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「涌田くん、ちょっといいかな」
僕は作業の手を止めて、途中まで作成した資料を保存した。出かかったため息は堪える。
部長の「ちょっと」が本当にちょっとだったことはない。かと言って「よくないです」と返せるほど、僕は強い人間でもなかった。
「これとこれ、転送するから今週中にやっといて」
「……はい」
今週中というけど、今日は金曜日だ。
確実に残業だし、僕に大事な予定があるかもって思わないんだろうか……、別にないけど。
明日は早朝からゴルフなんだと、部長は別部署の人と楽しそうに話している。今日は早く帰らないとなぁって、いつも定時でいなくなる人が何を言ってるのか。
心なしか部署内の空気は白けていた。
「あーあー。仕事はあるのに、唯一暇そうな人がアレだもんなぁ」
「涌田かちょ~。早く部長に成り上がってくださいよぉ」
残業中、ゆるくなった雰囲気の中で舟橋たちが口を開く。その多めに本気が含まれた冗談の内容に、声を出して同意する人もいれば、ウンウン頷く人もいた。
僕も内心願いを込めて同意しつつ、曖昧に微笑んだ。
それでも各自、ある程度のところで見切りをつけて帰っていく。金曜日に遅くまで残りたい人なんていないだろう。
「終わったー!」
声を上げた朝霧がガタッと椅子から立ち上がる。僕はパソコンのモニターに集中して、彼の方を見てしまわないように意識した。
そうでなくともあのバーでの邂逅以来、勝手に目が追ってしまうのだ。
しかし朝霧はすぐ帰るのかと思いきや、僕の横まできて声をかけた。
「涌田さん、今日までの仕事ですよね?私たちもやりますよ。舟橋ももう終わるみたいなんで」
えー!という舟橋の声が聞こえる。朝霧は基本的にほどほどをモットーとしているらしく、自分から仕事を求めることもあまりない。
それでも……初対面の人にあそこまで親切に出来る彼の事だ。僕が部長に仕事を押し付けられたことに気づいていて、声をかけてくれたんだろう。
「大丈夫、僕ももう終わるから。ありがとう」
モニターから顔をあげると、眼鏡越しに朝霧と目が合う。明るい茶色に緑が混じった、ペリドットみたいな瞳。
その美しさに一瞬目を奪われて、はっと顔を伏せた。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
「ふぅ……」
フロアにひとりになって、ため息をこぼす。
部長が月曜の朝イチに必要だという資料はまだ完成していないけど、なんとか終電前には帰れそうだった。
「涌田くん」
「!」
給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から声をかけられてビクッと肩を跳ね上げた。もう誰も残っていないと思ってたし、ホラーは苦手だからやめてほしい。
「部長」
「いや~忘れ物をしちゃってね。取りに来たんだよ」
振り返ると給湯室の入り口に、定時で帰ったはずの部長がいた。近くで飲んでいたのだろう、赤い顔をした男は酒臭い息で笑った。
給湯室は狭くて、部長が近づいてきても逃げ場がない。
僕はさすがにウンザリとした表情を隠しきれなかったが、酔った部長はそれに気づくことなく話しかけてきた。
「華金にまで残業か?彼女とか……いなさそうだなぁ。どれ、見せてみろ。細すぎるからじゃないか?」
部長は失礼なことを言いながら僕の肩に手を置いて、腰まで滑らせるように触った。
「……ゃ!やめてくださいっ」
むりむりむり!
ぞわっと全身に鳥肌が立つ。実体があるぶん、ホラーより怖い。
僕が反射的に手を振り払ってしまったことで、部長はむっとした不満顔でぶつくさ「女じゃないんだから……」とぼやいている。
どう考えてもアウトな発言と行動に、気が遠くなりそうだ。
その時はなんとか、ビルの警備員がやってきたことで僕は解放されたのだった。
僕は作業の手を止めて、途中まで作成した資料を保存した。出かかったため息は堪える。
部長の「ちょっと」が本当にちょっとだったことはない。かと言って「よくないです」と返せるほど、僕は強い人間でもなかった。
「これとこれ、転送するから今週中にやっといて」
「……はい」
今週中というけど、今日は金曜日だ。
確実に残業だし、僕に大事な予定があるかもって思わないんだろうか……、別にないけど。
明日は早朝からゴルフなんだと、部長は別部署の人と楽しそうに話している。今日は早く帰らないとなぁって、いつも定時でいなくなる人が何を言ってるのか。
心なしか部署内の空気は白けていた。
「あーあー。仕事はあるのに、唯一暇そうな人がアレだもんなぁ」
「涌田かちょ~。早く部長に成り上がってくださいよぉ」
残業中、ゆるくなった雰囲気の中で舟橋たちが口を開く。その多めに本気が含まれた冗談の内容に、声を出して同意する人もいれば、ウンウン頷く人もいた。
僕も内心願いを込めて同意しつつ、曖昧に微笑んだ。
それでも各自、ある程度のところで見切りをつけて帰っていく。金曜日に遅くまで残りたい人なんていないだろう。
「終わったー!」
声を上げた朝霧がガタッと椅子から立ち上がる。僕はパソコンのモニターに集中して、彼の方を見てしまわないように意識した。
そうでなくともあのバーでの邂逅以来、勝手に目が追ってしまうのだ。
しかし朝霧はすぐ帰るのかと思いきや、僕の横まできて声をかけた。
「涌田さん、今日までの仕事ですよね?私たちもやりますよ。舟橋ももう終わるみたいなんで」
えー!という舟橋の声が聞こえる。朝霧は基本的にほどほどをモットーとしているらしく、自分から仕事を求めることもあまりない。
それでも……初対面の人にあそこまで親切に出来る彼の事だ。僕が部長に仕事を押し付けられたことに気づいていて、声をかけてくれたんだろう。
「大丈夫、僕ももう終わるから。ありがとう」
モニターから顔をあげると、眼鏡越しに朝霧と目が合う。明るい茶色に緑が混じった、ペリドットみたいな瞳。
その美しさに一瞬目を奪われて、はっと顔を伏せた。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
「ふぅ……」
フロアにひとりになって、ため息をこぼす。
部長が月曜の朝イチに必要だという資料はまだ完成していないけど、なんとか終電前には帰れそうだった。
「涌田くん」
「!」
給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から声をかけられてビクッと肩を跳ね上げた。もう誰も残っていないと思ってたし、ホラーは苦手だからやめてほしい。
「部長」
「いや~忘れ物をしちゃってね。取りに来たんだよ」
振り返ると給湯室の入り口に、定時で帰ったはずの部長がいた。近くで飲んでいたのだろう、赤い顔をした男は酒臭い息で笑った。
給湯室は狭くて、部長が近づいてきても逃げ場がない。
僕はさすがにウンザリとした表情を隠しきれなかったが、酔った部長はそれに気づくことなく話しかけてきた。
「華金にまで残業か?彼女とか……いなさそうだなぁ。どれ、見せてみろ。細すぎるからじゃないか?」
部長は失礼なことを言いながら僕の肩に手を置いて、腰まで滑らせるように触った。
「……ゃ!やめてくださいっ」
むりむりむり!
ぞわっと全身に鳥肌が立つ。実体があるぶん、ホラーより怖い。
僕が反射的に手を振り払ってしまったことで、部長はむっとした不満顔でぶつくさ「女じゃないんだから……」とぼやいている。
どう考えてもアウトな発言と行動に、気が遠くなりそうだ。
その時はなんとか、ビルの警備員がやってきたことで僕は解放されたのだった。
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