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第一章 初めまして。私は貴女の許婚です
夢の中で、高岡莉乃亜は鏡の中の自分の顔を見つめていた。
『肌が白いのは七難を隠す、過剰な紫外線は百害あって一利なし』と医者であった祖母に言われて育ってきたので、日焼けしてない肌は白くきめが細かい。けれど目鼻立ちは地味で、決して美人とは言えない。体形も中肉中背で目立たないが、あまり目立ちたいとも思わないのでちょうどいい。
と冷静に自分の顔を分析していると、向こう側からくすくすと嫌な感じの笑い声が聞こえてきた。
『ねえ、高岡さんって、うちの大学のミスコンでスマイル賞取った人でしょ?』
自分のことを話していると気づいて、ぎゅっと心臓が竦むような気がした。
『たいして美人じゃないよね。あれか、スマイル賞って参加賞みたいな感じ?』
『そうなんじゃない。あのとき出場者少なかったみたいだしね』
『ふふ、地味なのに意外と目立ちたがりなのねえ』
意地の悪い言葉にどんどん気持ちが揺らぐ。
『昔から莉乃亜はそうだよ。周りからチヤホヤされたいタイプなんだと思う。まあ悪い子じゃないけどね。ああ、でも顔に似合わず、男は高め狙いだったりするんだよね』
――沙也加、やめて!
それは高校からずっと親友だった沙也加の、自分を陥れる発言だ。
『男を落とすためなら、体を武器にして寝取ったり、友達を裏切ったり、平気でするからね』
違う、違う。それは沙也加の作り話なの。
莉乃亜がとっさに声を上げた瞬間、ハッと目が覚めた。
体を起こして慌てて、本物の鏡を覗き込む。休日を楽しもうと少しだけ飲んだお酒のせいで、昼間からウトウトしていたらしい。
悪夢で目覚めた顔は青白いが、あの頃と比べて少しだけ大人びた気がする。けれど目立たないことをモットーにしているせいか、以前よりもっと地味に見えた。
高岡莉乃亜、二十三歳。共働き公務員の一人娘で、実家には元医師の祖母が同居しているのだが、家族関係は極めて良い。だが今は故郷での友人関係に疲れて、東京で就職し、都心の駅から離れたアパートで独り暮らしをしている。
勤め先は御厨ホールディングスの関連企業である、あんぜん生命保険。そこのコールセンターで働いている。花形部署というわけではないが、客相手に顔を出さないで済む仕事なので、莉乃亜は気に入っている。
休日の楽しみは、思いっきりだらけた恰好をして、ビールを片手にDVDを見ることだ。故郷から出てきて数ヶ月。最初は家族と離れての生活が寂しくて仕方なかったけれど、最近は一人暮らしを楽しめるようになってきた。
こちらにはまだ友人はいない。せいぜい顔見知り程度だ。大学時代の友人は、ある事件をきっかけにほとんど縁が切れてしまった。わざわざ都内で働くことを決めたのはそれが理由だが、結果としてはこちらに出てきて、嫌なことを思い出すことは大分減った気がする。
(日にち薬っていうし……もうちょっと経てばもっと楽になれるよね)
過去の記憶のせいで、いやな感じにざわつく胸の鼓動を抑え込もうとしたとき、ピンポンと、チャイムが鳴った。莉乃亜は慌てて気持ちを切り替え、お気に入りのソファーから立ち上がった。宅配便だと疑うことなく、サンダルをつっかけて、アパートのドアを開ける。
「――初めまして。貴女が高岡莉乃亜さんですか?」
「……え?」
そう声を掛けられて、莉乃亜は目の前に立つ男を見上げた。
サラサラとした、整えられた髪。細身の眼鏡の奥の涼やかな目元。穏やかで知的な微笑み。高く通った鼻。薄くて綺麗に口角を上げた唇。
長身でしなやかなスタイルを高級そうなスーツで包み、曇り一つない靴を履く姿は、一分の隙もない。どうやら宅配業者ではないことだけは確実らしい。
