うちの会社の御曹司が、私の許婚だったみたいです

sakuru

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1巻

1-3

 元々端整な容姿の彼が真剣な表情をして立っている姿に、莉乃亜は思わず見惚れてしまっていた。

(働いている男性ってそれだけでもカッコよく見えるよね。元々見た目がいいから、よけいに……)

 ふと、さっきあの唇に触れてキスされたことを思い出し、なんだか現実感がなかった『許婚いいなずけ』という言葉が、莉乃亜の胸の中に落ちてきた気がした。トクン、とどこか甘い胸の鼓動を感じて、莉乃亜は改めて目の前に立つ男性を見つめた。

(私の、未来の旦那様? ――あの人が、そうなんだろうか? 確かに見た目だけなら、白馬の王子様、と言っても別に違和感はないかもしれない。でもちょっと待って。その後の行動を考えたら……)

 眼鏡を外して荒っぽく迫ってきた様子を思い出すと、やっぱり王子様と言うにはちょっとイメージが違うかもしれない……と思う。二重人格っぽいし、正直ひっかき回され過ぎて、御厨樹という人が、どういう人なのかまったく見えてこない。
 でも傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞うくせに、たまに浮かべるどこか寂しげな瞳が、莉乃亜は気になって仕方ない。なんであんな目で人を見つめるのか、と思ってしまうのだ。

(今日から、半年一緒に暮らすって言ってた……)

 その間に、この人が運命の人だと、そう確信する瞬間がやってくるのだろうか? と莉乃亜は不思議な気持ちになる。そんな莉乃亜の視線の先で樹は手帳を閉じると、電話を切った。

「そんなところで何を突っ立ってるんだ? 部屋に入ってきたらいいだろう」

 入り口で立ち止まっている彼女に気づいた樹は莉乃亜を部屋に招いた。

「あの、お仕事の話をしているようだったので、邪魔したらいけないなって……」

 莉乃亜の言葉に、樹は小さく笑う。

「大した話はしていないが……服は一応確認したのか?」

 莉乃亜はその服を用意させたのが、目の前の男だということに思い至り、慌てて頭を下げた。

「あの、ありがとうございます」
「……何がだ?」

 樹は眼鏡の奥の目を怪訝けげんそうに細めた。

「いえ、だって……私のために服とか色々と用意してくださって……」
「当然だろう。何も持たせずに、ここに連れてきたんだからな。ところで調理器具と食材も適当に用意させたが……本当にこれから家で夕食を作るのか?」

 何故か楽しそうに尋ねられて莉乃亜は目をまたたかせた。そういえば調理器具も用意すると彼は言っていなかっただろうか?

「ちょ、ちょっと見てきます」

 慌ててキッチンに向かうと、そこは独立した空間になっていた。

「うわ~、無駄にアイランドキッチンだ……」

 海外ドラマで見るような広いキッチンにダイニングスペースまで併設されている。そのキッチンは彼が言った通り、誰かが使った痕跡がまるでない。

「あ、これ、この間テレビで見た最新の炊飯器……」

 テレビで紹介されていた最上位機種の炊飯器から始まって、真新しいフライパンに鍋、キッチンツールなどがきちんと整理されて収められている。脇には何だか新妻っぽいフリフリしたエプロンまで用意されていて、つい笑ってしまった。さっそくそれを手に取って、真新しいワンピースが汚れないように身に着ける。そして冷蔵庫を開けると、中には食材がパンパンに詰まっていた。

「すごい、色々用意されてるなあ」

 生鮮食品の他に、お取り寄せで人気の昆布や漬物まで用意されていて、テンションが上がる。いっそお茶漬けでもすごく美味おいしいんじゃないかというレベルだ。

(……とりあえず、まずはご飯を炊こう……)

