3 / 17
1巻
1-3
しおりを挟む
「……そこまで、寝不足が辛いんですか?」
思わずそう聞き返す。
「……ああ、ほんとうに寝不足は堪える」
ぼそりと呟くと、ちらりと紗那の方を見て、もう一度深々と溜め息をついた。
「夜は眠れない、ようやく寝付いてもすぐに目が覚めてしまう。目が覚めると色々考えすぎて、また眠れなくなる……。こんなことで悩んでいる自分がみっともないやら情けないやら……」
普段、冷静沈着でスマートに仕事をしている姿しか見ていないし、仕事場ではオシャレに整えられた髪型が普通だから、寝起きでちょっとぼさっとしている頭をぐしゃぐしゃとかき回す姿に、寝不足が堪えている感が強まる。
「わ、わかりました。確かに私も住むところには困っていたので……。先ほどの約束を守ってくれるなら、次の家が決まるまではこちらに滞在させてもらいます」
そう言うと、彼はぱっと表情を明るくした。
(可哀想に、よっぽど寝不足が堪えていたんだな……)
思わず同情した紗那だが、次の彼の言葉に絶句してしまった。
「じゃあ飯が終わり次第、早速紗那さんの部屋に、荷物を取りに行こうか」
「……は?」
突然の提案に口をあんぐり開けた紗那を見て、隆史はにんまりと笑みを浮かべた。
「元彼が戻ってくる前に、荷物を移動させた方がいいだろう? 少なくとも今すぐ必要な着替えとか、そういうやつ。車を出すから今から取りに行こう」
そう言われて、呆然としている間にお皿を下げられて、気づくと家に向かうことになっていた。
第二章 急転直下、激動の週末
万が一、勇人と鉢合わせしたらどうしよう? と心配しなくもなかったが、マンションに戻っているだろう紗那を気遣ってか、勇人の姿も里穂の姿もなくて、正直ホッとする。
(さすがに、不在だからって部屋に金谷さんを連れ込まれてたら、確実に胃の中のもの、全部吐きそうな気がするわ……)
「着替えとかは自分で準備するだろう? 他に大きなもので持っていきたいものはないか?」
そう言われて、部屋をぐるっと見回す。結婚してからそろえようと、あまり家具を買ってなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
「私が一人暮らしの時から持ってきてたのは……」
お気に入りの一人がけのソファーや、小さな食器棚、一人暮らししてから買ったちょっと贅沢な調理器具や、オーブンレンジなどを指し示す。
「このうち、持っていきたいのはどれ?」
「え? 今ですか?」
思わず聞き返すと、彼は眉を顰めて紗那の顔を覗き込んだ。
「その新しい彼女とやらが来て、あれこれ触られるかもしれないだろ?」
そう言われた瞬間、その光景をありありと想像してしまってブルッと体を震わせた。
「そう考えたらできる限り、今すぐ持っていきたいですね」
咄嗟に答えると、彼はそうだろう、と言わんばかりの顔をして頷いた。
「じゃあ、全部持っていこう。部屋数には余裕があるから、一部屋は紗那さんの家具とかの保管に使えばいい。あと、紗那さんは自分の着替えなんかをまとめてくれ」
さらっと言われて再び周りを見回す。
「全部持っていくってどうやって……?」
隆史が乗せてきてくれた車は外国製の高級セダンだ。ここの家具を積める程の大きさはない。
「ああ、業者に連絡する」
なるほど、と一瞬納得しそうになり、慌てて紗那は首を横に振る。
「ちょっと待ってください。それって完全にこの部屋を引き払うみたいに思えるんですけど?」
「だからそのつもりで来たんだが? またこの部屋に来たいか?」
「いや、来たくはないですけど……」
失恋直後に、同棲解消のために二人で暮らした部屋で荷物をまとめる、なんて一人でやったら果てしなく落ち込みそうだし、そもそも昨日だってこの部屋に一人で戻るのが嫌で、夜遅くまで飲み歩いていたようなものだ。
「ああ、運送費の支払いについては俺がするから安心してくれ」
「え、ちょっと……引っ越し費用なら、当然私が払います!」
「仕事で付き合いのある業者に頼むから、こっちでする。とにかく何度も来たくないのならさっさと準備を整えてこい。三時間後に車が来るように手配するから、俺に触れられたくないものはそれまでに準備してくれ」
そういえば隆史は仕事で方針を決めると即行動がモットーで、建設的な提案であれば手を止めて聞いてくれるが、意味なく躊躇しているだけなら叱り飛ばされるのだ。
「はい、了解しました!」
言い方は少しも強くなかったが、叱咤されたような気分で、思わず背筋を正してそう答えると、紗那は慌てて部屋に戻り、衣類や他の持っていくべきものを整理していく。
それこそ隆史の住んでいるマンションとは比べものにならないほど狭く、リビングダイニングと、寝室があるだけの部屋だったけれど、紗那は一瞬手を止めて部屋の中を見回す。
「安いお店で買ったカーテンだったけど、結構お気に入りだったよな……」
二人で量販型の家具店を回って、ちょっと値引きしているカーテンを買った。その時ベッドと寝具も一緒に買ったんだっけ。二人で一緒に眠れるように買ったセミダブルベッドにちらりと視線を落とした瞬間、ベタベタしていた里穂と勇人の姿を思い出し、ぐわっと胸に嫌なモノが込み上げてくる。
「もう、ちゃんと畳まなくてもいいや」
三時間でこの部屋から引っ越しをしないといけない。時間がないから余計なことを考えている暇はない。