「あの、どなた……ですか?」
「私は……」
彼は真っ赤なバラの花束を差し出して、唇を笑みの形にキープしたまま目を細め微笑む。
「私は貴女の許婚です。そして今日から私たちは一緒に生活しなければなりません」
「え? いいな……ずけ?」
彼の話がまったく理解出来ず、莉乃亜は返す言葉に詰まる。
「あ、あの……私、貴方とどこかでお会いしたことありましたっけ?」
人間びっくりすると、わけの分からないことを口走るものだと思う。でもこの顔、どこかで見たことがある気がするのだ。
「ええ……多分。どうやら貴女は我が社の社員のようですから」
「……え?」
改めて確認するように、その人を見つめると、彼は一瞬眉を顰めた。
「とにかくこんなところで、長話をする気はありません」
それだけ言うと、目の前の男は莉乃亜の手首をしっかりと掴む。そして、つっかけにパジャマより少しだけマシという不格好な部屋着を着た彼女を、玄関の外に引っ張りだした。持っていたバラの花束を押し付けると、落とさないようにとっさに花束を抱えた莉乃亜を連れて、そのまま歩き出そうとする。
「あ、あの、ちょっと待って? 家を出るなら、部屋の鍵、かけないと……」
一人暮らしをする前に、『戸締り火の始末だけはしっかりとね』と実家の親に言われたのだ。混乱のまま足を止めた彼女を見て、男は苛立たしげに眼鏡を外してスーツの胸ポケットにしまう。
莉乃亜が住む小さなアパートを振り向くようにして一瞬視線を送り、長々と嘆息した。
「――盗まれて困る物が、ある部屋には思えませんが?」
「え? あ、あの……」
「……問題はありませんね。では行きましょう」
柔和そうに見えた男は冷淡に言い切ると、言葉とは相反する強引な様子で、莉乃亜を連れ出す。そして、外で待たせていたらしいリムジンの後部座席に、ポイッと彼女をほうりこんだのだった。
「あの、一体何なんですか?」
呆然としている莉乃亜の前で、男は眼鏡を再び掛け直す。そして、じっくりと頭のてっぺんから足の先まで莉乃亜の様子を見下ろして、大きくため息をついた。
リムジンなんて乗ったことのない莉乃亜は、車の中とは思えないような、快適で優雅な空間に一瞬目を奪われた。だがそれ以上に、自分を攫うようにして車に乗せた男の正体が気になっている。
(許婚とか言ってたけれど、もしかして新手の誘拐犯とか……さもなければ、ストーカーとか? でも、こんな立派な車に乗っている人が、うちみたいなド庶民をお金目的で誘拐とかしないだろうし、私に特別な何かがあるわけでもないし……)
色々考えても理由は分からない。やっぱり事情を聞いてみるしかなさそうだ。
「……あの。許婚って、婚約者ってことですよね。そもそも私、貴方のお名前すら知らないんですけど」
莉乃亜が尋ねると、目の前の男性は口角を上げて笑って見せた。だが、その目はちっとも笑っていない。
「それは失礼しました。私は御厨樹。貴女が勤めている会社の、代表取締役社長をしておりまして――貴女の許婚、ということになるようです」
「――社長おおおおおお?」
少々酔っぱらっているせいかもしれない。普段より大きな声を上げてしまった。すると目の前の男性は優雅な仕草で、うるさい、と言う代わりに自分の耳を塞ぐ。整った顔をしているから、どこかのタレントかと思ったけれど、言われてみれば目の前の人は、御厨ホールディングスの御曹司で、莉乃亜が勤めている傘下の生命保険会社の社長と同じ顔をしている。
「ご、ごめんなさい。社内で社長をお見かけしたことは何度もあるんですけど、いつも、このくらいの大きさでしか見たことなくて。……目の前にいると、意外と本人だって分からないものなんですね……」