 桐の箱に仕舞われている高級そうな白米を、添えつけてあった計量カップで計り洗米する。作業していると、突然入り口から声が聞こえた。

「……結構、それなりにさまになるもんだな」

 興味深げに、樹はその様子を眺めている。

「あの。出来上がったら声掛けますから、リビングに戻っていてください」

 慣れてないキッチンで右往左往する姿はあんまり見られたくない。落ち着かなくて、莉乃亜は後ろを振り向かずにそう言った。だが彼は動く気はないらしい。

「あ、食事はそんなに大したものは用意出来ないですけど、良い食材がいっぱいあるので。味付けは庶民ですが一緒に食べましょう」

 樹のどこか物珍しそうな視線を感じ、少し気恥ずかしい気持ちになりながら、莉乃亜は料理を続ける。いでおいた米を炊飯器にセットし、早炊きモードのボタンを押す。

「今から炊くのか?」

 樹がちらりと視線を送る先には、有名店の食パンが置かれている。

「そっちは明日の朝にでも。やっぱり夜はご飯を食べないと、なんか調子が崩れちゃう気がしません?」
「いや、そんなこと気にしたこともない」

 どうやら食生活の基本すら全然違うらしい。結婚以前に、一緒に住むことだけでも問題は山積みな気がする。とはいえ、少なくとも樹は気前がいいことだけは間違いない。夫にするならケチはダメだと言う実家の母親の言葉を思い出して、莉乃亜はこっそりと笑う。そのまま手早く出汁だしを引き、具材を出した。

「あの、樹さんは苦手な食べ物とかないんですか?」
「ああ、祖父がうるさかったからな。アレルギー以外の好き嫌いは許さないということらしい」

 莉乃亜は思わず笑ってしまった。

(この人はお祖父ちゃん子だったのかな、だからこんなよく分からない婚約話まで遺言代わりに受けちゃったのかも?)
「何がおかしい?」

 憮然ぶぜんとした表情をする樹を見て、莉乃亜はほんの少し微笑ましく思う。

「いえ、私も祖母が好き嫌いにはうるさくて、一緒だなあって」

 莉乃亜はふふっと笑みをこぼしながら、野菜を切り始めた。
 するとゆっくりと彼女の背後に立った樹が、するりと莉乃亜の腰に手を回す。

「――っ」

 びっくりして思わず体がぴくんと跳ね上がってしまった。

「なるほどな。キッチンに立つ女は、妙に色っぽくていいな。新妻って感じのフリフリのエプロン姿も……」

 耳元でつやっぽくささやかれて、莉乃亜のうなじが一気に熱くなってしまう。

「――ひゃっ……」

 腰に手を回し、無防備な首筋に唇を押し当てられ、思わず莉乃亜は妙な声を上げてしまった。

「色気のない声を上げるな」
「あっ……あのっ」
「なんだ?」

 焦りまくる莉乃亜に対して、樹は落ち着き払っている。

「ほ、包丁持ってますから、危ないので、離れてくださいっ」

 とっさに包丁を持ったまま振り向こうとすると、樹は目を丸くして、ゆっくり腰に回していた手を離した。

「襲ったりしないから、刺すなよ?」

 からかうみたいに言われ、莉乃亜が返答に困っていると、樹は笑って莉乃亜から距離を取る。

「まあ、料理をしている女に手を出すときは、それなりの覚悟をしろということだな。勉強になった……」

 くくっと何故か楽しげに笑われて、莉乃亜は熱が上がりそうになるのを、普段通りの料理を作ることで落ち着かせた。
 この人はどんな人なんだろう。正直疑問だらけだ。でも縁があってこうしているのなら、お互いのことを知りたい。だったら食事を一緒にする、というのは良いアイディアだと自分でも思う。

「はい、そろそろご飯にするので、座っていただけますか?」

 先ほどの包丁が怖かったのか、少し離れて料理を作る莉乃亜を見つめていた樹は素直にダイニングテーブルに移動する。簡単な夕食だけれども、それなりに美味おいしそうに出来て、莉乃亜はこっそりと笑みを浮かべた。

