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第四章「東の戦争。」
06
しおりを挟む深い雪が、もう長いこと彼女を包み込んでいた。
どれだけ殴り、形を変形させようとも、雪は彼女から離れることはなかった。
「すごい……」
ハイゼットは茫然と呟いた。
こんな魔法は見たことがなかった。
「雪は私の一部でね。これは魔法ではないんだ」
「キミの一部……ってことは、キミも痛いんじゃ」
思わず、ハイゼットはイーラを見た。
彼女はしかし涼しげな笑顔で夜叉を見つめている。
「気にしないでくれ。彼女が暴れ終わるくらいは耐えられるさ」
そう告げる彼女の額には、汗一つない。
(でも……)
夜叉が疲れる様子は一向にない。
常に雪はうごめき、変形させ、彼女の攻撃を抑え込んでいる。
これは、どれだけの間続くのだろう。
一体どれだけ彼女は溜め込んでいたのだろう。
「ぐ……」
小さな呻き声が漏れた。
がらがらと瓦礫の崩れる音がする。……あの、影だった包帯女だ。
彼女はよたよたとよろめきながら、手に刀を持ち、ところどころに影の名残をまといながら──夜叉へと、突き進む。
「む。外からの衝撃となると困るな」
「任せて、ここは俺が──」
ハイゼットは彼女に歩み寄った。
あの剣の素早さは、もう一度見ている。
おそらくは反応できるはずだ。
「違う」
今度はハッキリと声がした。
彼女からだ。
「違う、違う、違う! これは、違う!」
「? 違う?」
「うう、ううう、ううう!」
彼女が倒れこむのと、わずかに残った影の名残がじわじわと侵食するのは、ほぼ同時だった。
「うう、ああ、うああ、まだ、まだ! 我をコキ使うというのかッ……!」
「これは……」
吐き出したものは血ではなかった。
真っ黒な、インクのようなものだ。
そうしてそれは、床に落ちるとまるで自らの意思でも持っているかのように、彼女の身体へと這いずり寄っていく。
「殺せ! 誰とも知れぬわっぱ! 我の、首を、斬り落とせ!」
すでに彼女の腕は真っ黒に染められた。
その腕は、刀を振り上げようとしているのが見て取れた。
かろうじて抑え込めているのは、肩や頭にそれがまだ侵食しきれていないからだ。
「ハイゼット!」
背後からデスの声が飛ぶ。
彼の足音がするのがわかった。ハイゼットがやらなくとも、彼はやるだろう。
(ダメだ、それだと、──『全員』は守れない!)
剣を抜く。
これを向けるのは、敵にだけ。
そう決めたのは彼自身だが、教えてくれたのは先代の帝王。
彼の記憶の中の父親であり、それを拾い上げたアマテラスだ。
(敵。俺の敵。ゴルトの『力』、『悪意』、『魔力』……)
ハイゼットは目を閉じて意識した。
彼の顔を。彼の魔力を。彼が彼女に施した──『何か』を。
「わっぱ!」
声が飛ぶ。
悲鳴のような金切り声だった。
デスの気配がすぐ傍でする。──やれる。皆と一緒なら、なんだってやれるのだ。
「おおおおおお!」
雄たけびと共に、ハイゼットは剣をふるった。
真っ白な閃光が、確かに一線、彼女の身体を真っ二つにした。
(違う)
手に集めていた青い光を消しながら、デスはそれを間近に見た。
確かに彼女の身体を走った一線は、しかし彼女の肉体など一ミリも傷つけてはいなかった。
ぐらりと目を向いて倒れた彼女の身体から、覆っていた影はハラハラと消えていく。
(これは、浄化か?)
