辣腕上司の極上包囲網 失恋したての部下は、一夜の過ちをネタに脅され逃げられません。

sakuru

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1巻

1-2

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 こんな時間まで飲んでいるのだ。紗那同様忘れたいことがあるのだろう。けれど仕事場では冷静で、冷淡な印象だった隆史だが、自分と同じように恋愛したり、落ち込んだりもするのだと、意外に思えてしまった。改めて近くで彼の顔をよく見ると、目の下に薄く墨をいたようなくまがあった。

(もしかして、あんまり眠れていないのかな……)

 仕事をしている時は、隙がないから全然そんなこと気づかなかった。そう考えながら彼の話に耳を傾ける。

「このところ忙しかったから、あんまり構ってやれなくて……三年も一緒にいたのに、突然出ていったきりだ……」

 そう言うと、彼はグラスの酒をあおる。つられて紗那も目の前に出された軽めのカクテルを一気に飲み干してしまった。

「わかります。なんかむなしいですよね。……そうです、そういう時は飲みましょう! 私も飲みますから。バーテンさん、私にバラライカください!」

 酔いをます予定が、追加でウォッカベースのカクテルをオーダーしていた。そんな紗那を見て、隆史も飲み倒そうと思ったのだろう。カクテルではなくてウイスキーのロックを頼む。

「では、今宵こよいの出会いに乾杯!」

 会社での顔と全く違う、柔らかな表情で隆史がグラスを上げる。芝居がかった台詞せりふに思わず笑いながら、紗那は隆史の琥珀色こはくいろの液体が入ったグラスに、自分のカクテルグラスのふちを合わせた。


「……すみませんが、そろそろウチの店、オーダーストップで……」

 数杯飲んで酔いが本格的に回り、盛り上がってきたタイミングで、申し訳なさそうにバーテンダーが声をかけてきた。
 オーナーの言葉に、テンションが上がった紗那と隆史は目線を合わせる。

「……じゃあ、ウチで飲み直すか?」
「そうですね。失恋した者同士仲良く飲みましょう!」

 思いがけない誘いの言葉に、酔いで深く物事を考えられなくなっていた紗那は、満面の笑みで頷いたのだった。


   ***


「う。頭……痛い……」

 目を開けた瞬間、朝の光が目を射す。一瞬目をつぶってから、朝日を警戒しつつ薄目を開ける。

(あれ……ここ、どこだ?)

 だが目に飛び込んできたのは見知らぬ光景だ。白くて清潔な空間だけど、どこのホテルだろう。なんでこんなところに泊まったんだろう。……昨日の夜、何をしてたんだろう、と記憶を想起する。

(けど、なんかずいぶん固い枕だな……)

 ホテルなら羽根枕じゃないのか、などと思いながら、寝返りを打とうとするとギシリ、と微かにベッドがきしむ音がした。そろそろ朝日にも目が慣れただろうと、眉をひそめて時間をかけ完全に目を開く。

(――え?)

 咄嗟とっさに口に手を押しつけて、声を上げなかった自分を褒めてあげたい。

(ちょ、ちょっと待って……私、本当に昨日どうしたんだっけ?)

 隣に男の人がいる。
 しかもよく知っている人だ。ふと頭の中に昨日の振られたシーンがよみがえる。だが失恋のショックもどこかに飛んでいきそうだ。ベッドの隣どころか、ものすごい至近距離に服を着てない男性がいる。その上、職場でよく見知っている顔だ。けれど絶対にこんな位置関係で一緒のベッドに寝ているはずのない人。

(え、あの、ちょっと。これ……腕枕?)

 妙に固い枕だと思っていたのは、男性の腕だという驚愕きょうがくの事実に気づく。

(ヤバイ……よくわからないけど、これ、絶対にヤバイ)

 とにかく少し冷静に考えたいと、彼の腕の中から抜け出そうとして、次の瞬間、パチリと目を開けた男と視線が交わってしまった。

「あっ……の、そのっ」

 何か言い訳をしなければ、と思った瞬間、腕枕の主、渡辺隆史は目を細めて朝の心地良い目覚めを堪能たんのうするかのように、伸びをした。

「あー。よく眠れた。やっぱり腕に重みがあると全然違うな」

 その台詞せりふに紗那は思わず目をしばたたかせる。瞬間、頭の中に昨日の夜の会話がよみがえってきた。

『そうなんだ。アイツにいつも腕枕をしてたから、いなくなられてから落ち着かなくて、最近はすっかり不眠症で……』

 どうやら彼女がいなくなって以来、隆史は一人で寝ているらしい。いつも腕枕をして寝ていたから、その重みがないと安心して眠れないのだ、と言ってなかったか。

「そ、それは良かったデスネ」

 とりあえず彼の言葉に合う返答をする。すると隆史はにぃっと笑って、紗那の頬を指先で軽く突いた。

「……色々あったし、よく寝たら腹が減ったな。とりあえず、飯にしよう」
(色々、って……私、何やったんですかっ)