黒いゴミ袋に、どんどん自分の服を入れて運び出す。時間に追われて体を動かしたせいだろうか。普通の失恋だったら感傷的になるかもしれないのに、されたことを思い出すと怒りのほうがずっと強い。
リビングに荷物を移動すると、彼は紗那が指示した家具から皿などを引っ張り出していた。
「コレどうする? 持っていくのか?」
そう尋ねられて、友人からもらったものとか特別に思い入れのある物以外は、おそろいの茶碗やコップも全部置いていくことにした。その後、持っていくもの、捨てるもの、置いていくものの選別を行う。まだ引っ越してから二年ほどであったし、大きな物はそれこそ結婚してから買うつもりだったので、引っ越し準備には思ったほど時間がかからなかった。
三時間弱で荷物をまとめ終わると、隆史が手配した業者がさっさと荷物を下ろしていき、感傷に浸る暇もなく荷物を積む。そして今度は隆史の自宅に戻った。
「ああ、そっちの荷物はここの部屋に……」
彼の自宅で荷物の置き場所を指示する隆史の様子にもう何も言えなくなり、呆然と見ていると、業者の人たちは荷物を空いている部屋に収めてさっさと帰っていった。マンションの状況を見てなんとなく事情を察したのだろう、次にまた仕事があるのでは、とさりげなく紗那にも名刺を渡していくあたり、さすが隆史が個人でも利用する有能そうな業者である。
(――あ、嵐みたいだったなあ……)
気づくと、紗那と勇人の住んでいた部屋にあった、紗那の大事なものはすべて隆史のマンションに収められていた。多分荷物を取りにいくという目的では、前のマンションに行く必要はなくなっただろう。運び込まれた荷物を見て、紗那ではなく、何故か隆史がすがすがしい笑みを浮かべる。
「これでよし。さて、夕食どうする? なんか食べに行くか?」
そういえば、そろそろ日が暮れてくる頃合いだが、遅いブランチを取って以来、何も食べていない。声をかけられた瞬間、どっと疲れが出てきて眩暈がしてくる。
「っと、大丈夫? 二日酔いのあと、そのまま引っ越し作業までしたからな。無茶させて悪かった。……疲れているんだったら、食事は持ってきてもらうようにしようか」
足元がふらついた紗那を隆史が咄嗟に支えて、リビングのソファーに座らされる。持ってきてもらった冷たい水をちびちびと飲んでいると、夕食のメニューについて相談されて、適当に頷いていたら、デリバリーで届けてもらうことになっていた。
(強引なんだか、親切なんだかよくわからないな……)
テキパキと動く隆史をぼうっと見ていると、自分でも不思議な気持ちになる。
当然のように再びお邪魔しているが、この家は昨日の今頃までは存在すら知らなかったし、なんだったら昨日、結婚まで考えていた男性から振られたばかりだ。
「……実感がわかないな」
まるで夢でも見ているような気分になる。
(そうだ。荷物引き上げたって、勇人に連絡だけでもしようかな……)
スマホを取り出す。もしかして昨日のあれこれは嘘だったんじゃないか、勇人からメッセージが来ているんじゃないか、どこかでそんなことを期待しつつ画面を覗き込む。
(あ、なんか通知来てる)
慌てて開くが、それは同僚の京香からで、「大丈夫? 電話で話をしようか?」と気遣ってくれるメッセージだった。
そして勇人からは何一つ連絡が入ってない。最後の会話は昨日の喫茶店の待ち合わせ前にやりとりしたものだけで、しかもその内容は、改めて見ると、紗那が色々話しかけているのに、スタンプや、『了解』程度の素っ気ない返事しかない。
(そういえば、このところそんな感じだったかも……)
元恋人の心変わりにも気づいてなかったんだ、と落ち込んでメッセージを送る気力すら失っていると、出前が届いたらしく、隆史がダイニングテーブルの上に料理を並べ始めた。慌てて立ち上がり、彼の手伝いをする。
「美味しそうですね……」
蒸籠がいくつも並んでいる。中華にすると言っていたのだけれど、どうやら点心を中心に頼んだらしい。ごま油とショウガの香りが漂って、ぐぅっとお腹が鳴る。
昨日の今日でお酒は避けようと思ってくれたのか、大きな急須に入っているのは中国茶だ。おそろいの小さな湯飲みに、お茶が注がれる。
「次の『贅沢チルド』シリーズだが、点心を中心とした中華料理はどうかと思っていて……。紗那さんの意見を聞かせてくれないか?」
まるで仕事の話のようで、きっと余計な気遣いをせずに食事ができるようにしてくれているのだろう。紗那は有り難く箸を取って、食事を始めた。
「……冷凍の小籠包は色々なメーカーが出していて人気ですけど、レンジ調理で食べられるものだと、皮が美味しい状態で提供するのはなかなか難しそうですよね……。蒸籠で蒸すのだと手間がかかるし……」
皮がしっかりしていて、匙で口に運ぶまでスープが漏れない。スープを包んだもちもちの皮を楽しみ、口に入れた途端に溢れ出す熱々のスープと小籠包に舌鼓を打つ。
「――っあ、ふ……おいひい……」
熱くて舌っ足らずになった紗那の口調に、隆史がぶはっと笑い声を上げる。仕事場で見たことのないような気さくな姿だ。
熱さを乗り越えて、ジューシィな肉汁を堪能し、嚥下する。ちょっと上顎をやけどしたかもしれないけれど、それに耐える価値ある小籠包だ。そう言うと、彼は嬉しそうににやにやと笑う。
「……笑わないで、くださいよ」
