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番外編 御厨夫人になりまして(温泉旅行編)
11
莉乃亜は暖かい湯を肩にかけて、ほぅっとため息をついた。夕食は美味しかったし、何より久しぶりに丸一日のんびりと樹と居られてホッとしたのは間違いないのだけど。
「もう、しませんからねっ」
「わかった、と言っているだろう。とりあえず風呂ではちょっかいは掛けない」
「……お風呂以外も、今日はもう無理、ですよっ」
彼女の隣でのんびりと風呂に浸かる人を見て、ぎっと睨み付ける。今入っているのは、先ほど入った檜風呂ではなく、同じく部屋に用意された岩の露天風呂だ。二つも趣の違った風呂が用意されているなんて贅沢な部屋だと莉乃亜は思う。
露天ではあるものの、湯船の上には雨避けの屋根があり、区切られた敷地には、植えられた緑の中に柔らかい黄色の光の灯篭が幾つか並んでいる。だが風呂に浸かる二人の周りは互いの顔がわかる程度の暗さに収まっている。
「…………そういえば」
「今わかりやすく、話を変えたつもりですよねっ」
「……いや?」
「私、樹さんを休ませたくて、この温泉に誘ったのに!」
そう言い返した瞬間、ふわりと樹に肩を抱きしめられた。
「俺としては、莉乃亜を抱けるのが一番リラックスするんだが……」
ちゃぷと、彼の動きに合わせて水音がする。莉乃亜はだって、樹と過ごす甘い時間は嫌じゃないというか、どちらかと言えばすっかり好きになってしまったけれど。
「あ、樹さん、月が見えますよ」
「わかりやすく話をごまかしたな?」
そう言い返しながらも樹も空を見上げる。二人の視線の先にはぽっかりと浮かぶ黄色い月が二人を見下ろしていた。
「月なんて……久しぶりに見たな」
「樹さん、やっぱり忙しすぎるんですよ。私はよく帰り道に空を見上げますよ。ほら空気が澄んでいるから、星も降ってくるみたいですね」
手を伸ばしたら届きそうなくらい空の輝きが近い。思わず莉乃亜が手を伸ばすと、樹も真似をするように両手を挙げて、ぐいと伸びをした。
「ふぁあああ。まあ、やっぱりたまにはこういう時間も大事か」
珍しく気の抜けた顔をして、莉乃亜の額にキスを落して樹が笑う。小さな声で、ありがとう、と言われて莉乃亜は思わず笑みを浮かべた。最初はずいぶん強引でわがままで、まあそこは今もあまり変わってないけれど、意外と素直に色んな表情を見せてくれるようになったものだと彼女は思う。あと、必要以上に自分の前で表情を作ったりもしなくなったな、と気づくと自然と表情も和らいでしまった。
「そういや、お前、最近色々習い事を始めたんだってな」
二人で月を見上げていると、ふと樹が尋ねてくる。莉乃亜は彼の言葉に小さく頷いた。ごくごく普通の公務員の家庭で愛されて大事に育ててもらって、必要な教育も受けさせてもらってきているけれど、樹の隣に立つには普通の教育では足りないことを、最近ひしひしと感じているのだ。
「紫藤さんに色々紹介してもらっているんですよ」
生粋のお嬢様の紫藤にそんな話をしたら、今からでも身に着けるべき教養が山ほどある、と言われて、良い稽古先を紹介してもらったうえで、秘書課にいる間もビシビシと教育を受けている。基本厳しい人だけれど、人にも自分にも同じように厳しいから、莉乃亜に課していることは彼女自身は全部出来ていて、そういう意味でも、やっぱり尊敬できる人であるのは間違いないのだ。ということで、今は昔の人が言うような『嫁入り』修行を嫁に入ってから始めている状態だ。
「お茶もお花も書道も楽しいですよ。着付けは自分で着ることはまずないけど、所作を覚えるには良いって紫藤さんに聞いたので。それに長谷川さんに勧められて、英会話とマナー教室にも行き始めたんです。学生以来久しぶりに英語をやって、すっかり単語レベルから忘れてて、自分でも怖いなあって思いましたけど。あ。色々習わせてもらってありがとうございます」
あれこれの習い事の費用は、会計がよくわからないこの家の中で、多分樹のところから支払われているような気がする。慌てて礼を言う彼女の言葉に樹は首を傾げた。
「いや、それはいいが。なんで今更そんなことを?」
彼の言葉に莉乃亜は小さく笑う。貴方の側にいてふさわしい人になりたいのだ、と言ったら彼はどう思うのだろうか。恥ずかしくて言えないけど。
「あ、秘書の仕事ももう少し続けさせてくださいね。給料もらいながら、色々勉強させてもらえてありがたいんです」
立て続けにそこまで言うと、彼は一瞬目を見開き、小さく笑う。
「ああ、俺としてはお前が会社にいてくれた方が俺の仕事の効率も上がるし、ヤル気が起きる。だが……」
ふわりと濡れた指先が莉乃亜の頬を撫でる。どこかで湯が立てる柔らかい水音が聞こえて、莉乃亜は樹の顔をじっと見つめ返した。
「しばらく仕事をして落ち着いたら……」
そう言いかけて珍しく樹は口ごもる。珍しい様子に莉乃亜が彼の顔をじっと見ると、じわりと彼の顔が赤く上気している。