 その声に慌てて紗那は身を起こす。だが次の瞬間、自分も服を身につけてないことに悲鳴を上げてしまった。


   ***


 先にシャワーを浴びてきたら、と言われた紗那は彼の貸してくれたパジャマを頭からかぶり、二日酔いの頭痛を抱えたまま、ふらふらと彼の家の浴室を借りることにした。

(って、よくわからないけど、ここすごく良いマンション、だよね……)

 昨日一緒に飲んだバーのすぐ側に自宅があると隆史に言われて、二人で歩いてきた。確かマンションの入り口には広くて綺麗なロビーがあり、そのままエレベーターで高層階へ連れてこられた気がする。
 そういえば、二年ほど前に駅から歩いて十分くらいのところに、ハイグレードマンションが建ったと聞いた。ここはそのマンションではないか。

(渡辺室長って……お金持ちなんだな)

 ミナミ食品から出向してきている隆史の給料はある程度予想がつく。いくら有能だとしても、こんなマンションに住めるような給料はもらっていないだろう。それにそもそもここは分譲マンションだったはず。ぼうっとしつつ、そんなことを考えているのは、半分頭が現実逃避しているからだ。だがこのまま逃避をし続けるわけにもいかない。

(えっと……あの後どうなったんだっけ?)

 シャワーを浴び、広い湯船に身を滑らせ、軽く目を閉じる。手を伸ばしたところにボタンがあるから試しに押してみると、ジャグジーが動き始めた。

「どこの高級ホテルよっ」

 思わず突っ込んでしまった。
 ともかく、昨夜の酒まみれの中から記憶をなんとか抽出ちゅうしゅつしようとする。覚えているのは昨日の勇人の衝撃的な告白と、失礼すぎた里穂の言動。
『エッチが下手へたな女』という里穂の台詞せりふが、舌っ足らずな音声付きでぐるぐると回る。
 瞬間、なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。勇人と一緒にいた三年間、喧嘩けんかもしたけれどたくさん笑った。同棲し始めてからは、お互い大切なものを一つずつ集めていって、二人で生活を築き上げていった。それが結婚に繋がっていくのだと、そう信じて疑いもしなかった。
 けれど彼の紗那に対する本音は『エッチが下手へただから別れよう』って、そんなものだったのだ。

『紗那は辛い時にも笑顔でいてくれるから、俺も気づくと笑っているんだ』

 喧嘩けんかして仲直りした時に、そう言ってくしゃりと髪をでてくれた指先。優しい笑顔。

(それが……なんでこんなことに……)

 一緒にいた時間が楽しかったから、こんな風にしていたら、ずるずると追想のもやに引きずりこまれそうだ。

「ちがうちがう。――そんなことより、渡辺室長と何があったのか思い出さないと!」

 過ぎてしまったことを慌てて頭から切り離す。今朝、目覚めた時にお互い服を着てなかったということは、それなりの何かがあったのだろうか。

(あの状況だもの。やっぱり……シちゃった、んだよね)

 シャワーを浴びる前にちゃんと体を確認すれば良かった。二日酔いの頭ではそこまで頭が回らず、いつものように先に体を洗ってしまった。

「……我ながら、最悪っ」

 振られた勢いで、他の男の人とシテしまうなんて。それも相手が相手だ。酔っ払って前後不覚でこうなるなんて、本当に自分で自分が嫌になりそうだった。
 そもそも部屋に誘われてフラフラついていった時点で、何があってもおかしくない。あの時は酔っ払っていてまともな判断ができなかった、なんて言い訳に過ぎない。しかもその相手が……

(ちょっと苦手に思っていた、直属の上司とかって……)

 なんだったら、昨日の夜から全部やり直したい。さっさと振られて、里穂の顔なんか見たくもなかったし、あんな台詞せりふも聞きたくなかった。酔っ払っても適当なところで帰宅して、直属の上司とややこしい関係になんてなりたくなかった。
 そんなこんなを考えているうちに、熱が込み上げてくる。いや、ジャグジーで心地良く暖まったっていう物理的な理由もあるかもしれないけど。

(とにかく、これからどうしよう)

 まずは謝ってなかったことにしてもらおう。お互い酔っ払っていたし、大人のしたことだ。何より大事な仕事に支障をきたしたくない。

(失恋したし、もう仕事しか心の支えがないんだから、そうするしかないよね)