「いただきます」
「いただきます」

 自然と食事の前に声が重なる。お箸を両手で挟んで、手を合わせて軽く頭を下げる樹の様子に、きちんと食べ物と食事を作った人への敬意を持てる人なんだと好感を抱く。

「……どうした?」

 じっと見ていたことに気づいたらしい。怪訝けげんそうに尋ねられて、莉乃亜はにっこりと笑顔を向けた。

「いえ、食事前にきちんと挨拶あいさつ出来る方で嬉しいなって」
「祖父がそういうことにうるさかったからな」

 まただ。よっぽど彼はお祖父ちゃん子なのだろうか、と莉乃亜はさらに親近感を強める。

「……どうですか?」

 出した料理に一通り箸をつけた頃、莉乃亜は樹に尋ねてみた。

「……普通にうまい」

 子供のように妙につたない言い方で、ぽつりと漏れた言葉に、莉乃亜は首を傾げた。

「普通に美味おいしいって……どういう意味ですか」
「これよりうまい食事はいくらでもあるが、毎日食べるにはちょうどいいくらいかもしれない」
(それって毎日食べても飽きない食事だって言ってくれているのかな?)

 ある意味最大の褒め言葉じゃなかろうかと、莉乃亜はなんだか嬉しくなってしまう。

「じゃあ、材料費を出してくれるなら、これから私、二人分作りますね」

 こんな高級食材を用意してもらったら、料理を作る手間くらいで対価になるかどうかは分からないけれど、一緒に住むにはいくつかルールを作るべきだろう。そう思い尋ねると、彼は目を見開いた。

「俺の食事も作ってくれるのか?」
「はい、こちらに住まないといけないのなら、今まで通り自炊出来たら嬉しいですし、一人分も二人分も一緒ですから。それにあの、結婚するかどうかのトライアルなら、一緒に食事を取る、なんてことでも相性が分かると思うんです」

 莉乃亜の言葉に樹はふっと視線を逸らす。やがて小さく吐息をついて、あきれれたような声を上げる。

「まったく変わっているな……」
「……ダメですか?」
「俺は食事が不要なときも多いぞ」
「そういうときは連絡ください」
「……分かった。後で連絡先を教えてくれ」

 何故か不機嫌そうに眉根を寄せながらも、真っ当な返事をした彼に、今度は莉乃亜が目を見開く。
 そうしてたわいもない話をしながら、食事は進んだ。
 食後はビルトインの立派な食洗機に手早く食器をセットして、リビングに向かった樹の後を追う。
 彼はカウンターとスツールの奥にある棚の前に立っていた。

「それ、なんですか?」

 莉乃亜の問いに、樹がボタンを一つ押すと棚が開いた。中には様々な酒瓶が並んでいるのが見えることから、どうやら備え付けられているバーカウンターらしい。

「……食事の礼だ。何か飲むか? 飲めるようなら何か出してやる」
「あまり強くはないですけど、少しぐらいなら飲めます」

 莉乃亜が目を丸くしながらもそう答えると、樹はカクテルのようなものを作り始めた。

「味は保証しないが、アルコール度数は低くしてある」

 むす、と不愛想に彼が言う。そのまま二人でスツールに座ると、自然と二つのグラスが重なり合う。

「……この奇妙な縁に」

 少し神妙な顔でそんな台詞せりふを言う樹のことがおかしくて、莉乃亜は小さく笑ってしまった。

(今回の件は、この人も戸惑っていたのかもしれない。口は悪いけれど、基本的には親切だし、そんなに悪い人じゃないのかも? ああでも、なんか味見されたっけ……。見た目が良い人だから女の人に拒否されることなんてないのかもしれないけど、自分はそういうタイプじゃないし……)

 思いながら、莉乃亜はカクテルに口を付けた。

「あ、美味おいしい」

 一気に飲み干す。甘くてお酒っぽい感じがしない。それに、緊張していた体にアルコールがしみわたって心地よい。

「意外と飲める方なんだな。だったらもう一杯飲むか?」

 その言葉に素直に頷くと、莉乃亜は新しく作ってもらったお酒を口にした。予想外の一日が過ぎていったことに、なんだかおかしくなってくる。少なくともアパートの部屋で、DVDを待っていたときには想像もしてなかった休日だった。

