらそれを形見だと思ってくれ」
 しばし、のぶは優しげに微笑んだ。
「それでは俺は戦があるからそろそろ寝る。おやすみ」
 のぶはこの実弟と、もう少し長く何事かを語りたかったが、無理に引きとめる気もせず一言お休みとだけいって背をむけた。この時、思いもかけないことがおこった。突如として土方が、のぶの肩に抱きついてきたのである。
「どうしたのですか?」
 のぶは驚きはしたが、もちろん両者の関係は男女の仲などというものではない。まるで巨大な幼子を見るような目でのぶは歳三を見た。
「いや、すまん失礼した」
 と土方は、かろうじてその場をとりつくろう。のぶはこの時、土方の胸中にある何事かを察したが、それを土方に問うことはできなかった。

  この後、甲陽鎮撫隊の行軍は難渋した。途中、大砲や小銃を運びながら小仏峠や笹子峠といわれる険しい峠を越えなければならない。甲州街道には談合坂もあった。しかもおりしも降り続く大雪のため道はぬかるみ、進軍は困難を極めた。
 しかし悪天候に苦しんだのは官軍側も同様だった。この時の官軍の東山道先鋒総督府軍の大将は土佐の板垣退助だった。この戦いの直後まで板垣退助は乾退助を名のっていた。この人物の遠祖は甲州・武田家の重臣だった板垣信方だったという。そのため戦いを前に姓を改めた。甲州には、この時代に至っても武田信玄を慕う気風が強く残っており、退助が武田旧臣の末裔を名乗った宣伝効果はそれなりにあったようである。甲州の民が少なからず官軍に味方したという。
 この板垣退助を大将とする官軍の部隊は、降り積もる雪と泥に足を取られながらも強行軍を続け、三月五日には甲府城に入城してしまう。翌六日わずか一日遅れで甲陽鎮撫隊は甲州に到着した。このわずかなタイムラグは鎮撫隊にとりほぼ致命傷であったといえる。
 しかも不幸は続いた。近藤が京から江戸に戻ってきた時、鳥羽・伏見の戦いなどで多くの犠牲者をだした旧新選組隊士は、わずか七十人足らずまで減っていた。そのため今回の戦いに先んじて近藤は、浅草新町にいた被差別民の頭領・十三代目弾左衛門に支援を依頼し、二百人を甲陽鎮撫隊に軍として加えている。
 しかし所詮その大半は物乞いをしていたような連中である。本格的な戦闘を前にしてその大半は逃げてしまった。甲陽鎮撫隊の兵力は一二一人まで減ってしまう。対する官軍側の兵力はおよそ千二百人。兵力の不足を補うため土方は、江戸で援兵を募る目的でやむなく戦線を離脱する。
 勝沼柏尾山の麓に甲陽鎮撫隊はようやく布陣する。
「とにかく木々を切り倒して甲州街道を防げ。大砲をすぐに設置しろ」
 近藤は即座に命令をくだした。
 

(甲府勝沼の戦い)

この戦闘は結局、甲陽鎮撫隊にとりあまりに無残な結果となる。
 東征軍側の激しい銃撃と大砲の嵐に対し、鎮撫隊側では大砲はあっても弾薬の装填方法を理解していなかったようである。反対の装填して発射できなかったり、大砲の弾が爆発しなかったりした。
 旧新選組幹部だった永倉新八は菱山に布陣しており、猟夫二十名からなる部隊を率いていたが、この部隊は敵と遭遇するや否やたちどころに寝返り、永倉たちに銃口を向けるという有様だった。
 唯一善戦したのは近藤、土方の故郷である日野で結成された春日隊だった。春日隊はおよそ二百人ほどで岩崎山に布陣していた。岩崎山方面に向けられていた甲陽鎮撫隊の大砲が役にたたなかったため、このほとんど実戦経験のない部隊のみで、新政府軍右翼隊の猛攻を受けるはめになる。それでも春日隊は右翼隊を手こずらせた。しかし右翼部隊が岩崎山の麓の集落に火を放つと、その煙により春日隊もまた混乱した。そして。ついにこの隊を率いる土佐の片岡健吉は総攻撃を命じることとなる。こうして春日隊もまた崩れた。後は全軍が崩れるまで時はかからなかった。
 後に永倉新八はこの時の事を回想して曰く。
「ああした時、すべてのものが眼前に現れてくるまで、人間の眼はきかなくなっているものなんですねえ。勝沼まで来て、いかに我々が甘かったか、それはもう愕然としたものです。
 官軍のほうはすっかり戦支度を整え、われわれへ向かって押し出してくる。それはもうつるべ撃ちというやつですよ。
 近藤さんも真っ青になってなんとか挽回しようとするが、逃げ出す奴が多すぎる。とにかくだめです。散り散りになって……」
 甲陽鎮撫隊は、江戸を落ち合うことを約束してそれぞれが撤退した。こうして鎮撫隊は敗走。わずか一刻(二時間)ほどの戦いに終止符がうたれたのであった。
 
 



  
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