 そう決意した瞬間、ふっと脳裏にフラッシュのように記憶がよぎる。
 エッチが下手へただから振られたんです、と爆弾発言をした紗那に、目を見開いている隆史の顔。それから……

『そんな奴のために泣くな。俺が……忘れさせてやる……』

 耳元でささやかれた言葉。熱っぽい吐息。熱を帯びたその人に、泣いたまま抱きしめられたこと。
 断片的な記憶がよみがえたびにカッと全身が熱くなる。
 優しく触れる指先と、唇。
 彼はどんなつもりでそんな言葉を口にしたんだろうか。わからない……けれど。

「アレは夢の中の出来事。とりあえず……もういい加減、お風呂から出ないと」

 風呂を出て、お礼を言って、素早く立ち去る。
 何もなかったふりをして、月曜日からまた今までのように、上司と部下として同じチームで仕事するのだ。中途半端はんぱな関係で、大切な仕事に支障を来たしたくない。
 パシン、と自らの頬を叩いて気合いを入れ、はっと息を吐き出して浴槽から立ち上がる。どうやらお湯にかりすぎたらしい。軽く立ちくらみがして、壁に触れて体を支える。
 お風呂を出て、着替えていると、扉の向こうから声がした。

「朝飯、作ったから」

 その言葉に、逃げ出す作戦が失敗したことに気づき、紗那はタオル一枚のまま、頭を抱えた。


   ***


 呼ばれてリビングに向かう。既に食事の支度はできていた。リビングに繋がるダイニングはオープンキッチンがあり、どっしりとした木製のダイニングテーブルには美味しそうなパンが何種類かと、チーズにハムにサラダ、ゆで卵まで用意してある。
 ダイニングから見るリビングは、窓が大きくて外からの採光が良く、広くて明るくて、とても良い雰囲気だ。だがカーテンがタッセルでまとめられている横に、ちょっと変わったオブジェのようなものがある。

(あれ、なんだろう……キャットタワーみたいな感じだな)

 猫を飼っていた友人の家に似たものがあった。猫は高いところから下を見下ろすのが好きなのだと友人は言っていた。ふと友人の家の窓際にあるキャットタワーの上から外をぼんやり見ていた猫の姿を思い出す。ただ、この部屋に猫がいる様子はない。

(昔飼ってたとか、かなあ……)

 一瞬、猫について聞こうとして、昨日地雷を踏んで失敗したことを思い出す。

(元彼女さんの飼い猫だったりしたらややこしいし……何も聞かないでおこう)

 そんな風に紗那が一人で納得していると、不思議そうな顔をした隆史に声をかけられた。

「まあ座って。まずは朝食を食べよう」

 その声に慌ててダイニングチェアに腰かける。一枚板を使ったテーブルにはシンプルなチェアが四脚あるが、新品同様で多分、来客がある時以外は使われていない感じがした。ちなみに使っていないのがもったいないほど、座り心地が良い。

「ではいただきます」

 隆史が手を合わせるのを見て、紗那も手を合わせる。カフェオレに手を伸ばしたところで、彼はブラックコーヒーを飲んでいることに気づいた。

(……なんで私のところにはカフェオレなんだろう?)

 口をつけると、深煎ふかいりの濃いめのコーヒーに温めた牛乳を合わせたらしく、砂糖は入っていない。

(これ、私の好きな感じのカフェオレだ……)
「あの……」

 彼はコーヒーを飲みながら、何故か紗那の顔を見て柔らかい笑みを浮かべている。

「なんで室長はブラックで、私はカフェオレなんですか?」
「なんでって……紗那さんはカフェオレ好きだろう?」

 当然のように今まで呼ばれたことないはずの下の名前を呼ばれて、紗那は思わず目を見開く。驚きすぎて、一瞬何を聞こうと思ったのか忘れそうになる。

「えっと、あの……。あ、そうだ。私カフェオレ好きなんて……言ってましたっけ?」
「……いつもコーヒーは『ミルク多め、砂糖なし』って言っていただろう? まとめてコーヒーをテイクアウトしてもらった時は、カフェオレ砂糖なし、だったしな」

 曖昧あいまいに笑った彼は重ねて紗那に食事を勧める。正直食欲はないけれど、用意してもらっているからには手をつけないわけにはいかないだろう。紗那はフォークを手に取り、サラダを口に運ぶ。シャクリと噛むと新鮮な野菜の甘味にドレッシングがほどよく絡む。