親指と人差し指を広げてスケールを示しながら必死に謝る莉乃亜を見て、樹は憮然とした表情のまま頷く。
「それで、私が貴女の許婚だということは理解してもらえたのでしょうか?」
「それは……まったく意味が分かりません。私に許婚がいるなんて、親から一切聞いてないですし、そもそも、そんな立派な家でもないですし……」
言い返す莉乃亜をじっくりと見つめた後、男は眼鏡を外し深く息を吐き出した。
「まあ、それはいい。だが事情を説明するにしても……こんな恰好をしている女と真面目に話す気分になれない」
突然粗雑な言葉遣いに変わり、莉乃亜は目を見開く。さっきから散々失礼なことを言っていたけれど、それでも丁寧な口調だったのに。そう思った瞬間、言われた内容にハッとして、自分の姿を見下ろした。
着慣れているお気に入りの部屋着。ただし、見た目は相当にだらしなく伸びきっている。その上、前髪が邪魔で適当にゴムで結んだ髪形。化粧は当然してないし、足元はサンダルだ。
「あの……だって、家でのんびりしているときに、急に連れてこられて……」
慌てて自分を抱きかかえるようにして、莉乃亜は自分の身を小さくする。贅沢な車内で、見た目も服装も整った男と二人きりだ。緊張もするし警戒もする。それにこの人だったら、家にいるときにもこんな恰好はしないだろうが、それに比べて今の自分は……。自信の持てない恰好に声が徐々に小さくなる。そんな様子を見て小さく吐息をつくと、樹はスマートフォンを手に取り、どこかに電話を掛けた。
「ああ、私です。今からすぐ服を一式届けてください。寸法は、社員データから『高岡莉乃亜』の健康診断の結果を参考にしてください。では三十分ほどで私の自宅まで届けてもらえますか? ……それではよろしくお願いします」
丁寧で柔らかい口調で会話すると、樹は電話を切る。この人は相手によって言葉遣いを使い分けているのだろうか。彼はちらりと莉乃亜を見て言う。
「じき服が届くからそれに着替えてくれ。そのあと詳しい説明をする」
それだけ言うと、背もたれに体を預け、莉乃亜の存在を完全に無視するように目を閉じた。
(何なの一体。連絡もなくやってきて、無理やり家でのんびりしている私を着のみ着のまま連れ出しておいて、ちゃんとした服に着替えないと、真っ当に話すらしないって……)
莉乃亜だって外に出るときにはそれなりに恰好は気遣う。向こうの都合で連れ出したのに、こんな対応をされるなんて不条理だ。男に対して怒りがこみ上げてくる。
(許婚だか何だか知らないけど、絶対この人だけは許せない。見た目がちょっとぐらいイケメンでもお金持ちでも、結婚なんて絶対しないんだから!)
目をつぶったままの目の前の男をギリギリと睨み付けながら、莉乃亜はそう心に誓う。不安を怒りに変換し、音の静かな車内で過ごすこと十分ほどで、リムジンはエンジンを止めた。
「今日から貴女には、こちらで生活してもらう」
そう言い、樹は眼鏡を胸ポケットから出して掛ける。
そして莉乃亜がついてくると疑うこともなく、彼は一人で車を降りていく。慌てて莉乃亜が車を降りると、目の前には大きな綺麗な建物があった。
ガラス張りの扉を抜けていく樹を、仕方なく莉乃亜は追っていった。すると樹を出迎えるかのように、執事風の服を着た男がやってきて頭を下げる。男と共に建物の中に入ると、そこは広いエントランスになっていた。大理石の床に、ホール奥に点在する洒落たソファー。ホテルのエントランス風だけれど、少し雰囲気が違う。
思わずきょろきょろと辺りを見渡している莉乃亜を見て、樹は微かに顔をしかめた。
「あの、ここは?」
「私の住むマンションです。――ああ、彼女も今日からここに住むことになります。顔を覚えてください」
