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【第三章】明治への道
艦隊北へ
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日本は幕末から明治にかけ、富国強兵のスローガンのもと急速に近代化したといわれる。日本の近代化の背景には、鎖国下にある江戸期日本の科学技術の進展があった。欧米の産業革命には及ばないが、江戸期日本にも技術の進歩はあったのである。
例えば田中久重は江戸後期から明治の人である。筑後の国に生を受け、後に芝浦製作所すなわち東芝を設立した発明家である。からくり人形や折りたたみ式の懐中燭台、圧縮空気により灯油を補給する灯明の無尽灯など多くの発明をした。中でも驚くべきは万年時計の発明である。
七宝や彫金が施された絢爛豪華なこの時計は、六角柱をしている。そして六面それぞれに和時計、洋時計、カレンダーなどの機構が埋め込まれていた。上の半円のガラスの中はプラネタリウム(天球儀)で、一年に一度ゼンマイを巻けば、ほぼ正確に時を刻み続けるという優れものだった。久重は高度な天文学の知識を持っていたのである。
次に忘れてはならないのが伊能忠敬である。五十歳といえば、現在でもそろそろ隠居してもおかしくない年齢である。その年代になって日本中を歩いて、かなり正確な日本地図を作製したという、ある種の超人的な人物だった。この忠敬の天文学の知識が榎本武揚の父武規に伝わり、やがては武揚にも伝わるのである。
医学の分野では紀伊国(和歌山県)の開業医だった華岡青洲が、漢方中心の当時の伝統医学と蘭学による医学を融合させ、次々と独自の治療法を編み出した。なかでも特筆すべきは、世界で初めて、麻酔を使って乳癌の手術を行ったことだった。そのための麻酔薬もまた青洲が独自に開発したという。
そして医学の世界で忘れてはならないのが、なんといっても緒方洪庵と適塾の存在である。その最大の功績は、当時江戸及び日本国中で猛威をふるっていたコレラの治療である。そして種痘による天然痘の治療法を日本で確立したことだった。また幕末から明治にかけて、医学会だけでなく多くの方面に人材を輩出した。
この物語でも今まで何度か適塾出身者が登場した。序章の福沢諭吉、大鳥圭介、大村益次郎、武田斐三郎そして高松凌雲もまた適塾出身者だった。
(田中久重の万年時計)
いよいよ開陽丸の出航の時は近づいていた。ここに新たに榎本に乗船許可を求める者がいた。
「高松凌雲? 聞いたことない名だな。太郎さんおめえは知ってるかい」
榎本はかたわらに座っている松平太郎に聞いてみた。
「ああその方なら、確か慶喜公のもとで奥詰医師をやっていたはず」
「何者なんだいそいつは?」
「それはまあ将軍家に雇われるくらいだから、医師としてかなりの腕のはず」
高松凌雲という人物は、九州・筑後の国の庄屋の三男として生を受けた。十九歳にして久留米藩士の家に養子に入り武士になる。しかし武士の社会になじめなかったのか三年後には久留米藩を脱藩した。兄で幕臣の古屋佐久左衛門を頼って江戸に出てきた凌雲は、今度は医師を目指すこととなる。
蘭方医として著名だった石川桜所の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学ぶ。その後、今度は大坂に行き適塾に入塾。緒方洪庵の指導を受け頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を自由にあやつるまでになる。さらに、幕府が開いた英学所で英語もマスターした。
やがて凌雲の秀才ぶりは一橋家にも聞こえ、ついには一橋慶喜の専属医にまでなる。慶喜が将軍になると凌雲もまた幕府の奥詰医師になったという。
オランダ語や英語も話せると聞いて榎本は凌雲という人物に興味を持った。
「とりあえず会ってみようここに通してくれ」
やがて姿を現した凌雲は、三十一歳とまだ若いこともあり、いかにも熱血漢という言葉がふさわしい人物だった。榎本がオランダ語次いで英語で話しかけると、すらすらと答えがかえってきた。
「たいしたもんだねえ。もしかして外国に行ったことがあるのかな?」