それこそ見慣れない彼の表情に莉乃亜は目を瞬かせた。
「もう、しませんからねっ」
「わかった、と言っているだろう。とりあえず風呂ではちょっかいは掛けない」
「……お風呂以外も、今日はもう無理、ですよっ」
彼女の隣でのんびりと風呂に浸かる人を見て、ぎっと睨み付ける。今入っているのは、先ほど入った檜風呂ではなく、同じく部屋に用意された岩の露天風呂だ。二つも趣の違った風呂が用意されているなんて贅沢な部屋だと莉乃亜は思う。
露天ではあるものの、湯船の上には雨避けの屋根があり、区切られた敷地には、植えられた緑の中に柔らかい黄色の光の灯篭が幾つか並んでいる。だが風呂に浸かる二人の周りは互いの顔がわかる程度の暗さに収まっている。
「…………そういえば」
「今わかりやすく、話を変えたつもりですよねっ」
「……いや?」
「私、樹さんを休ませたくて、この温泉に誘ったのに!」
そう言い返した瞬間、ふわりと樹に肩を抱きしめられた。
「俺としては、莉乃亜を抱けるのが一番リラックスするんだが……」
ちゃぷと、彼の動きに合わせて水音がする。莉乃亜はだって、樹と過ごす甘い時間は嫌じゃないというか、どちらかと言えばすっかり好きになってしまったけれど。
「あ、樹さん、月が見えますよ」
「わかりやすく話をごまかしたな?」
そう言い返しながらも樹も空を見上げる。二人の視線の先にはぽっかりと浮かぶ黄色い月が二人を見下ろしていた。
「月なんて……久しぶりに見たな」
「樹さん、やっぱり忙しすぎるんですよ。私はよく帰り道に空を見上げますよ。ほら空気が澄んでいるから、星も降ってくるみたいですね」
手を伸ばしたら届きそうなくらい空の輝きが近い。思わず莉乃亜が手を伸ばすと、樹も真似をするように両手を挙げて、ぐいと伸びをした。
「ふぁあああ。まあ、やっぱりたまにはこういう時間も大事か」
珍しく気の抜けた顔をして、莉乃亜の額にキスを落して樹が笑う。小さな声で、ありがとう、と言われて莉乃亜は思わず笑みを浮かべた。最初はずいぶん強引でわがままで、まあそこは今もあまり変わってないけれど、意外と素直に色んな表情を見せてくれるようになったものだと彼女は思う。あと、必要以上に自分の前で表情を作ったりもしなくなったな、と気づくと自然と表情も和らいでしまった。
「そういや、お前、最近色々習い事を始めたんだってな」
二人で月を見上げていると、ふと樹が尋ねてくる。莉乃亜は彼の言葉に小さく頷いた。ごくごく普通の公務員の家庭で愛されて大事に育ててもらって、必要な教育も受けさせてもらってきているけれど、樹の隣に立つには普通の教育では足りないことを、最近ひしひしと感じているのだ。
「紫藤さんに色々紹介してもらっているんですよ」
生粋のお嬢様の紫藤にそんな話をしたら、今からでも身に着けるべき教養が山ほどある、と言われて、良い稽古先を紹介してもらったうえで、秘書課にいる間もビシビシと教育を受けている。基本厳しい人だけれど、人にも自分にも同じように厳しいから、莉乃亜に課していることは彼女自身は全部出来ていて、そういう意味でも、やっぱり尊敬できる人であるのは間違いないのだ。ということで、今は昔の人が言うような『嫁入り』修行を嫁に入ってから始めている状態だ。
「お茶もお花も書道も楽しいですよ。着付けは自分で着ることはまずないけど、所作を覚えるには良いって紫藤さんに聞いたので。それに長谷川さんに勧められて、英会話とマナー教室にも行き始めたんです。学生以来久しぶりに英語をやって、すっかり単語レベルから忘れてて、自分でも怖いなあって思いましたけど。あ。色々習わせてもらってありがとうございます」
あれこれの習い事の費用は、会計がよくわからないこの家の中で、多分樹のところから支払われているような気がする。慌てて礼を言う彼女の言葉に樹は首を傾げた。
「いや、それはいいが。なんで今更そんなことを?」
彼の言葉に莉乃亜は小さく笑う。貴方の側にいてふさわしい人になりたいのだ、と言ったら彼はどう思うのだろうか。恥ずかしくて言えないけど。
「あ、秘書の仕事ももう少し続けさせてくださいね。給料もらいながら、色々勉強させてもらえてありがたいんです」
立て続けにそこまで言うと、彼は一瞬目を見開き、小さく笑う。
「ああ、俺としてはお前が会社にいてくれた方が俺の仕事の効率も上がるし、ヤル気が起きる。だが……」
ふわりと濡れた指先が莉乃亜の頬を撫でる。どこかで湯が立てる柔らかい水音が聞こえて、莉乃亜は樹の顔をじっと見つめ返した。
「しばらく仕事をして落ち着いたら……」
そう言いかけて珍しく樹は口ごもる。珍しい様子に莉乃亜が彼の顔をじっと見ると、じわりと彼の顔が赤く上気している。
それこそ見慣れない彼の表情に莉乃亜は目を瞬かせた。
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