「ホントなんだか夢みたいな一日だったな」

 目の前の男性の整った顔を見て、やっぱり王子様みたいなどと気楽なことを思い、莉乃亜はくすくす笑ったのだった。


   ***


 樹は機嫌良く酒を口にする莉乃亜を見ながら、今回の騒動の発端を思い出していた。
 樹がこのバカげた許婚いいなずけ騒動に巻き込まれたのは、つい数日前のことだった。
 御厨ホールディングスの総帥そうすいであった樹の祖父が二ヶ月ほど前、突然の心筋梗塞で亡くなったのだ。直後から、裏側ではその莫大な遺産相続についての話し合いが行われていた。祖父・宗一郎には子供が四人。その長男が樹の父親だ。当然、今後の運営に関しては、樹の父親がその中核をになうと考えられていたのだ。
 とはいえ、公明正大な祖父の人柄を考えると、均等に遺産が相続されると父ときょうだいたちも予想していた。遺言書が残されていれば、その分与に関して大きな問題が生じないであろうと、そう一族は考えていた。
 顧問弁護士からは宗一郎の遺言は法的に有効な形で既に作成されており、その内容については宗一郎の四十九日の法要にて一族に開示される、と発表されていた。
 だがその遺言公開の当日――一族が想定していなかった展開が用意されていたのだ。


「……そもそも、その高岡莉乃亜、というのは誰ですの?」

 淡々と尋ねるのは、樹の母の美咲みさきだ。

「……以前、宗一郎氏の命を救った高岡春乃という医師の孫、のようですね」

 弁護士は眼鏡を掛け直しながら、遺言書をじっと見直し、一言一句間違いのないように答える。

「遺言書によれば、口約束ながら宗一郎氏の孫である樹氏と、高岡莉乃亜さんとの間には婚約関係が結ばれています。双方がそれに合意し、婚姻関係を結ぶのであれば、御厨ホールディングスの株式を二十六%ずつ、樹氏と莉乃亜さんに相続させる、とそのような内容になっております。もちろんこれは御厨宗一郎氏の、全遺産の遺留分には抵触しない部分の相続ですので、故人の遺志が最優先されます」

 弁護士の言葉と予想外の展開に、樹は言葉を失っていた。
 つまり、そのよくわけの分からない『高岡莉乃亜』という女性と結婚すれば、御厨ホールディングスの株を夫婦で五十二%保持出来る。
 夫婦で過半数、つまり五十一%以上の株式を所持すれば、実質的な経営権を樹がになうということになる。

「……樹が、その女性と結婚しなければどうなるんだ?」

 ざわつく室内で声を上げたのは、樹の父親の孝臣たかおみだ。夫婦仲の悪い美咲と孝臣は、同じ室内に居ながら、端と端に立っている。

「その場合、五十二%の株式は、遺留分に従って通常の形で分配されることになります」

 顧問弁護士は淡々とそう答えた。
 つまり樹がその女と結婚しなければ、株は樹の父親と叔父伯母たちに均等に分けられるということになる。もちろん表面上は上手くやっているように見える孝臣ときょうだいたちであるが、それほど綺麗で信頼出来るものではないことを、樹も十分理解している。経営者にとって稀有なカリスマ性のあった祖父が亡くなった時点でその求心力は失われている。他のきょうだいの下につくことを嫌って、株を手離す人間が出て来てもおかしくない。つまり今後の経営のことを考えれば、この株は他の信用出来ない親族には譲れない。ならば自分自身の手元に置いておきたいと樹は思う。

「……樹、どうするんだ?」

 孝臣の言葉に、一族が一斉に樹に視線を送る。樹は、すっと息を吸って腹に力を込めた。

「まずはその、高岡莉乃亜さんにお会いしてみましょう。結婚は……互いの相性もありますし、どうなるか分かりません。ただ敬愛する祖父が私のために選んでくださった方です。きっと素晴らしい人に違いないと私は信じています」