「はい、ついこの間フランスでパリ万博があり、日本からは慶喜の弟君である昭武様が将軍代理でパリへ赴くことになりました。私は随行医師として共にパリまで行ってきました。フランスの他にもイタリア、スイス、オランダ、ベルギーなど各国を歴訪しました」
凌雲はフランスにて「神の家」なる医療施設を見聞する。これは貧富の差なく誰もが平等に治療を受けることが可能な病院であり、凌雲は深い衝撃を受けることとなった。
しかし凌雲が戻ってくる頃には徳川幕府はすでになく、兄の古屋佐久左衛門もまた幕臣として越後方面に出兵し、その後の行方はしれなかった。
その後の凌雲は身のふり方を様々に思案した後、ついに榎本艦隊に合流する道を選んだのである。凌雲には夢があった。いつか自らの手で、フランスでみた神の家を日本でも実現するという夢だった。
「ありがてえ、これから戦になるかもしれねえ。そうなれば死傷者がでる。どうしても医者が必要になる。その時は先生よろしく頼むぜ」
「こちらこそ、以後よろしく」
型通りの挨拶をすますと、船内を見て回るため凌雲は榎本に背を向けた。
「先生、待ってくんな」
と榎本が凌雲を呼びとめた。
「太郎さん、例の重病人の件だ。今までいろんな医者に見せたがだめだった。でもこの先生ならなんとかなるかも……」
榎本は隣に座っている松平太郎と、なにやら小声で相談している様子だった。
「実はな先生、来て早々に申しわけないんだが、緊急を要する病人が一人いるんだ。先生を腕を見こんで一つ診療してもらえねえかな?」
凌雲は船内の一室に通されると、そこにまだ若い侍が横になっていた。中々凛々しい顔をしている。しかし熱があるらしく呼吸が荒い。それよりもなによりも左腕に深く斬られた後があって、傷が化膿して腐敗がすすんでいた。あの箱根での死闘から、かろうじて生還した伊庭八郎だった。
八郎と遊撃隊士たちは、九死に一生をえて箱根から撤退。その後、榎本艦隊に熱海沖で救助されることになる。他の遊撃隊士たちは、奥州方面での戦闘に赴いたが、八郎だけは傷が深いため船で養生することになった。しかし何度か医師の診療をうけるも、傷のダメージが大きく治療できる者はいなかった。
「これはひどいな。すぐに手術が必要だな」
「先生、治りますか?」
八郎が心配そうにたずねた。
「このまま放置すれば命にかかわります。やむをえないので腕を切断する手術をおこなうので、それにより命だけは助かります。おまえたちすぐに手術の用意だ」
と凌雲は、同行していた数名の助手に素早く指示をあたえた。
「腕一本失うことになるが命を救うためだ致し方ない。これから麻酔をするので、手術がすむまでしばらくの間眠っていてもらう」
「お断りいたします」
「どういうことだ?」
「人が自分の腕を切断している間に眠ってなどいられません。手術は麻酔なしでお願いします」
「正気か君は! いかほどの激痛だとおもっているんだ!」
「先生、俺は逃げたくないんです。どんな苦痛であっても、例えこれで終わりだとしても……」
それから四半刻ほども、凌雲の必死の説得が続いたが八郎は応じず、ついに麻酔なしの手術がはじまった。
まず凌雲は焼酎で傷口をきれいに洗った。それから血が流れぬよう、術野から三寸上を幅広の止血帯で二巻きし、中に棒を入れてきつく縛った。最初は円刃刀で皮膚だけを切開する。その後、真皮を皮下組織と隔離していく。さらに筋膜を開き、ついには筋肉を骨が露出するまで切り開く。
やがて八郎は想像を絶するすさまじいばかりの激痛のため、うめき声があげた。仲間の遊撃隊士数名がこの光景を見守っていたが、あまりのことについには目を背けた。
「先生! 患者の様子が!」
「先生出血が!」
「先生、脈と呼吸が乱れています! もうこれ以上は無理です!」
凌雲の助手は、幾度が絶望的な声をあげた。
「今はもう止めるわけにはいかないんだ! 後は患者の精神力にすべてを託するしかない!」
その度ごとに凌雲は鬼の形相で叫んだ。
時間だけが容赦なく流れた。八郎は最初ぼんやりと天井を見つめていたが、やがてそれも霞みはじめ、ついには真っ暗な世界と化した。
「寒いな……。今度という今度こそ俺は死ぬのかな?」
生死の境をさまようのはこれで何度目だろう? 痛みはもうなかった。気がつくと目の前に大きな狐がいた。そして左腕の傷口から必死に血を吸っていた。八郎はしばし目を閉じた。次に目を開いた時、そこに小稲が立っていた。
「だから申したでありんせんか、あれほど江戸の外にでるなと……それでもまだ続けるつもりなのですか? そんな姿になってまで……」