「いや、紗那さんの様子で、出前でも熱々なんだなってわかったから……俺は注意して食べよう」
と、彼は紗那の様子を見ていたからだろう、箸でちょっと口を開き、冷ましてから慎重に食べた。
「人の失敗を見て、調整するとは姑息な……」
この男、やっぱり人の失敗を確実に自分の糧とする腹黒タイプだ、と思いながら睨んでいると、彼は悪びれず、机の上を指し示した。
「……で、次はどれを食べる?」
手のひらに載るような二人前の蒸籠を一つ開けては、美味しそうな点心に歓声を上げ、二人で半分ずつ分ける。
「翡翠餃子、美味しいですね」
「この東坡肉、食べてみてくれ」
言われて、黒っぽくなるほど煮込まれた照り照りの皮付きの豚の角煮に箸を伸ばす。
「んっ……!」
とろっとした皮の部分のゼラチン質と、濃厚な脂が渾然となった旨み。舌の上でほどけるくらいに柔らかい豚バラ肉を味わって思わず身もだえてしまう。
「んーーーーーーっ、美味しい!」
つい声を上げると、彼は嬉しそうに笑った。
「このマンションのすぐ側にある小さな中華料理屋から取り寄せたんだ」
だから小籠包はあんなに熱々だったのか、と納得する。その後もお茶のおかわりをしながら、全部の蒸籠や皿の料理を平らげて、美味しいものをたくさん食べたらなんだか元気が出てきた。
「ありがとうございます。美味しいものを食べると元気になりますね」
「良かった……」
ぽつりと隆史が呟く。何が良かったんだろう、と思って彼の顔を見上げると、クールな表情を崩して笑う。職場で愛想良く浮かべる隙のない笑みではなく、少し照れたようなその表情は、なんだか少年みたいで、ちょっとだけ胸がキュンとしてしまった。
「良かったって、なにが、ですか?」
「いや、俺が勝手に選んだ店だったから。でも紗那さんとは食べ物の好みが似ているな、とは思ってたんだ……。一緒に住むなら食の価値観と好みは大事だろう?」
言われて頷く。面倒になるほどの手間はかかってないけれど、ちゃんと工夫され、心遣いのある美味しい食事。食べ物を前にして交わす会話。食べることが好きな隆史と自分はそういった熱量も近いかもしれない。
「確かに。室長と一緒にいると、美味しいものが食べられそうです」
にっこり笑って答えると、彼は笑わずにじっとこちらを見つめる。
「なんですか?」
「……もう一つ、条件追加だ。家で室長とか呼ばれるとリラックスできない。隆史と呼んでくれ」
条件、と言われると拒否しづらい。紗那は隆史の顔を見上げた。
「さすがに名前はまだちょっと厳しいので……せめて渡辺さんで妥協してもらえませんか?」
「役職がつかないだけ、マシか。……まあ慣れるまではそれでもいい。でも慣れたら名前で呼んでくれ」
何故か不服そうな顔をされてしまった。でも慣れるほど一緒にいるのだろうか。次の部屋が見つかるまでなのに、と思いながらも、穏やかな空気を壊したくなくて慌てて席を立つ。
「あ、私、お風呂洗ってきます。そのまま入ってきちゃっていいですか?」
「掃除道具は洗面台の下にしまってあるから頼む。こっちは皿を洗って始末しておく。出前だし返さないといけないからな」
自然と家事を分担してくれる言葉に目を見開く。笑顔でくしゃりと頭を撫でられて、ぴくんっと跳ね上がりそうになった。
「邪魔しないから、風呂、ゆっくりどうぞ」
その後は順番に風呂に入ったり、テレビで音楽番組を見てくだらない話をしたりしながら、食後のひと時を過ごす。会社ではあんなに緊張する相手だったのに、一緒に過ごす時間は意外なほど心地良い。
「っと、そろそろ寝るか……」
けれどそう声をかけられて、一気に緊張してしまう。
「あの……私。どこで寝るんでしょうか?」
わかっている。そもそも腕枕で寝る役として、部屋を貸してもらうことになったのだ。とはいえ、はい、今からですよ、と言われても正直ちょっと身構えてしまう。
「……とりあえず今日は一人で寝たほうが良さそう、だな」
そんな表情を見て取ったのだろう。隆史は紗那を見て呟く。とはいえ、何か言いたそうな彼の表情に、一瞬答えに迷う。
「……まあ、俺は昨日ゆっくり寝たことだし。今日は一人で眠りたいならそうしたらいい」
それだけ言うと、彼はゲストルームの部屋を使うように紗那を案内した。
***
ゲストルームのベッドはホテルでベッドメイキングされたかのように整えられていて、ふかふかで心地良い。落ち着いたブルーの寝具は疲れた心と頭に安らかな眠りを与えてくれそうだ。なのに……
まるで嵐のような一日が過ぎて、ホッとした瞬間、気が緩む。そうするとふと思い出してしまうのは、勇人との別れのシーンだ。裏切られたことに怒りを感じているのに、楽しかった時期を思い出すと、やり直しが利かないことに心が落ち込んでくる。
どうにかして元の関係に戻れないのか、と思う一方で、今回の件、どうして彼が里穂の誘惑に乗ったのか、それとも彼が里穂を誘惑したのかわからないけれど、どちらにせよ婚約までしているのに安易に浮気ができる勇人の人間性は信用できない、と冷静な判断をしている自分もいる。
(まあ理性ではわかっているけど……)
どこかに三十歳までに結婚できそうでホッとしていた、世間体を気にしている自分もいて、それが不可能になったことで不安を感じている。
(もともと仕事をやりたくて、それを優先するって言っていたんだから。少なくとも仕事で否定されたわけじゃないし……)