 その女を自分の妻として確保することが最優先だ。そう判断した樹は、親族たちの前で最上級の笑みを浮かべて見せた。


 樹は莉乃亜の空になったグラスを手に取り、新しく口当たりの軽い酒を注いで差し出す。ただし、アルコール度数は高い。
 さっき襲われかけた男相手に深酒をするとは、ずいぶんと警戒心の薄いことだ――と樹は薄く唇の端に笑みを浮かべる。人にだまされたことがないのだろう。
 このお人好しな地味女から結婚の了承を得なければ、樹は祖父の残したものを手に入れることが出来ない。
 ――酔いつぶしてでもこの女だけは絶対に手に入れなければいけないのだから。




   第二章 表は王子、裏はドSの御曹司


「う~~ん、よく寝た」

 ふかふかのベッドで莉乃亜は大きく伸びをする。いい香りがして、心地よい。パチリと目を開けると、そこには高くて綺麗な天井が広がっている。

(私、どこかのホテルに泊まってたっけ?)

 しばらくぼーっと考えていると――

「……目が覚めたか?」

 耳元で聞こえた甘くて深い男性の声に、莉乃亜は慌てて横を振り向く。

「……昨夜は随分と激しかったな……」

 それは、昨日初めて会話した、莉乃亜の自称『許婚いいなずけ』の声で――眼鏡のないその男の肩は、上掛けを掛けただけの素肌だった。
 さらに莉乃亜は自分の恰好を見て、悲鳴を上げる。

「きゃあああああっ」
「……うるさくするなら、口をふさぐぞ?」

 その言葉を聞き、莉乃亜は慌てて頭まで布団にもぐりこむ。薄暗い布団の中で、かすかな視界と指先でみずからの恰好を確認する。
 とろんと指先に触れるのは、多分シルクの寝間着……と言うには少々色っぽ過ぎる、レースがたっぷり使われているけ感抜群の素材だ。想定外の状況に、思わず頭を抱えたくなる。

(何? 私、昨日の夜、何をしたの?)

 お酒を勧められて飲んだことまでは覚えている。その後どうしたのか、真剣に昨日の記憶を辿たどろうとしていると、いきなり視界が明るくなった。

「おい、何してる?」

 眼鏡を掛けていない樹は、どこか怒っているような表情で、莉乃亜が隠れていた布団をがしてきた。

(ちょっ……ちょっと待って?)

 樹の姿は……少なくとも見える範囲は裸だ。

「あ、あ……あの、私?」

 不安のあまり眉が下がった状態で尋ねる。
 昨日初めて出会った許婚いいなずけと、お酒に酔った勢いで、あっという間にミダラな関係におちいってしまったのか? そういえば彼は結婚前提であれば、そういう関係になることに抵抗はなさそうだったし、女性に慣れていそうだったし、手はものすごく早かったし、出会って早々キス以上のことをしてしまったのだ。元々ハードルは下がっていたかもしれない。

(……私……何をしたのおおお?)

 自分が自分で信じられない、と思いながら、莉乃亜は涙目で樹を見上げる。結婚するまで手は出さない、と昨日樹は約束してくれた。けれど、お互い結構お酒を飲んでしまったので、その流れでこうなったのなら……。莉乃亜も大人だ。彼だけを責めることは出来ない。それでも。

(結婚するまではそういうこと、しないって決めていたのに……)

 自分のした無責任な行動に、涙が目のふちに盛り上がり、こぼれ落ちそうになった。

「……お、おい?」

 わずかに樹の声が動揺する。

「……だって……ちゃんと結婚するまで大事にするって、おばあちゃんと約束したのにっ。こんな簡単に……。相手が許婚いいなずけだって言ったって……」

 思わずそう涙声を上げた瞬間、樹の唇の端が歪む。
 そして莉乃亜の顔をのぞき込んでいた顔が、いきなり破顔した。

「だがまあ、今更だな……」

 樹は莉乃亜をベッドに押し付けると、そのまま唇を寄せてくる。
 とっさに、莉乃亜は樹をはねのけることが出来なかった。今日初めてのキスは、何故か少しだけ懐かしくて。もしかしたら昨日の夜、たくさんしたのかもしれない……この人とキスを。そう思ったら全身の熱が一気にこみ上げてくる。