「小稲よ……」
小稲は綾絹の小袖を身まとい、髪は櫛で結っておらず垂れさがっていた。八郎は右手をさしだすも、その姿はやがて遠くなり消えた。
……やがて凌雲は治療部屋から出てきた。
「先生、八郎君はどうなりました?」
と早速榎本がたずねた。
「手術は無事成功しました。しかし患者が目を覚ましません」
榎本が部屋にかけこむと、八郎は相変わらず人事不肖の状態だった。
「八郎、八郎君しっかりしろ」
しばし榎本が声をかけ続けると、ようやく八郎が目を覚ました。
「手術は、手術はどうなったんです」
「成功した。お前はまだ生きれるんだ」
と榎本は、かすかに笑みを浮かべていった。
「そうかよかった……でも、でも俺は片腕を失った。榎本さん、これから蝦夷まで行くそうですね。僕はついていっていいんですか? こんな体では足手まといでは……?」
「八郎君、これを見たまえ」
榎本が懐から取りだしたのは一枚の錦絵だった。そこに刀を手にした何者かが描かれていた。
「それは君自身の姿だ。君が片腕を失ってまで箱根で戦い続けた姿は、たちまち江戸に伝わって、今じゃ江戸の町で君はちょっとした有名人だ」
「そんな……悪い冗談だな」
八郎は苦笑した。
「君は薩長に支配された今の江戸にとり希望なんだ。例え腕が使えなくても、君は俺が必ず守ってみせる。共に戦おう」
「ありがとう榎本さん」
と八郎はまるで子供のように純粋な瞳でいった。
慶応四年(一八六八)八月十九日、艦隊は満を持して品川沖を出港した。軍艦は開陽丸はもちろんのこと回天、千代田形、蟠龍の四隻である。それに輸送船として長鯨、美加保、咸臨丸、神速で合計八隻。美加保と咸臨丸はいずれも動力を持たない。それぞれ美加保を開陽丸が、咸臨丸を回天が纜で曳いての航海である。
風はまだ穏やかだった。関東平野が次第、次第に遠のいていく。オランダ留学に赴くため江戸を離れた時も、関東平野を遠く感じたが、今回はそれよりさらに遠くに感じられた。いずれにせよもう戻ることはないのかもしれない。
「他に何か手立てはなかったのか?」
思わず榎本は己に問いかけた。
榎本には気がかりなことが一つあった。晴雨計が、気圧が低下していることを教えていたのである。季節は秋である。台風が接近しているのかもしれなかった。はたして不安は的中することになる。
房総半島の東へまわったころ、雲は空一面をおおった。北風が強くなり、ほどなくして雨が降りだした。やがてそれは、横殴りで、バケツを逆さにしたような激しいものと化した。低気圧の勢力圏に入ったのだ。
排水量二千六百トンの開陽丸をもってしても、この嵐の前では風に揺られる木の葉のようだった。榎本は必死に艦長室で舵を取るも、この自然の驚異の前ではあまりに無力だった。
「もしや俺たちは、蝦夷はおろか奥州にも行けずここで終わるのか」
やがて榎本を、さらに驚愕させる事態が勃発する。
三本の帆柱はどれも、畳まれた帆をばたばたと激しく震わせていたが、とうとう最前列の帆柱が強風に屈した。武揚が見上げると帆柱は上から三分の一あたりで折れていくところだった。折れた帆柱は中央にある帆柱にぶつかり、これにからまってなぎ倒した。さらに凄まじい破壊音が響き、後方の帆柱は中央よりもいくらか下のあたりでぽっきりと折れた。
開陽丸の一室で通訳官のアラミスは、激しい揺れのため目を覚ました。驚くべきことにすでに船は膝のあたりまで浸水し始めていた。
甲板にでるとそこにブリュネが立っていた。
「アラミス、どうやらこの船は終わりのようです。私たちこの海に散るようです残念です」
とブリュネは絶望的なことをいった。しかし次にでた言葉は、さらにアラミスを驚かすものだった。
「私たちもう死ぬでしょう。死ぬ前に一つだけ伝えたいことあります。私日本に残ったのは教え子救うため、そして日本の美しさに魅かれたため、そして今一つはあなたに魅かれたからです」
ブリュネは酔っている様子で、酒の臭いがした。しかし目は純粋にアラミスを真っすぐに見つめていた。呆然とするアラミスにさらにブリュネはいう。
「私あなたとなら死ぬの怖くありません。共にここで死にましょう!」
アラミスは動揺し、思わず悲鳴をあげてしまう。
「いや、近寄らないで!」
激しい風雨でずぶ濡れになりながらも、アラミスは甲板を必死に走った。ブリュネは追ってこなかった。