自分の心の表層に浮かぶ不安を、言葉で宥める。それでもなんとも表現しがたい喪失感に、気持ちが水面に沈んでいくように落ち込んでしまう。
「水でも、飲んでこようかな……」
キッチンに行きグラスに水を入れて一杯飲むと、リビングの窓が開いているのか、レースのカーテンが揺れていた。ふと外を見てみようとベランダに出ようとしたところで、予想もしてなかった人影が見えて、びっくりしてしまう。
「え、室長?」
「だから、家で役職で呼ぶのは勘弁してくれって言っただろう?」
一人でベランダにもたれかかり、ビールを飲んでいる隆史の姿に目を見開いた。
「……眠れないんですか?」
「紗那さんも眠れないんだろ?」
言い返されて小さく笑う。
「眠れませんねえ。何しろ失恋直後ですから」
「……なるほど」
「渡辺さんは?」
尋ね返すと、彼は小さく笑ってビールを一口飲む。
「なんとなく……眠くならなかっただけだ……」
それは腕枕する相手がいなかったから、ということだろうか? 首を傾げて視線を上げる。
「そういえば、腕枕って疲れませんか?」
付き合い始めの頃、張り切って腕枕をしてくれていた勇人だったけれど、一緒に住むようになってからは重たくて嫌だ、と言ってしなくなってしまったのだ。
「……まあ、疲れるといえば、疲れるか。でも安心するだろう?」
ぽつりぽつりと隆史は呟く。紗那は視線を上げて、月の沈んだ空を見上げる。
「安心?」
「寝ている間もそこに、大事なものがあるって感じていられる……」
ぽそりと言うと、誤魔化すように笑う。月明かりのないベランダでは、お互いの表情はよく見えない。
「……そうですね。私もだから、腕枕は好きかな……。そこに大切な人がいるって、安心できる」
ふと言葉を零すと、彼はまた小さく笑った。夜は人を雄弁にする、と誰かが言っていたけれど、本当かもしれない。
「ほら、だから言っただろう。俺たちは価値観が似てるって」
ゆっくりと会話をしながら、隆史はビールを飲む。紗那は空を見て、星を数えている。
「そうですかねえ。私、仕事していて、渡辺室長の指示はめちゃくちゃ緊張しますよ。絶対にミスは見逃さないって感じなので」
「……悪かったな。ただ、厳しくしても、紗那さんは俺の求めたものをちゃんと返してくれるから、頼りがいはあるかな」
「……そう思ってもらえていたのなら良かったです」
「まあ、たまにこっちを見て、面倒なこと言いやがって、って顔しているのも知っているけどな」
「え?」
図星を突かれて固まった紗那を見て、くつくつと笑う声がする。ビールを飲みきった彼が伸びをした。
「俺はもう一度寝てみるか。……寂しかったら腕枕、してやるぞ?」
どこかからかうような言い方をするから、紗那はフンと鼻息を荒くして、わざと言い返す。
「してほしいのは、渡辺さん、の方ですよね。……私はもう少し星を見ています。眠たくなったらお借りしている部屋で寝ますので」
「じゃ、明日はお互い好きなだけ朝寝坊しよう。目が覚めたらキッチンにあるもの、冷蔵庫にあるものは、全部好きに食べてもらって構わない。だから起こさないし……起こすなよ」
その言葉に紗那は笑って頷く。
「……今日は眠れそうですか?」
「ああ。最重要課題が一つ、クリアできたからな」
「最重要課題? 週明けの会議の準備とかですか?」
そのために紗那も準備してきたのだ。そう尋ねると、彼は笑って『なんでもない』と呟く。答える気のなさそうな隆史を見て、紗那は就寝の挨拶をした。
「じゃ、おやすみなさい」
「ああ。あんまり外にいると体が冷えるぞ。もう一度風呂に入って温まるなら遠慮せず好きに使ってくれ。……お休み」
そう言うと、彼はベランダから部屋に戻っていく。紗那はその後ろ姿を見送って、再びぼうっと空を見上げた。
***
翌日はのんびりと朝寝坊をして起きると、机の上にメモが置いてあった。
『意外と早く目が覚めたのでジムに行ってきます。台所は好きに使ってもらっていいし、食材も適当に使用してくれたらいい。冷凍庫に早めに使い切りたい牛肉の塊があるから、使ってもらえると助かる。では夕方までには戻ります』
そのメモを見て、紗那は台所に行って食材を確認する。冷凍庫には自社製品を含め、様々なメーカーの冷凍食品が入っているし、普段から自炊をしているのだろう、それ以外にも野菜や肉などもあり、独身男性の冷蔵庫とは思えないほど充実している上に、几帳面に片付けられている。
「てかこれ、適当に使って料理しちゃっていいのかな」
使ってほしいと書かれていた牛肉の塊肉を見ると、国産の結構良いお肉だ。せっかくなら夕食に使おうかと、ローストビーフを作るために解凍し、その傍らで簡単な昼食を用意する。
「このキッチン落ち着くなあ……」
冷凍食品の企画でヒットを飛ばすくらいだ、隆史は料理自体が好きなのだと思う。そして調理器具の置き方や、しまい方なども紗那と似通っているから、使い心地が良いのだ、と判断する。
思わずそう聞き返す。
「……ああ、ほんとうに寝不足は堪える」
ぼそりと呟くと、ちらりと紗那の方を見て、もう一度深々と溜め息をついた。
「夜は眠れない、ようやく寝付いてもすぐに目が覚めてしまう。目が覚めると色々考えすぎて、また眠れなくなる……。こんなことで悩んでいる自分がみっともないやら情けないやら……」
