廸子さん。

黒谷

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青野夜子のお話。

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 次に目を覚ましたとき、私は真っ白な部屋の真っ白なベッドに横たわっていた。
 たくさんの器具とホースとに繋がれた私の顔を覗き込んだのは廸子さんではなく、見知らぬ男だった。
 かろうじて制服が見えたので、彼が警察官だということが見て取れる。
 体を起こそうとした私を、彼は制止した。
「そのままで結構です。意識はハッキリしてますか? 私のことがわかりますか?」
 事務的な声に、私の意識は現実へと引き戻されていく。
 無言のままの私に、彼は続けて言葉を投げつける。
「まずご自分の名前はわかりますか。それから、何が起きたか覚えていますか?」
 名前。
 そういわれて、私の頭はずきりと痛む。
 ああ、なんということだろう。
 自分の名前、そんなものが思い出せない!
「私、わた、私は……」
「ああいえ、無理はなさらないでください」
 男は私ではなく私の向こう側へと視線をやった。
 ベッドの脇にいたのは、彼だけではなかった。
 白衣の男性と、白衣の女性。
 おそらくは医者と看護師だろう。
「落ち着いて聞いてくださいね。アナタは一週間前、高中商社のビルから落下して、今の今まで眠っていたんです」
「え……」
 ぞ、と心臓が凍えていくような気がした。
 高中商社とは、確かに私が勤めていた会社だ。
 私が、捕らわれていた会社のはずだ。
(では、私とは?)
 勤めていた会社は思い出せるのに、自分のことは名前すら思い出せない。
 その事実が、私の仕事というものがどれだけ自分を削っていたものかを示していた。
「あなたの身元を示すものは何一つありませんで。あなたの身元がわからないのです」
「……そう、ですか」
 そういえば私は、スマホも、手帳も、お財布も、どこへやってしまったのだろう。
 あの会社の中、なのだろうか。
「実はその高中商社のビルも、三日前火事になりまして。内部は全焼、かろうじて形は残っているものの中にどれだけの人がいて、どれだけ被害があったかがわからないほど悲惨でして……」
「火事……」
「ええ。高中商社といわれて、何かぴんとくることはありますかね?」
 苦笑いを浮かべて、男は言った。
 私のことを調べようにも、何もわからなくてお手上げなのだと察した。
 そうして、私は『廸子さん』を思い出していた。
(私を、解放して、自由にする)
 そういう意味では、達されたのだと思った。
 私はあの時以上に何もかも失ってしまったけれど、だからこそ、自由だと思った。
「いえ、なにも」
 だから、私は首を横に振った。
 一度切れたものを、つなぎなおすほど阿呆ではないつもりだった。
「そうですかあ」
 警察官は、少しがっかりしたような声を出した。
 そうして、そこで医者がようやくのこと口を開く。
「あの。そろそろよろしいですか。回復したばかりですので、あまり負担をかけたくないので」
「ああっ、すみません。つい色々きくことを優先してしまって」
 彼は頭をガリガリとかいた。
 まだ若そうだった。
 いろいろきくのも仕事熱心ということなのだろう。
 そう思うと、あまり悪い気はしなかった。
 むしろ、嘘をついたことがなんだか悪い気がしてきた。
「何かありましたら遠慮なく交番の方に連絡ください。それじゃ」
 申し訳なさそうに頭を下げて出ていく彼を、私も苦笑いで見送った。
 私から連絡をする気はないので、きっとこれきりになるだろうと思った。
「何とお呼びしたらいいですかね」
 看護師の女性が私の顔を覗きこんだ。
「お名前、わからないんですもんねえ」
 困ったような声だった。
(廸子さんとは、そんなものなくても困らなかったけど)
 彼女は聞く気すらなかったのだ。
 なんだか不思議な違和感だった。
 けれども、そうだ。
 私たちの社会において、名前、とは本来、重要なもののはずだ。
「……あの。仮ですけど、何か名乗っていただけると、助かります」
「そう、ですよね……ええと、ええと……」
 目に入ったのは、窓の外に広がる青空だった。
 雲一つない、澄んだ空だった。
「青野」
「はい?」
「青野夜子(あおの よるこ)、というのは、どうでしょうか」
 しばしの沈黙のあと、最初に口を開いたのは看護師の女性だった。
「いいですねえ! 青野夜子さん! 綺麗なお名前ですよ!」
 ね、先生。
 そう看護師の女性が言うと、医者も「まあ」などと頷いた。
 青野夜子。
 自分でその名前を、心の中で呟く。
 即興で考えた名前にしては、悪くない名前だと思った。
 新しい自分の人生を歩んでいくには、ふさわしい名前だと、そう思った。
「それじゃあ、また様子見に来ますね。何かあったらナースコールでよんでくださいね」
 優しい言葉だった。
 看護師と医者は、そういって病室を去った。
 私のベッドがあるこの部屋は個室だったようだった。
 私のほかには誰もいない、小さな個室だ。
 ふう、と肺から息を吐きだす。
(高中商社は、燃えて、なくなった)
 いい気味だと思った。
 あんな会社、存続していたところで誰かを殺す機関でしかないのだから。
(廸子さんが、やったのだろうか)
 あの夜のことはおぼろげな記憶になっていた。
 何があったのか、どうしてああなったのか、本当に私はあそこから飛び降りたのか。
 今となってはなにもかも、よく思い出せない。
(でも、廸子さんのことだけは、鮮明に思い出せる)
 空を飛んだ。
 一緒に、空を飛んだ。
 眼下に広がる暗闇を抜けて、綺麗な夜景を、二人でみた。
 あの子は私の願いを本当に叶えてくれたのだ。
「……空が青いなあ」
 ぼふっ。と頭を枕におろす。
 これからどうなるかはわからないけれど、確かに体は軽くて、心が晴れやかだった。
 久しぶりによく眠れる気がして、私はうとうとと瞼をおろした。
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