一方、海陽丸に纜でひかれている美加保丸もまた、半ば船内はパニックと化していた。船に慣れぬ乗組員の多くが嘔吐を繰り返し、激しい振動で誤って海に投げ出される者までいた。この船には伊庭八郎も乗船していた。
八郎は片腕ながらも、他の乗組員と共にずぶ濡れになりながら水をくみ出す作業をしていた。しかしそれも限界が近づいてきた。
一際大きな揺れが船を襲う。船が逆さになったのではないかと錯覚するような大きな揺れで、乗組員の多くが転倒し、床や壁に頭をぶつけた。誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
「纜が切れたぞ!」
開陽丸と美加保丸を繋いでいる纜は二本、そのうち一本が切れてしまったというのである。もしもう一本が切れたら、動力をもたない美加保丸は海中でほぼ命運尽きることになる。
開陽丸では、艦長の榎本が苦渋の決断を強いられていた。この嵐の中、もはや残る一本の纜では美加保丸を引くことは不可能だというのである。
「艦長、このままでは開陽、美加保共に海の藻屑となってしまいます。共倒れを防ぐ手段はもはや一つしかありません」
松平太郎が厳しい顔をいった。
「それでは纜を切れというのか! 馬鹿な! 美加保には片腕のない八郎君もいるのだぞ。彼を見捨てろというのか」
「しかし我等は、ここで運命を共にするわけにはゆかないのです。それは八郎君とて望まぬはず」
沢太郎左衛門もまた榎本の最終決断を求めた。こうしている間にも船はどんどん浸水していた。もはや榎本に躊躇していることは許されなかった。
こうして最後の命綱ともいえる纜も切られた。
八郎はずぶ濡れになりながらも思わず、漆黒の天をあおぎ見た。
「どうやら今度こそさようならのようですね榎本さん。残念です。最後まで貴方と戦いたかった……」
こうして美加保は激流に翻弄される、ただの無力な存在と化した。やがて開陽から次第、次第に遠ざかり波の中に姿を消した。八郎と美加保の乗組員は生死不明となった。
例えば田中久重は江戸後期から明治の人である。筑後の国に生を受け、後に芝浦製作所すなわち東芝を設立した発明家である。からくり人形や折りたたみ式の懐中燭台、圧縮空気により灯油を補給する灯明の無尽灯など多くの発明をした。中でも驚くべきは万年時計の発明である。
七宝や彫金が施された絢爛豪華なこの時計は、六角柱をしている。そして六面それぞれに和時計、洋時計、カレンダーなどの機構が埋め込まれていた。上の半円のガラスの中はプラネタリウム(天球儀)で、一年に一度ゼンマイを巻けば、ほぼ正確に時を刻み続けるという優れものだった。久重は高度な天文学の知識を持っていたのである。
次に忘れてはならないのが伊能忠敬である。五十歳といえば、現在でもそろそろ隠居してもおかしくない年齢である。その年代になって日本中を歩いて、かなり正確な日本地図を作製したという、ある種の超人的な人物だった。この忠敬の天文学の知識が榎本武揚の父武規に伝わり、やがては武揚にも伝わるのである。
医学の分野では紀伊国(和歌山県)の開業医だった華岡青洲が、漢方中心の当時の伝統医学と蘭学による医学を融合させ、次々と独自の治療法を編み出した。なかでも特筆すべきは、世界で初めて、麻酔を使って乳癌の手術を行ったことだった。そのための麻酔薬もまた青洲が独自に開発したという。
そして医学の世界で忘れてはならないのが、なんといっても緒方洪庵と適塾の存在である。その最大の功績は、当時江戸及び日本国中で猛威をふるっていたコレラの治療である。そして種痘による天然痘の治療法を日本で確立したことだった。また幕末から明治にかけて、医学会だけでなく多くの方面に人材を輩出した。
この物語でも今まで何度か適塾出身者が登場した。序章の福沢諭吉、大鳥圭介、大村益次郎、武田斐三郎そして高松凌雲もまた適塾出身者だった。
(田中久重の万年時計)
いよいよ開陽丸の出航の時は近づいていた。ここに新たに榎本に乗船許可を求める者がいた。
「高松凌雲? 聞いたことない名だな。太郎さんおめえは知ってるかい」
榎本はかたわらに座っている松平太郎に聞いてみた。
「ああその方なら、確か慶喜公のもとで奥詰医師をやっていたはず」
「何者なんだいそいつは?」
「それはまあ将軍家に雇われるくらいだから、医師としてかなりの腕のはず」