普段、冷静沈着でスマートに仕事をしている姿しか見ていないし、仕事場ではオシャレに整えられた髪型が普通だから、寝起きでちょっとぼさっとしている頭をぐしゃぐしゃとかき回す姿に、寝不足が堪えている感が強まる。
「わ、わかりました。確かに私も住むところには困っていたので……。先ほどの約束を守ってくれるなら、次の家が決まるまではこちらに滞在させてもらいます」
そう言うと、彼はぱっと表情を明るくした。
(可哀想に、よっぽど寝不足が堪えていたんだな……)
思わず同情した紗那だが、次の彼の言葉に絶句してしまった。
「じゃあ飯が終わり次第、早速紗那さんの部屋に、荷物を取りに行こうか」
「……は?」
突然の提案に口をあんぐり開けた紗那を見て、隆史はにんまりと笑みを浮かべた。
「元彼が戻ってくる前に、荷物を移動させた方がいいだろう? 少なくとも今すぐ必要な着替えとか、そういうやつ。車を出すから今から取りに行こう」
そう言われて、呆然としている間にお皿を下げられて、気づくと家に向かうことになっていた。
第二章 急転直下、激動の週末
万が一、勇人と鉢合わせしたらどうしよう? と心配しなくもなかったが、マンションに戻っているだろう紗那を気遣ってか、勇人の姿も里穂の姿もなくて、正直ホッとする。
(さすがに、不在だからって部屋に金谷さんを連れ込まれてたら、確実に胃の中のもの、全部吐きそうな気がするわ……)
「着替えとかは自分で準備するだろう? 他に大きなもので持っていきたいものはないか?」
そう言われて、部屋をぐるっと見回す。結婚してからそろえようと、あまり家具を買ってなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
「私が一人暮らしの時から持ってきてたのは……」
お気に入りの一人がけのソファーや、小さな食器棚、一人暮らししてから買ったちょっと贅沢な調理器具や、オーブンレンジなどを指し示す。
「このうち、持っていきたいのはどれ?」
「え? 今ですか?」
思わず聞き返すと、彼は眉を顰めて紗那の顔を覗き込んだ。
「その新しい彼女とやらが来て、あれこれ触られるかもしれないだろ?」
そう言われた瞬間、その光景をありありと想像してしまってブルッと体を震わせた。
「そう考えたらできる限り、今すぐ持っていきたいですね」
咄嗟に答えると、彼はそうだろう、と言わんばかりの顔をして頷いた。
「じゃあ、全部持っていこう。部屋数には余裕があるから、一部屋は紗那さんの家具とかの保管に使えばいい。あと、紗那さんは自分の着替えなんかをまとめてくれ」
さらっと言われて再び周りを見回す。
「全部持っていくってどうやって……?」
隆史が乗せてきてくれた車は外国製の高級セダンだ。ここの家具を積める程の大きさはない。
「ああ、業者に連絡する」
なるほど、と一瞬納得しそうになり、慌てて紗那は首を横に振る。
「ちょっと待ってください。それって完全にこの部屋を引き払うみたいに思えるんですけど?」
「だからそのつもりで来たんだが? またこの部屋に来たいか?」
「いや、来たくはないですけど……」
失恋直後に、同棲解消のために二人で暮らした部屋で荷物をまとめる、なんて一人でやったら果てしなく落ち込みそうだし、そもそも昨日だってこの部屋に一人で戻るのが嫌で、夜遅くまで飲み歩いていたようなものだ。
「ああ、運送費の支払いについては俺がするから安心してくれ」
「え、ちょっと……引っ越し費用なら、当然私が払います!」
「仕事で付き合いのある業者に頼むから、こっちでする。とにかく何度も来たくないのならさっさと準備を整えてこい。三時間後に車が来るように手配するから、俺に触れられたくないものはそれまでに準備してくれ」
そういえば隆史は仕事で方針を決めると即行動がモットーで、建設的な提案であれば手を止めて聞いてくれるが、意味なく躊躇しているだけなら叱り飛ばされるのだ。
「はい、了解しました!」
言い方は少しも強くなかったが、叱咤されたような気分で、思わず背筋を正してそう答えると、紗那は慌てて部屋に戻り、衣類や他の持っていくべきものを整理していく。
それこそ隆史の住んでいるマンションとは比べものにならないほど狭く、リビングダイニングと、寝室があるだけの部屋だったけれど、紗那は一瞬手を止めて部屋の中を見回す。
「安いお店で買ったカーテンだったけど、結構お気に入りだったよな……」
二人で量販型の家具店を回って、ちょっと値引きしているカーテンを買った。その時ベッドと寝具も一緒に買ったんだっけ。二人で一緒に眠れるように買ったセミダブルベッドにちらりと視線を落とした瞬間、ベタベタしていた里穂と勇人の姿を思い出し、ぐわっと胸に嫌なモノが込み上げてくる。
「もう、ちゃんと畳まなくてもいいや」
三時間でこの部屋から引っ越しをしないといけない。時間がないから余計なことを考えている暇はない。
黒いゴミ袋に、どんどん自分の服を入れて運び出す。時間に追われて体を動かしたせいだろうか。普通の失恋だったら感傷的になるかもしれないのに、されたことを思い出すと怒りのほうがずっと強い。
リビングに荷物を移動すると、彼は紗那が指示した家具から皿などを引っ張り出していた。
「コレどうする? 持っていくのか?」