影が消えて、あらわになったのは傷だらけの胴体と包帯だ。
ようやくのこと、彼女は剣をその手から離した。
剣もまた、ハラハラと灰のように消えていく。
「う、うまくいった……」
当の本人は、茫然と彼女を見つめていた。
もうぴくりとも動かない。けれど、影であった彼女はきちんと息をしている。
死んではいないのだ。
ハイゼットはバッと振り返った。
「デス! この子運んで! 俺、夜叉にも同じことしてみる!」
「はあ!? 正気かよ、お前!」
「うん! あの『違う』って言葉……もしかしたら夜叉も同じことになってるのかもしれない」
だとしたら、何時間経とうとも暴れることは止まない。
それどころか、イーラも夜叉も双方が倒れる可能性だってある。
「イーラ!」
「解けば一瞬だ。手負いの獣、しかも操られている可能性もあるときた。いけるのか?」
こんこん、とイーラは杖で床を叩く。
ギルドが剣を抜いて構えた。彼女の隣で、不測の事態に備えるかのようだった。
「うん。やるよ」
ハイゼットは、力強くうなずいて、雪の塊に近づいた。
剣を構える。
目を閉じて、再び意識を『それ』に向ける。
夜叉の中にいるであろう、彼女をむしばんでいるであろう、『黒い何か』。
「合図したら解くぞ。合わせろよ?」
ファイナルが刀を抜く音がした。
彼女もまた、ゼノンを守る用意のようだった。
イーラが、杖を突き出す。
「いくぞ!」
「うん!」
──雪が晴れる。
***
「ぐふ」
自分の一部を削がれた、と認識するのは本日幾度目かだ。
情けなくベッドに横たわる身としてはあまりに情けないが、致し方ない。
どうやら東魔界に送った『部下』たちが倒されてしまったようだった。
真っ白なベッドに、真っ黒な染みがいくつか落ちる。
「おや、吐血中に失礼」
「……アルマロス」
唐突に聞こえた声にハッと顔をあげると、目の前にシルクハットをかぶった紳士がたっていた。
その片側を完全に隠した銀髪からは、黄金色の瞳が彼を見下ろしている。
「君の血って赤くないんだね。びっくり」
さして驚いてもいないような声でそういうと、彼はおもむろにベッドのふちに腰かけた。
「面会謝絶と伝えていたはずだが」
「そのようだねえ。ずいぶんと弱ってしまって、僕は君がとても心配だよ」
心配などと、戯言を。
彼、ゴルトはアルマロスを睨みつけた。
その背中からは、存在を象徴するように真っ黒な羽根が生えている。
かつては真っ白であった、その羽根が。
「はは、天使サマは俺のようなものにも心を砕いてくださると」
アルマロスが外の世界からきたもの、堕天使であることは知っている。
それも昨日今日ここに来た者ではない。
「天から堕ちた天使でも嬉しいかい?」
「どうだろうな。祝福でもくれるなら、あるいは」
「それは難しいな」
くすくすと笑う彼の顔色に、怒りは見えない。
ゴルトはため息をついた。
これでは、新たな部下を東魔界に放つことは難しそうだ。
あれはあれで集中力を使うのだ。この胡散臭い堕天使の前では、それを使う気には到底なれなかった。
(となると、この作戦も失敗か)
最初の作戦は大成功だった。
先代も始末できたし、その家族も同様だ。
あげく次なる器を手にすることができた。
彼の能力が全く通用しないのは予想外だったが、それも余興と楽しめた。
意思なき傀儡になるように育てなおす。
その目論見は、途中までは成功していたはずなのだ。
(やはり、死神だ)
ぐ、とゴルトは気づかれないように拳を握った。
彼がきてから計画は急ピッチに進んだが、同時に育てるというその行為は崩壊した。
何もできない彼がゴルトにすがるようにするはずだった。
けれど彼がすがったのはかつての親友だ。
記憶がないとはいえ、その執着心は凄まじいものだ。
そうしてあっさり傀儡は奪われ、記憶も取り戻され、帝王は『帝王』として覚醒した。
(であれば、次はどうするか)
手ならばまだある。
だがそれが通用するかどうか、と考えると不思議なことに気がのらなくなってくる。
「何か考え事かい?」
「!」
ふと、アルマロスがゴルトの顔をのぞき込んでいた。
黄金色の瞳は、ゴルトの胸中を見透かすようだ。
「彼、帝王としてほとんと『覚醒』してる。先代と同等だものねえ、もはや」
「…………」
「だとすると怖いのはこの先の成長だよね。父親よりも楽天的だし、いい方向に向かっちゃうかもしれないね」
「…………」
じろり、とゴルトはアルマロスを睨みつけた。
やはり脳内を読まれているのかもしれない。
ともすると、魔術か、魔法か。あるいは、どちらでもないのか──。
「いっそ『帝王』なんていなければいいのにね?」
少し困ったように、アルマロスはそう呟いた。
「彼も含めてすべてを『まっさら』にできたら、キミだけの『混沌』が生まれるのにねえ──」
まるで、悪魔のささやきだ。
思考が急にクリアになる。
ゴルトの脳裏に浮かんだのは、『終焉』の存在だった。
帝王の掌握と同時に進めていた、『終焉』と『始まり』という御伽噺のような存在達。
彼女たちを使えば、そうだ、堕天使がいう『まっさら』も不可能ではない。
「それじゃ、僕はこれで」
「待て」
立ち上がったアルマロスを、ゴルトは制止した。
「お前の所属は北魔界だったな?」
「? そうだけど」
「まだ魔王にはなれないのだったか」
「ご健在だからねえ、僕らの魔王様は」
ゴルトは、おもむろに顔を上げた。
がっとアルマロスの腕を掴む。
そうして、とても悪い顔をして──こんな言葉を問いかけた。
「──ならせてやろうか。北魔界の、魔王に」
「悪い話じゃあ、なさそうだね」
アルマロスの身体がくるりと回転して、ゴルトに向き直った。
その黄金色の瞳は、怪しげに歪んでいた。
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