高松凌雲という人物は、九州・筑後の国の庄屋の三男として生を受けた。十九歳にして久留米藩士の家に養子に入り武士になる。しかし武士の社会になじめなかったのか三年後には久留米藩を脱藩した。兄で幕臣の古屋佐久左衛門を頼って江戸に出てきた凌雲は、今度は医師を目指すこととなる。
蘭方医として著名だった石川桜所の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学ぶ。その後、今度は大坂に行き適塾に入塾。緒方洪庵の指導を受け頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を自由にあやつるまでになる。さらに、幕府が開いた英学所で英語もマスターした。
やがて凌雲の秀才ぶりは一橋家にも聞こえ、ついには一橋慶喜の専属医にまでなる。慶喜が将軍になると凌雲もまた幕府の奥詰医師になったという。
オランダ語や英語も話せると聞いて榎本は凌雲という人物に興味を持った。
「とりあえず会ってみようここに通してくれ」
やがて姿を現した凌雲は、三十一歳とまだ若いこともあり、いかにも熱血漢という言葉がふさわしい人物だった。榎本がオランダ語次いで英語で話しかけると、すらすらと答えがかえってきた。
「たいしたもんだねえ。もしかして外国に行ったことがあるのかな?」
「はい、ついこの間フランスでパリ万博があり、日本からは慶喜の弟君である昭武様が将軍代理でパリへ赴くことになりました。私は随行医師として共にパリまで行ってきました。フランスの他にもイタリア、スイス、オランダ、ベルギーなど各国を歴訪しました」
凌雲はフランスにて「神の家」なる医療施設を見聞する。これは貧富の差なく誰もが平等に治療を受けることが可能な病院であり、凌雲は深い衝撃を受けることとなった。
しかし凌雲が戻ってくる頃には徳川幕府はすでになく、兄の古屋佐久左衛門もまた幕臣として越後方面に出兵し、その後の行方はしれなかった。
その後の凌雲は身のふり方を様々に思案した後、ついに榎本艦隊に合流する道を選んだのである。凌雲には夢があった。いつか自らの手で、フランスでみた神の家を日本でも実現するという夢だった。
「ありがてえ、これから戦になるかもしれねえ。そうなれば死傷者がでる。どうしても医者が必要になる。その時は先生よろしく頼むぜ」
「こちらこそ、以後よろしく」
型通りの挨拶をすますと、船内を見て回るため凌雲は榎本に背を向けた。
「先生、待ってくんな」
と榎本が凌雲を呼びとめた。
「太郎さん、例の重病人の件だ。今までいろんな医者に見せたがだめだった。でもこの先生ならなんとかなるかも……」
榎本は隣に座っている松平太郎と、なにやら小声で相談している様子だった。
「実はな先生、来て早々に申しわけないんだが、緊急を要する病人が一人いるんだ。先生を腕を見こんで一つ診療してもらえねえかな?」
凌雲は船内の一室に通されると、そこにまだ若い侍が横になっていた。中々凛々しい顔をしている。しかし熱があるらしく呼吸が荒い。それよりもなによりも左腕に深く斬られた後があって、傷が化膿して腐敗がすすんでいた。あの箱根での死闘から、かろうじて生還した伊庭八郎だった。
八郎と遊撃隊士たちは、九死に一生をえて箱根から撤退。その後、榎本艦隊に熱海沖で救助されることになる。他の遊撃隊士たちは、奥州方面での戦闘に赴いたが、八郎だけは傷が深いため船で養生することになった。しかし何度か医師の診療をうけるも、傷のダメージが大きく治療できる者はいなかった。
「これはひどいな。すぐに手術が必要だな」
「先生、治りますか?」
八郎が心配そうにたずねた。
「このまま放置すれば命にかかわります。やむをえないので腕を切断する手術をおこなうので、それにより命だけは助かります。おまえたちすぐに手術の用意だ」
と凌雲は、同行していた数名の助手に素早く指示をあたえた。
「腕一本失うことになるが命を救うためだ致し方ない。これから麻酔をするので、手術がすむまでしばらくの間眠っていてもらう」
「お断りいたします」
「どういうことだ?」
「人が自分の腕を切断している間に眠ってなどいられません。手術は麻酔なしでお願いします」
「正気か君は! いかほどの激痛だとおもっているんだ!」
「先生、俺は逃げたくないんです。どんな苦痛であっても、例えこれで終わりだとしても……」