樹は、穏やかな口調で莉乃亜を執事風の男性に紹介する。やっぱり相手によって口調を使い分けているのだろう、と莉乃亜はちょっと嫌な気分になる。
「さようでございますか。私はこちらのマンションのコンシェルジュ、速水と申します。お困りの際は、お声掛けくださいませ」
丁寧に頭を下げられて、莉乃亜も慌てて頭を下げた。
「わ、私は高岡莉乃亜と申します。あ、あのよろしくお願いします」
「高岡様ですね。かしこまりました」
優雅に会釈する紳士風の男性に見惚れていると、樹は速水が呼んでいた大きなエレベーターに乗る。
慌てて追いかけた莉乃亜は、エレベーター内の大きな鏡に映る、自分たちの姿を見て絶句した。
樹が堂々としているのは当然としても、その隣にいる自分があまりにもみすぼらしく見えて、羞恥心にかぁっと熱がこみ上げた。変な風に縛っていた前髪のゴムを外し、手で髪を梳く。着心地が良くて気に入っていた部屋着は、ここではありえないほどみっともない恰好に思えた。
キラキラと明るい光を放つエレベーターの中で、莉乃亜は居心地の悪さに体を小さくして息を詰める。早く、どこか人目につかないところまで移動出来ることをひたすら祈っていた。
実際には長くても数十秒だろう。けれど莉乃亜の体感としてはようやくたどり着いたエレベーターは、高層階で止まったようだ。ドアが開くと、樹は慣れた様子で広い廊下を歩いていく。一番奥まで行くと、一軒家かと思うような立派なポーチを通り、樹は部屋の扉を開ける。お手伝いさんでもいるのだろうか、と莉乃亜が身構えていると、そんなこともなく。
「ここには誰もいません。入ってください」
冷たく声を掛けられて、莉乃亜は慌てて玄関に足を踏み入れた。
「適当にここで待っていてください。私も着替えてきます」
樹はそう言うと、広いリビングルームらしき部屋に莉乃亜を置き去りにした。
莉乃亜はひとまず部屋の中央まで歩いていく。高い天井からは見事なシャンデリアが吊るされている。とりあえず室内に大きな鏡がなかったのだけは、本当に救いだったかもしれない。このきらびやかな空間で今の自分の姿は見たくない。
ソファーの周辺に敷かれた絨毯は、一足ごとに体が沈むようなたっぷりとした毛足の物だった。莉乃亜は呆然としたまま、どこかの雑誌で見かけたような、洒落たデザインのソファーに腰を下ろす。
「う……っ」
一度座ると、そのまま立ち上がれなくなりそうなほど、ずぶずぶと体が沈み込んでいく。それでいて体を柔らかく包み込む感覚が心地いい。
(お金持ちってよく分からないけど……すごい)
家具一つ一つが繊細に作られており、まさに芸術品という感じだ。莉乃亜は緊張したまま、膝の上に手を置いて座り、目だけをせわしなく動かして辺りを見渡す。
(っていうか圧倒的に住んでる世界が違うよね。それがなんで許婚? もしかして誰かと勘違いしているんじゃないかな。ほら、同姓同名とかで……。だったら、そのうち誤解も解けるよね)
そう考えると、なんだか少し肩の荷が下りた。その途端、普段、莉乃亜が見ることのない贅沢暮らしに純粋な興味が湧いてくる。
(お金ってあるところにはあるんだなあ……)
なんて思いながら、ソファーから立ち上がると、今度は一つ一つの家具や飾りをじっくり見て回ったり、素敵インテリアを目で楽んでいると――
「何をしているんですか?」
叱責するような厳しい声が聞こえて、莉乃亜はハッと振り向く。
そこには先ほどまでのスーツから、少し気軽なスラックスと襟付きのシャツに着替えた樹が立っていた。眼鏡を掛けたイケメンは、私服でもオシャレでカッコいい。
驚いた莉乃亜は触れていた硝子の置物を引っかけてしまった。そのまま落下し、ふわふわした毛足の長いじゅうたんに吸い込まれていく。
「あっ……」
慌てて、その置物を拾おうと膝をついた瞬間。