そう尋ねられて、友人からもらったものとか特別に思い入れのある物以外は、おそろいの茶碗やコップも全部置いていくことにした。その後、持っていくもの、捨てるもの、置いていくものの選別を行う。まだ引っ越してから二年ほどであったし、大きな物はそれこそ結婚してから買うつもりだったので、引っ越し準備には思ったほど時間がかからなかった。
三時間弱で荷物をまとめ終わると、隆史が手配した業者がさっさと荷物を下ろしていき、感傷に浸る暇もなく荷物を積む。そして今度は隆史の自宅に戻った。
「ああ、そっちの荷物はここの部屋に……」
彼の自宅で荷物の置き場所を指示する隆史の様子にもう何も言えなくなり、呆然と見ていると、業者の人たちは荷物を空いている部屋に収めてさっさと帰っていった。マンションの状況を見てなんとなく事情を察したのだろう、次にまた仕事があるのでは、とさりげなく紗那にも名刺を渡していくあたり、さすが隆史が個人でも利用する有能そうな業者である。
(――あ、嵐みたいだったなあ……)
気づくと、紗那と勇人の住んでいた部屋にあった、紗那の大事なものはすべて隆史のマンションに収められていた。多分荷物を取りにいくという目的では、前のマンションに行く必要はなくなっただろう。運び込まれた荷物を見て、紗那ではなく、何故か隆史がすがすがしい笑みを浮かべる。
「これでよし。さて、夕食どうする? なんか食べに行くか?」
そういえば、そろそろ日が暮れてくる頃合いだが、遅いブランチを取って以来、何も食べていない。声をかけられた瞬間、どっと疲れが出てきて眩暈がしてくる。
「っと、大丈夫? 二日酔いのあと、そのまま引っ越し作業までしたからな。無茶させて悪かった。……疲れているんだったら、食事は持ってきてもらうようにしようか」
足元がふらついた紗那を隆史が咄嗟に支えて、リビングのソファーに座らされる。持ってきてもらった冷たい水をちびちびと飲んでいると、夕食のメニューについて相談されて、適当に頷いていたら、デリバリーで届けてもらうことになっていた。
(強引なんだか、親切なんだかよくわからないな……)
テキパキと動く隆史をぼうっと見ていると、自分でも不思議な気持ちになる。
当然のように再びお邪魔しているが、この家は昨日の今頃までは存在すら知らなかったし、なんだったら昨日、結婚まで考えていた男性から振られたばかりだ。
「……実感がわかないな」
まるで夢でも見ているような気分になる。
(そうだ。荷物引き上げたって、勇人に連絡だけでもしようかな……)
スマホを取り出す。もしかして昨日のあれこれは嘘だったんじゃないか、勇人からメッセージが来ているんじゃないか、どこかでそんなことを期待しつつ画面を覗き込む。
(あ、なんか通知来てる)
慌てて開くが、それは同僚の京香からで、「大丈夫? 電話で話をしようか?」と気遣ってくれるメッセージだった。
そして勇人からは何一つ連絡が入ってない。最後の会話は昨日の喫茶店の待ち合わせ前にやりとりしたものだけで、しかもその内容は、改めて見ると、紗那が色々話しかけているのに、スタンプや、『了解』程度の素っ気ない返事しかない。
(そういえば、このところそんな感じだったかも……)
元恋人の心変わりにも気づいてなかったんだ、と落ち込んでメッセージを送る気力すら失っていると、出前が届いたらしく、隆史がダイニングテーブルの上に料理を並べ始めた。慌てて立ち上がり、彼の手伝いをする。
「美味しそうですね……」
蒸籠がいくつも並んでいる。中華にすると言っていたのだけれど、どうやら点心を中心に頼んだらしい。ごま油とショウガの香りが漂って、ぐぅっとお腹が鳴る。
昨日の今日でお酒は避けようと思ってくれたのか、大きな急須に入っているのは中国茶だ。おそろいの小さな湯飲みに、お茶が注がれる。
「次の『贅沢チルド』シリーズだが、点心を中心とした中華料理はどうかと思っていて……。紗那さんの意見を聞かせてくれないか?」
まるで仕事の話のようで、きっと余計な気遣いをせずに食事ができるようにしてくれているのだろう。紗那は有り難く箸を取って、食事を始めた。
「……冷凍の小籠包は色々なメーカーが出していて人気ですけど、レンジ調理で食べられるものだと、皮が美味しい状態で提供するのはなかなか難しそうですよね……。蒸籠で蒸すのだと手間がかかるし……」
皮がしっかりしていて、匙で口に運ぶまでスープが漏れない。スープを包んだもちもちの皮を楽しみ、口に入れた途端に溢れ出す熱々のスープと小籠包に舌鼓を打つ。
「――っあ、ふ……おいひい……」
熱くて舌っ足らずになった紗那の口調に、隆史がぶはっと笑い声を上げる。仕事場で見たことのないような気さくな姿だ。
熱さを乗り越えて、ジューシィな肉汁を堪能し、嚥下する。ちょっと上顎をやけどしたかもしれないけれど、それに耐える価値ある小籠包だ。そう言うと、彼は嬉しそうににやにやと笑う。
「……笑わないで、くださいよ」
「いや、紗那さんの様子で、出前でも熱々なんだなってわかったから……俺は注意して食べよう」
と、彼は紗那の様子を見ていたからだろう、箸でちょっと口を開き、冷ましてから慎重に食べた。
「人の失敗を見て、調整するとは姑息な……」
この男、やっぱり人の失敗を確実に自分の糧とする腹黒タイプだ、と思いながら睨んでいると、彼は悪びれず、机の上を指し示した。
「……で、次はどれを食べる?」
手のひらに載るような二人前の蒸籠を一つ開けては、美味しそうな点心に歓声を上げ、二人で半分ずつ分ける。