それから四半刻ほども、凌雲の必死の説得が続いたが八郎は応じず、ついに麻酔なしの手術がはじまった。
まず凌雲は焼酎で傷口をきれいに洗った。それから血が流れぬよう、術野から三寸上を幅広の止血帯で二巻きし、中に棒を入れてきつく縛った。最初は円刃刀で皮膚だけを切開する。その後、真皮を皮下組織と隔離していく。さらに筋膜を開き、ついには筋肉を骨が露出するまで切り開く。
やがて八郎は想像を絶するすさまじいばかりの激痛のため、うめき声があげた。仲間の遊撃隊士数名がこの光景を見守っていたが、あまりのことについには目を背けた。
「先生! 患者の様子が!」
「先生出血が!」
「先生、脈と呼吸が乱れています! もうこれ以上は無理です!」
凌雲の助手は、幾度が絶望的な声をあげた。
「今はもう止めるわけにはいかないんだ! 後は患者の精神力にすべてを託するしかない!」
その度ごとに凌雲は鬼の形相で叫んだ。
時間だけが容赦なく流れた。八郎は最初ぼんやりと天井を見つめていたが、やがてそれも霞みはじめ、ついには真っ暗な世界と化した。
「寒いな……。今度という今度こそ俺は死ぬのかな?」
生死の境をさまようのはこれで何度目だろう? 痛みはもうなかった。気がつくと目の前に大きな狐がいた。そして左腕の傷口から必死に血を吸っていた。八郎はしばし目を閉じた。次に目を開いた時、そこに小稲が立っていた。
「だから申したでありんせんか、あれほど江戸の外にでるなと……それでもまだ続けるつもりなのですか? そんな姿になってまで……」
「小稲よ……」
小稲は綾絹の小袖を身まとい、髪は櫛で結っておらず垂れさがっていた。八郎は右手をさしだすも、その姿はやがて遠くなり消えた。
……やがて凌雲は治療部屋から出てきた。
「先生、八郎君はどうなりました?」
と早速榎本がたずねた。
「手術は無事成功しました。しかし患者が目を覚ましません」
榎本が部屋にかけこむと、八郎は相変わらず人事不肖の状態だった。
「八郎、八郎君しっかりしろ」
しばし榎本が声をかけ続けると、ようやく八郎が目を覚ました。
「手術は、手術はどうなったんです」
「成功した。お前はまだ生きれるんだ」
と榎本は、かすかに笑みを浮かべていった。
「そうかよかった……でも、でも俺は片腕を失った。榎本さん、これから蝦夷まで行くそうですね。僕はついていっていいんですか? こんな体では足手まといでは……?」
「八郎君、これを見たまえ」
榎本が懐から取りだしたのは一枚の錦絵だった。そこに刀を手にした何者かが描かれていた。
「それは君自身の姿だ。君が片腕を失ってまで箱根で戦い続けた姿は、たちまち江戸に伝わって、今じゃ江戸の町で君はちょっとした有名人だ」
「そんな……悪い冗談だな」
八郎は苦笑した。
「君は薩長に支配された今の江戸にとり希望なんだ。例え腕が使えなくても、君は俺が必ず守ってみせる。共に戦おう」
「ありがとう榎本さん」
と八郎はまるで子供のように純粋な瞳でいった。
慶応四年(一八六八)八月十九日、艦隊は満を持して品川沖を出港した。軍艦は開陽丸はもちろんのこと回天、千代田形、蟠龍の四隻である。それに輸送船として長鯨、美加保、咸臨丸、神速で合計八隻。美加保と咸臨丸はいずれも動力を持たない。それぞれ美加保を開陽丸が、咸臨丸を回天が纜で曳いての航海である。
風はまだ穏やかだった。関東平野が次第、次第に遠のいていく。オランダ留学に赴くため江戸を離れた時も、関東平野を遠く感じたが、今回はそれよりさらに遠くに感じられた。いずれにせよもう戻ることはないのかもしれない。
「他に何か手立てはなかったのか?」
思わず榎本は己に問いかけた。
榎本には気がかりなことが一つあった。晴雨計が、気圧が低下していることを教えていたのである。季節は秋である。台風が接近しているのかもしれなかった。はたして不安は的中することになる。
房総半島の東へまわったころ、雲は空一面をおおった。北風が強くなり、ほどなくして雨が降りだした。やがてそれは、横殴りで、バケツを逆さにしたような激しいものと化した。低気圧の勢力圏に入ったのだ。
排水量二千六百トンの開陽丸をもってしても、この嵐の前では風に揺られる木の葉のようだった。榎本は必死に艦長室で舵を取るも、この自然の驚異の前ではあまりに無力だった。
「もしや俺たちは、蝦夷はおろか奥州にも行けずここで終わるのか」