『紫藤でございます。社長失礼します』
インターフォンの音が鳴り、そのまま声がオープンで届いてくる。次いでカチャリという電子キーの開く音がした。
「ああ紫藤さん。休日出勤中に手間取らせましたね。さっそくで申し訳ないけれど、彼女に持ってきた衣装一式を渡してもらえませんか」
リビングに慣れた様子で入ってきたのは、秘書室でも美人で切れ者と評判の高い、紫藤かほりだった。噂ではどこぞのお嬢様で、社長の結婚相手の最有力者だと言われている。もちろん、ごくごく普通の社員に過ぎない莉乃亜は、その姿を間近で見るのは初めてだ。
「……高岡さんですか。それではこちらをどうぞ。社長の許可がございましたので、健康診断のデータを拝見させていただきまして、合うサイズの物をご用意しました。もし問題があれば、お声掛けください」
紫藤は床に膝をついていた莉乃亜相手に、わざわざ屈みこんで同じ視線の高さにし、服を渡そうとする。
「あ、あの……すみません」
慌てて姿勢を正した莉乃亜の恰好は、残念過ぎる部屋着。スレンダーなメリハリのある体形にきちんとスーツを身に着け、完璧に化粧を施し、髪まで整えられた天然モノの美人秘書とは、月とスッポンだ。莉乃亜は出来ることならこの場から全力で逃げ出したくなった。
「ああ、紫藤さんにも紹介しておこう。高岡さんは私の許婚です。半年後に挙式の予定となっています。秘書室の仕事と直接関わることはないでしょうが、彼女の顔は認識しておいてください」
樹は紫藤に向かってさらっと『許婚』などという言葉を口に出す。秘書室と言えば、御曹司である『御厨社長』を狙っている女子社員の宝庫だと言われていて、その中でも紫藤は第一候補と噂されているのに……
「私もさっき知らされて、それで今連れてこられて……」
しどろもどろに説明する中、許婚だという樹の言葉を否定し忘れていたことに気づいて、莉乃亜は慌てて手を振る。
「た、多分、何かの間違いだと思います。あ、同姓同名の別の方と勘違いしているとかなんじゃないかな、って」
必死な莉乃亜の様子に、紫藤はにっこりと微笑んで、聞こえないくらい小さな声で囁く。
「さようでしたか。そうでしょうね。――高岡さんでは御厨社長とは不釣り合いですから……」
その言葉に莉乃亜は目を見開く。
「それでは失礼しました。私は職務に戻らせていただきます」
紫藤は立ち上がり、優雅に一礼して部屋を出て行った。
その後、莉乃亜は前立ての小さなボタンがたくさんついた、お嬢様っぽいワンピースに着替えて、先ほどのリビングで樹と向かい合う。ようやくこの部屋に相応しい恰好になって、莉乃亜は少し落ち着くことが出来た。樹は眼鏡を外し、それを弄びながら彼女を眺める。
「ようやくマシな恰好になったな」
裸眼の樹の目つきは少し鋭い。そして紫藤がいなくなったからか、丁寧な言葉遣いはやめたらしい。態度を変えた樹はソファーに体を預け、肩を竦める。
「あんな恰好をされていると、どこに目を向けていいのかすら悩むからな」
つけつけとひどいことを言われて気分を害した莉乃亜は、思わず樹を睨んでしまった。
「そもそも人の家に連絡もなしにやってきて、私の意思も確認せず、ここまで着のみ着のまま連れてきたのは御厨社長じゃないですか」
先ほど紫藤に嫌なことを言われたことを思い出し、声を尖らせて樹に文句を言う。
「……確かにアポイントなしに直接家に行き、そのまま連れてきたのは、あまり褒められたことではなかったな」
謝っているような言い方だけれど実は謝ってない。そんな彼の態度に莉乃亜がさらに気分を害していると、樹は外した眼鏡の弦を唇に押し当てて何かを考えるような仕草をした。
「まあどちらにせよ、お前は俺の妻になるオンナだ。どう扱っても俺の自由だろう?」
(――ちょっと待って?)