「んっ……これ、ドレッシング美味しいですね。ミナミ食品ホームメイドシリーズの、にんじんドレッシングですか? でも歯ごたえがちょっと違う。何か加えて……あ、これナッツですね……」

 顔を上げて隆史を見つめると、彼は目を細めて嬉しそうに笑う。

「さすが紗那さん。……ローストしたクルミを足しているんだ。歯ごたえが良くなるし、風味もいい感じだろう?」

 シャクシャクとしたサラダに、にんじんの甘味とビネガーの酸味が美味しいドレッシング。それにナッツの香ばしさと歯ごたえが加わって、レベルアップした美味しさになっている。酒の酔いが抜けてなかった体に、野菜のフレッシュな感じが染み渡ってきて心地良い。

「……室長って、味覚のセンスがいいですよね」
「……このおよんでまだ室長、か……」

 ぼそりと何かを呟く隆史だが、聞き取れなかった紗那が首を傾げると、息をついて、笑顔で返してきた。

「……どうせ食べるなら旨い方がいいだろう? 俺は基本的に享楽主義者なんだ」

 何かを誤魔化すように彼はそう言うと、旺盛おうせいな食欲を見せつけるように食事を続ける。

「享楽主義者って……言い方があれですが。でもほんと、昨日あれだけ飲んだ割にしっかり食べますね。気持ち悪くないんですか?」
「……ああ。紗那さんは……昨夜はそうとう飲んでたから二日酔いだろ? 俺は酒に呑まれるほどは飲んでない」

 すっと目を細めて、隆史はからかうように笑う。恥ずかしさにじわりと熱が込み上げてきた。

(そうだ、大事なことを言わなければ)
「あの、室長。……昨夜のことは申し訳ありませんでした。……全部、忘れてください」

 必死の思いでそう目の前の上司に向かって言う。うっかり直属の上司と不適切な関係になってしまったのは、自分としても予定外なのだから。

(しかも何があったのか覚えてない辺り、本気で最悪だよね)

 だからこそ、なかったことにするために、少なくとも『忘れる』という言質げんちを取るまでは交渉を続けないといけない。
 だがそんな紗那の思いとはうらはらに、隆史は唇の端をゆがめ、笑顔のような形だけ保って、けんもほろろに言葉を返す。

「悪いが、俺は酒に酔っても記憶はなくさないタイプでね」
「そこっ! ……忘れるのが、男の優しさじゃないんですか?」
「俺はそんな都合のいい記憶力は持ってない。それに昨日は正体を失くすほどは酔ってない」

 飄々ひょうひょうと言い返されて、フォークを持つ手が震える。紗那は昨日の醜態しゅうたいはほとんど覚えていないけれど、『エッチが下手へた』と叫んだ記憶はうっすらあるのだ。きっとろくなことをしていない自信がある。絶対に忘れてもらった方がいい。
 だったら彼がわざわざ『正体をなくすほど酔ってない』と言ったのは、どういう意味だろうか。ふと昨日のベッドでの光景が脳内にフラッシュ映像のようによみがえって、かぁっと体の熱が上がってくる。

「……お願いですから、忘れてくださいっ!」

 再度声を荒らげて言うと、彼はムッとしたようにサラダのミニトマトにプスッとフォークを突き刺した。それを持ち上げて、紗那の目の前に差し出す。

「……なんですか?」
「それなんだが……忘れることはできないが、黙っておくことはできる」

 つまり色々あったことは覚えているけれど、それを人に言わないでおくつもりはある、ということだろうか。さすがにそれは脅迫きょうはくでしょうか、とまでは口にできない。

「……では、昨日あったことは黙っておいてもらってもいいですか?」

 まずはそこが大事だ、とばかりに紗那は隆史に念押しをする。すると彼はニヤリ、と悪そうな笑みを浮かべた。

「そうだな、なら条件をつけさせてもらってもいいか?」
(って、やっぱり脅迫きょうはくかぁぁぁぁ)

 だが完全超人みたいな隆史から見てメリットのある条件なんて、自分に関係するもので何かあるんだろうか、と思う。

(昨日みたいな関係を継続的にとか言われたら……さすがに引くけど、渡辺室長、めちゃくちゃモテるし、それはないか)

 首を傾げつつ、相手の出方を探る。

「……条件って、どんな条件ですか?」
「昨日、話したと思うんだが、一緒に寝てくれる奴がいなくなって、他にも色々気になることが多くて、このところずっと不眠症だったんだ。だが紗那さんが腕枕で寝てくれたせいか、昨夜はぐっすり眠れた。こんなに眠れたのは数ヶ月ぶりでね」
「……はあ」