やがて榎本を、さらに驚愕させる事態が勃発する。
三本の帆柱はどれも、畳まれた帆をばたばたと激しく震わせていたが、とうとう最前列の帆柱が強風に屈した。武揚が見上げると帆柱は上から三分の一あたりで折れていくところだった。折れた帆柱は中央にある帆柱にぶつかり、これにからまってなぎ倒した。さらに凄まじい破壊音が響き、後方の帆柱は中央よりもいくらか下のあたりでぽっきりと折れた。
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「アラミス、どうやらこの船は終わりのようです。私たちこの海に散るようです残念です」
とブリュネは絶望的なことをいった。しかし次にでた言葉は、さらにアラミスを驚かすものだった。
「私たちもう死ぬでしょう。死ぬ前に一つだけ伝えたいことあります。私日本に残ったのは教え子救うため、そして日本の美しさに魅かれたため、そして今一つはあなたに魅かれたからです」
ブリュネは酔っている様子で、酒の臭いがした。しかし目は純粋にアラミスを真っすぐに見つめていた。呆然とするアラミスにさらにブリュネはいう。
「私あなたとなら死ぬの怖くありません。共にここで死にましょう!」
アラミスは動揺し、思わず悲鳴をあげてしまう。
「いや、近寄らないで!」
激しい風雨でずぶ濡れになりながらも、アラミスは甲板を必死に走った。ブリュネは追ってこなかった。
一方、海陽丸に纜でひかれている美加保丸もまた、半ば船内はパニックと化していた。船に慣れぬ乗組員の多くが嘔吐を繰り返し、激しい振動で誤って海に投げ出される者までいた。この船には伊庭八郎も乗船していた。
八郎は片腕ながらも、他の乗組員と共にずぶ濡れになりながら水をくみ出す作業をしていた。しかしそれも限界が近づいてきた。
一際大きな揺れが船を襲う。船が逆さになったのではないかと錯覚するような大きな揺れで、乗組員の多くが転倒し、床や壁に頭をぶつけた。誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
「纜が切れたぞ!」
開陽丸と美加保丸を繋いでいる纜は二本、そのうち一本が切れてしまったというのである。もしもう一本が切れたら、動力をもたない美加保丸は海中でほぼ命運尽きることになる。
開陽丸では、艦長の榎本が苦渋の決断を強いられていた。この嵐の中、もはや残る一本の纜では美加保丸を引くことは不可能だというのである。
「艦長、このままでは開陽、美加保共に海の藻屑となってしまいます。共倒れを防ぐ手段はもはや一つしかありません」
松平太郎が厳しい顔をいった。
「それでは纜を切れというのか! 馬鹿な! 美加保には片腕のない八郎君もいるのだぞ。彼を見捨てろというのか」
「しかし我等は、ここで運命を共にするわけにはゆかないのです。それは八郎君とて望まぬはず」
沢太郎左衛門もまた榎本の最終決断を求めた。こうしている間にも船はどんどん浸水していた。もはや榎本に躊躇していることは許されなかった。
こうして最後の命綱ともいえる纜も切られた。
八郎はずぶ濡れになりながらも思わず、漆黒の天をあおぎ見た。
「どうやら今度こそさようならのようですね榎本さん。残念です。最後まで貴方と戦いたかった……」
こうして美加保は激流に翻弄される、ただの無力な存在と化した。やがて開陽から次第、次第に遠ざかり波の中に姿を消した。八郎と美加保の乗組員は生死不明となった。
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佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
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秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
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歴史・時代
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克全
歴史・時代
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