彼の言い放った言葉に、莉乃亜は目を見開く。
「……他にも色々聞きたいことはあるんですけど。まず最初に、なんで『妻になる女は、どう扱っても別に構わない』んですか?」
思いっきり拒否の感情を込めて莉乃亜が言い返すと、樹も不機嫌そうな顔で反論した。
「俺がなんで『たかが結婚相手』に、折れなければいけないんだ?」
ソファーの向かいに座った樹は、眼鏡をカウンターに置きながら言い捨てた。莉乃亜は彼の言葉に一瞬、絶句する。
「……結婚ってそういうことじゃないと思うんですけど」
「結婚が愛情で結びつく関係だとか、そういうつまらないことを言うんじゃないだろうな?」
「私にとってはそうです」
「俺にとっては、『そう』じゃない。だが、お互いの意見は違っていても、現時点ではお前は俺の許婚、ということになっているらしい」
莉乃亜の顎を綺麗な長い指が捕らえる。冷酷な瞳に覗き込まれて、莉乃亜はふるりと体を震わせた。
「……私が貴方の許婚、なんていうのは、そもそも本当なんですか?」
間近にある整った顔立ちにドギマギしてしまう自分に苛立ちを覚えながら尋ねる。やっぱりこんなことに急に巻き込まれたことは納得出来ない。
「ああ、そこに関しては……間違いはない」
「そもそも、誰がどういう経緯で決めた結婚なんですか?」
莉乃亜がそう言うと、一瞬樹は困ったような顔をする。
「――?」
瞬きをした瞬間、間近にあった樹の顔が、さらに近づいた。
「あの?」
「決めたのは貴女の祖母と、私の祖父だ」
「え。私の祖母が決めた話なんですか?」
祖母は同居している孫である自分をすごく可愛がってくれていた。自分にとって悪い話を持ってくわけがない。今まで反発しか感じなかった目の前の男が、その祖母が選んだ相手だと思うと、ほんの少しだけ警戒感が薄れる。
「貴女の祖母と私の祖父は幼馴染だそうだ……」
そう答えると、樹は莉乃亜の顎を引き寄せた。
「――っ!」
次の瞬間ひどく冷たい唇が、莉乃亜の唇へと重なっていた。莉乃亜は何が起こったのか、まったく理解出来ずにいた。
あまり恋愛経験のない莉乃亜だが、それでも一応、学生時代に男性とお付き合いして、キスぐらいはしたことがあった。けれど、こんなムードも何もなく、口づけされたことはない。
さらに、今まで座っていたソファーに体を押し付けられて、間近に迫る男性の顔に一気に恐怖がこみ上げてくる。思わずトンとその胸をついて、少しだけ距離を確保した。
「ちょっとなんでいきなり――」
「……私は亡くなった祖父を尊敬している。だからこそ、その遺志を受け入れたいと思ったんだ」
その表情は真剣で、おばあちゃん子である莉乃亜の気持ちにすっと溶け込んできた。彼女の抵抗の手が緩んだことをいいことに、樹は莉乃亜を柔らかくソファーに押し付けたまま、言葉を続けた。
「だから……こういう出会いがあっても悪くない、と私は思っている」
祖父のことを思い浮かべたのだろうか。ふわりと邪気のない笑みを見せられると、綺麗な顔をしている人だなと、ぼうっと見惚れてしまう。そんな莉乃亜の唇を樹は再び奪った。
「ちょっ……」
先ほどよりは少し強引さが収まって優しいキスになったせいで、莉乃亜の危機感がわずかに減る。思ったより反発感が少ないのは、目の前の男性が自分の許婚と名乗っているからかもしれない。
お酒が抜けて冷静になれば、おかしいと判断出来ることでも、ほろ酔い気分では上手なリードとキスに翻弄されて、理性が弱まってしまう。
「……触り心地の良さそうな肌だな……」
ゆるりと莉乃亜の頤から首筋に指先が滑る。
「ダ、ダメです。触っちゃっ……」
慌てて大きな手から逃れようとするけれど、しっかりと押さえ込まれていて、ソファーから身を起こすことが出来ない。
「ひぁっ……」
首筋の辺りに温かいものを感じて、思わずピクンと身を震わせてしまう。
「しかも相当感じやすい……。これならベッドの中でも良い妻になれそうだ」
くすっと笑う呼気がキスで濡れた首筋に掛かり、ゾクッと背筋に不思議な感覚が走る。さりげなくエロいことを言われた気がしたけれども――
「って、ダメですっ」
ふわりと胸の辺りに重みを感じた、と思った瞬間、それが包み込むようにやわやわと動く。文句を言おうとした唇が、次の瞬間には再び覆われていた。
「んっ……ぁっ」
先ほどは優しく触れるだけのキスだったのに、今度は何度か啄むと、呼吸の合間に薄く開いた唇を割って舌が入り込む。
「んっ……んんんっ」
抵抗する間もなく、莉乃亜は舌を絡めた深いキスをされていた。胸元から手が離れたと思って安心していたが、いつの間にかボタンを外されていたらしい。大きな手がするりと胸元に差し入れられて、直接肌を撫でられていた。微かに冷たいその指は何故か心地よくて、甘い怯えのような感覚がぞわぞわと背筋を這い上っていく。
「ダ、ダメです。そんなっ……」
文句を言おうとする莉乃亜の唇の端を、彼のもう一方の手が撫でる。
「……うるさい唇は、塞ぐに限る」
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