 確かに不眠は辛い。昔ストレスで眠れなかった時期があったからそれはよくわかる。

「それに、昨日紗那さんが自分で言っていたよな。今住んでいる部屋、再来月が更新月で、元彼が部屋を出ていくから、一人じゃ家賃を払えない。早く別の部屋を探さないといけないって」
「……言った気がします」
(確かに『住むところもなくなっちゃう』って愚痴ぐちった記憶は……ある。けど、何を条件にするつもりなんだろう。この人)

 じぃっと相手の様子をうかがうようにして視線を向ける。すると彼は悪びれず、にっこりと笑顔を返してきた。

「なら、ここに住んだらいい」
「……は?」

 何をこの人は言っているんだろう。思いっきり眉をひそめた紗那の反応は予想通りだったのか、彼は驚きもせずパンを口に放り込む。それを咀嚼そしゃくし呑み込むと、一口コーヒーを飲んで一人で頷いた。

「俺は不眠症で困っている。紗那さんは住む場所がなくなるので困っている。……ここまではいいな?」

 何が、いいな、だ。むむむと眉根を寄せると、彼はもう少し丁寧に説明する気になってくれたらしい。

「ここは分譲の家族向けのマンションだから、部屋はそれなりにある。通勤には近くて最適だし、家主が不要だと言っているから、家賃を払う必要はない」

 言っていることの意味はわかる。だが、条件を何にしようとしているのかがわからないから不安なのだ。

「その言い方だと、住むところがなくなるなら、家賃なしでここに住んだらいい、って言っているように聞こえるんですが?」

 思わずそう尋ねると、彼は真顔で頷く。

「ああ、そういう意味だ。……昨日のことは他の人間には黙っているし、家賃も不要だから、紗那さんにここに住んでもらいたい」

 ……それはそれは良い話に聞こえるけれど、『条件』がついてくるのだろう、と紗那は頷かずに続きをうながすように彼の顔をじっと見る。

「……その代わりと言っては、弱みにつけ込むようであれだが……」
(やっぱり条件があるんだ。しかも弱みにつけ込むようなのが……)
「…………」

 なんですか、と問うかわりにじっと見つめている紗那の視線から、隆史は困った表情を浮かべたまま目をそらす。普段飄々ひょうひょうとしている彼らしくない。

「紗那さんには、ここに住んでもらって、俺が頼んだ時には、俺の腕枕で寝てもらいたい」
「……はあ?」

 変な声が出てしまった。それは……最初考えた、女性として男性をなぐさめる的な下衆げすな提案かと、思いっきり顔をしかめてしまった。

「いや、あの……そういう意味じゃなくて……」

 紗那の表情を見て、疑われたと思ったのか、隆史は慌てて首を左右に振った。

「違うんだ。別に性的な云々うんぬんって意味じゃなくて。普通に添い寝? 的な。本気で眠れなくて参っているんだ。先週も毎日二時間以下の睡眠で、正直体力を保たせるのが限界で……。仕事のクオリティが下がって仕方ない。すまない。変なことを言っているのは重々承知している。だが……俺を救うと思って、この条件を呑んでくれないか」

 今まで飄々ひょうひょうとしていた彼に、何故かいきなり両手で拝まれてしまった。そのくらい切羽詰せっぱつまっているのか。
 職場での彼の様子とのギャップに思わず気が抜けた。そういえば、昨日の夜、間近で隆史を見た時、目の下にくまを作っていたことを思い出した。

「あの……添い寝、だけですか?」
「ああ、別に性欲がないわけじゃないが……今は不眠を解消するのに手一杯で、それは後回しでいい」

 あ、そっちはナシじゃなくて、とりあえず後回しなんだ。確かに睡眠とか食欲が満たされないと、人は性欲が湧かないと聞いた覚えがある。とはいえ、昨夜はどっちも満たしてしまったんじゃないかって気もしないでもない。しかし、逆に言えば睡眠に対する欲求は、それだけギリギリのところなのだろう。
 紗那は一瞬どうしようか迷う。実のところ、今隆史を中心としたチームでの新企画は、佳境を迎えているのに、このところ隆史が精彩を欠いているな、とチーム全員で話していた。

(室長のリーダーシップがチームにとって必要不可欠、なのは確かだし。私も来月上旬までゆっくり家を探している余裕はない)

 昨日だって、忙しい中、なんとか時間を作って勇人に会いに行ったのだ。結果は……振られただけだったけれど。

「少なくとも……望まないことを無理強むりじいはしない。そのあたりは誠実に対応する。……だから、俺の腕枕で寝てくれっ」

 ものすごい真剣な表情で言われて、紗那はあっけにとられてしまった。


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