「翡翠餃子、美味しいですね」
「この東坡肉、食べてみてくれ」
言われて、黒っぽくなるほど煮込まれた照り照りの皮付きの豚の角煮に箸を伸ばす。
「んっ……!」
とろっとした皮の部分のゼラチン質と、濃厚な脂が渾然となった旨み。舌の上でほどけるくらいに柔らかい豚バラ肉を味わって思わず身もだえてしまう。
「んーーーーーーっ、美味しい!」
つい声を上げると、彼は嬉しそうに笑った。
「このマンションのすぐ側にある小さな中華料理屋から取り寄せたんだ」
だから小籠包はあんなに熱々だったのか、と納得する。その後もお茶のおかわりをしながら、全部の蒸籠や皿の料理を平らげて、美味しいものをたくさん食べたらなんだか元気が出てきた。
「ありがとうございます。美味しいものを食べると元気になりますね」
「良かった……」
ぽつりと隆史が呟く。何が良かったんだろう、と思って彼の顔を見上げると、クールな表情を崩して笑う。職場で愛想良く浮かべる隙のない笑みではなく、少し照れたようなその表情は、なんだか少年みたいで、ちょっとだけ胸がキュンとしてしまった。
「良かったって、なにが、ですか?」
「いや、俺が勝手に選んだ店だったから。でも紗那さんとは食べ物の好みが似ているな、とは思ってたんだ……。一緒に住むなら食の価値観と好みは大事だろう?」
言われて頷く。面倒になるほどの手間はかかってないけれど、ちゃんと工夫され、心遣いのある美味しい食事。食べ物を前にして交わす会話。食べることが好きな隆史と自分はそういった熱量も近いかもしれない。
「確かに。室長と一緒にいると、美味しいものが食べられそうです」
にっこり笑って答えると、彼は笑わずにじっとこちらを見つめる。
「なんですか?」
「……もう一つ、条件追加だ。家で室長とか呼ばれるとリラックスできない。隆史と呼んでくれ」
条件、と言われると拒否しづらい。紗那は隆史の顔を見上げた。
「さすがに名前はまだちょっと厳しいので……せめて渡辺さんで妥協してもらえませんか?」
「役職がつかないだけ、マシか。……まあ慣れるまではそれでもいい。でも慣れたら名前で呼んでくれ」
何故か不服そうな顔をされてしまった。でも慣れるほど一緒にいるのだろうか。次の部屋が見つかるまでなのに、と思いながらも、穏やかな空気を壊したくなくて慌てて席を立つ。
「あ、私、お風呂洗ってきます。そのまま入ってきちゃっていいですか?」
「掃除道具は洗面台の下にしまってあるから頼む。こっちは皿を洗って始末しておく。出前だし返さないといけないからな」
自然と家事を分担してくれる言葉に目を見開く。笑顔でくしゃりと頭を撫でられて、ぴくんっと跳ね上がりそうになった。
「邪魔しないから、風呂、ゆっくりどうぞ」
その後は順番に風呂に入ったり、テレビで音楽番組を見てくだらない話をしたりしながら、食後のひと時を過ごす。会社ではあんなに緊張する相手だったのに、一緒に過ごす時間は意外なほど心地良い。
「っと、そろそろ寝るか……」
けれどそう声をかけられて、一気に緊張してしまう。
「あの……私。どこで寝るんでしょうか?」
わかっている。そもそも腕枕で寝る役として、部屋を貸してもらうことになったのだ。とはいえ、はい、今からですよ、と言われても正直ちょっと身構えてしまう。
「……とりあえず今日は一人で寝たほうが良さそう、だな」
そんな表情を見て取ったのだろう。隆史は紗那を見て呟く。とはいえ、何か言いたそうな彼の表情に、一瞬答えに迷う。
「……まあ、俺は昨日ゆっくり寝たことだし。今日は一人で眠りたいならそうしたらいい」
それだけ言うと、彼はゲストルームの部屋を使うように紗那を案内した。
***
ゲストルームのベッドはホテルでベッドメイキングされたかのように整えられていて、ふかふかで心地良い。落ち着いたブルーの寝具は疲れた心と頭に安らかな眠りを与えてくれそうだ。なのに……
まるで嵐のような一日が過ぎて、ホッとした瞬間、気が緩む。そうするとふと思い出してしまうのは、勇人との別れのシーンだ。裏切られたことに怒りを感じているのに、楽しかった時期を思い出すと、やり直しが利かないことに心が落ち込んでくる。
どうにかして元の関係に戻れないのか、と思う一方で、今回の件、どうして彼が里穂の誘惑に乗ったのか、それとも彼が里穂を誘惑したのかわからないけれど、どちらにせよ婚約までしているのに安易に浮気ができる勇人の人間性は信用できない、と冷静な判断をしている自分もいる。
(まあ理性ではわかっているけど……)
どこかに三十歳までに結婚できそうでホッとしていた、世間体を気にしている自分もいて、それが不可能になったことで不安を感じている。
(もともと仕事をやりたくて、それを優先するって言っていたんだから。少なくとも仕事で否定されたわけじゃないし……)
自分の心の表層に浮かぶ不安を、言葉で宥める。それでもなんとも表現しがたい喪失感に、気持ちが水面に沈んでいくように落ち込んでしまう。
「水でも、飲んでこようかな……」
キッチンに行きグラスに水を入れて一杯飲むと、リビングの窓が開いているのか、レースのカーテンが揺れていた。ふと外を見てみようとベランダに出ようとしたところで、予想もしてなかった人影が見えて、びっくりしてしまう。
「え、室長?」
「だから、家で役職で呼ぶのは勘弁してくれって言っただろう?」