(そうか、私、彼とそういう関係になったから、キスもこんな風に受け入れられちゃうんだ……)

 気づくと幾度いくども繰り返されるついばむようなキスに、徐々に力が抜けていく。樹のキスは、思ったより意地悪でもなく、ちゃんと優しくて、甘い。それになんだか、胸がかすかに切なくて痛い。

「……?」

 ふと離れた唇に、ゆっくりと目を開けると、樹の瞳の奥がやけに楽しそうにまたたいている。

「……昨日のこと、少しは思い出したか?」

 その言葉に莉乃亜は力なく顔を左右に振った。

「……そうか。で、気分は? 色々あったが体調は大丈夫か?」

 あけすけに聞かれ、莉乃亜は思わず真っ赤になる。

「大丈夫です。――あ、でも、やっぱり結婚するまでは、ちゃんと別のベッドに寝たい、です。……恥ずかしいし……」

 刹那せつな、莉乃亜の顔をのぞき込んでいた樹が、ふわりと落下するようにして莉乃亜を抱きしめる。

「――そうか、それはよかった。嫌われるかと思ったが……」

 耳元でささやかれた声が少しだけ嬉しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。

「あの、ごめんなさい。大事なことなのに、忘れてしまっていて。だけど、こんな関係になったのなら、ちゃんと結婚しないといけないと思います」

 状況から見て、エッチしちゃったことには間違いないよね、と思いながら莉乃亜が必死の思いでそう告げると、くつくつと笑いながら樹が答える。

「なら今日から、俺のことは名前で呼べ。お前の、未来の夫らしいからな」

『未来の夫』という言葉に何かが、背筋を撫でていくような思いがする。
 やっぱり目の前の人がそうなんだろうか。

「あの……樹、さん?」

 言われた通りに下の名前で呼ぶと、なんだか懐かしい気持ちになる。

「ああ、それでいい」

 樹は眼鏡を掛けていない状態でも、やわらかい笑顔で笑う。その笑みを見て、莉乃亜はふっと温かい気持ちになった。ゆっくりと顔を向けて、少し赤くなったまま笑みを返した。

「――ちなみに」

 そんな莉乃亜の頬を、彼はそっと大きな手のひらで包み込み、言葉を続けた。

「昨日は何もなかったぞ」
「――え?」

 突然の樹の台詞せりふに、莉乃亜は絶句した。
 この状況から判断して、間違いなく昨日、樹とそういう関係になったと思っていたのに。
 次の瞬間、さっきの優しい笑顔はどこにいったのかと思うくらい、彼は意地悪く笑った。

「……ちゃんと結婚式を挙げるまで、そういうことはしたくない、と俺に訴えてなかったか? こう見えても、相手の望まない関係を強要するほどプライドがないわけではないからな」

 こらえきれずくつくつと笑い始める樹に、莉乃亜は思わず口をぽかんと開けてしまう。

「あの、そうしたら私、まだ?」

 みずからの体を抱きかかえるようにして尋ねた瞬間、安心するあまり涙がまたあふれてくる。そんな莉乃亜を見て樹は困ったような顔をした。

「ったく……勘弁してくれ。その恰好はお前が自分で着替えたんだ。可愛くて気に入ったからと言って、昨日酔っぱらった状態で、俺に披露ひろうしてくれたぞ。このベッドの上で」

 その言葉に莉乃亜は布団で隠した自分の寝間着姿を見直す。
 確かに可愛いデザインだけど、地味な莉乃亜が、間違っても男性の前で見せるようなものではない。だけど、酔ったときの勢いなら、確かに絶対ないとは言いきれない。

(昨日は色々と普通じゃなかったし……)

 それに、ちょっとぐらい肌がけて見えていたとしても、一応ちゃんと着ているし、裸じゃないし……と必死に自分へ言い訳をする。


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