一人でベランダにもたれかかり、ビールを飲んでいる隆史の姿に目を見開いた。
「……眠れないんですか?」
「紗那さんも眠れないんだろ?」
言い返されて小さく笑う。
「眠れませんねえ。何しろ失恋直後ですから」
「……なるほど」
「渡辺さんは?」
尋ね返すと、彼は小さく笑ってビールを一口飲む。
「なんとなく……眠くならなかっただけだ……」
それは腕枕する相手がいなかったから、ということだろうか? 首を傾げて視線を上げる。
「そういえば、腕枕って疲れませんか?」
付き合い始めの頃、張り切って腕枕をしてくれていた勇人だったけれど、一緒に住むようになってからは重たくて嫌だ、と言ってしなくなってしまったのだ。
「……まあ、疲れるといえば、疲れるか。でも安心するだろう?」
ぽつりぽつりと隆史は呟く。紗那は視線を上げて、月の沈んだ空を見上げる。
「安心?」
「寝ている間もそこに、大事なものがあるって感じていられる……」
ぽそりと言うと、誤魔化すように笑う。月明かりのないベランダでは、お互いの表情はよく見えない。
「……そうですね。私もだから、腕枕は好きかな……。そこに大切な人がいるって、安心できる」
ふと言葉を零すと、彼はまた小さく笑った。夜は人を雄弁にする、と誰かが言っていたけれど、本当かもしれない。
「ほら、だから言っただろう。俺たちは価値観が似てるって」
ゆっくりと会話をしながら、隆史はビールを飲む。紗那は空を見て、星を数えている。
「そうですかねえ。私、仕事していて、渡辺室長の指示はめちゃくちゃ緊張しますよ。絶対にミスは見逃さないって感じなので」
「……悪かったな。ただ、厳しくしても、紗那さんは俺の求めたものをちゃんと返してくれるから、頼りがいはあるかな」
「……そう思ってもらえていたのなら良かったです」
「まあ、たまにこっちを見て、面倒なこと言いやがって、って顔しているのも知っているけどな」
「え?」
図星を突かれて固まった紗那を見て、くつくつと笑う声がする。ビールを飲みきった彼が伸びをした。
「俺はもう一度寝てみるか。……寂しかったら腕枕、してやるぞ?」
どこかからかうような言い方をするから、紗那はフンと鼻息を荒くして、わざと言い返す。
「してほしいのは、渡辺さん、の方ですよね。……私はもう少し星を見ています。眠たくなったらお借りしている部屋で寝ますので」
「じゃ、明日はお互い好きなだけ朝寝坊しよう。目が覚めたらキッチンにあるもの、冷蔵庫にあるものは、全部好きに食べてもらって構わない。だから起こさないし……起こすなよ」
その言葉に紗那は笑って頷く。
「……今日は眠れそうですか?」
「ああ。最重要課題が一つ、クリアできたからな」
「最重要課題? 週明けの会議の準備とかですか?」
そのために紗那も準備してきたのだ。そう尋ねると、彼は笑って『なんでもない』と呟く。答える気のなさそうな隆史を見て、紗那は就寝の挨拶をした。
「じゃ、おやすみなさい」
「ああ。あんまり外にいると体が冷えるぞ。もう一度風呂に入って温まるなら遠慮せず好きに使ってくれ。……お休み」
そう言うと、彼はベランダから部屋に戻っていく。紗那はその後ろ姿を見送って、再びぼうっと空を見上げた。
***
翌日はのんびりと朝寝坊をして起きると、机の上にメモが置いてあった。
『意外と早く目が覚めたのでジムに行ってきます。台所は好きに使ってもらっていいし、食材も適当に使用してくれたらいい。冷凍庫に早めに使い切りたい牛肉の塊があるから、使ってもらえると助かる。では夕方までには戻ります』
そのメモを見て、紗那は台所に行って食材を確認する。冷凍庫には自社製品を含め、様々なメーカーの冷凍食品が入っているし、普段から自炊をしているのだろう、それ以外にも野菜や肉などもあり、独身男性の冷蔵庫とは思えないほど充実している上に、几帳面に片付けられている。
「てかこれ、適当に使って料理しちゃっていいのかな」
使ってほしいと書かれていた牛肉の塊肉を見ると、国産の結構良いお肉だ。せっかくなら夕食に使おうかと、ローストビーフを作るために解凍し、その傍らで簡単な昼食を用意する。
「このキッチン落ち着くなあ……」
冷凍食品の企画でヒットを飛ばすくらいだ、隆史は料理自体が好きなのだと思う。そして調理器具の置き方や、しまい方なども紗那と似通っているから、使い心地が良いのだ、と判断する。
0
あなたにおすすめの小説
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
男として王宮に仕えていた私、正体がバレた瞬間、冷酷宰相が豹変して溺愛してきました
春夜夢
恋愛
貧乏伯爵家の令嬢である私は、家を救うために男装して王宮に潜り込んだ。
名を「レオン」と偽り、文官見習いとして働く毎日。
誰よりも厳しく私を鍛えたのは、氷の宰相と呼ばれる男――ジークフリード。
ある日、ひょんなことから女であることがバレてしまった瞬間、
あの冷酷な宰相が……私を押し倒して言った。
「ずっと我慢していた。君が女じゃないと、自分に言い聞かせてきた」
「……もう限界だ」
私は知らなかった。
宰相は、私の正体を“最初から”見抜いていて――
ずっと、ずっと、私を手に入れる機会を待っていたことを。
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。