廸子さん。

黒谷

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青野夜子のお話。

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 産休に入るアイサツを終えて、会社を出る。
 青山のぞみは昼にきいた話もすっかり忘れてけろっとしていて、高山いつこは怪しげにニタニタ笑って見送ってくれた。
 かつん。かつん。かつん。
 花束を抱えて、階段を下りる。
 なんだかまるで、退職するみたいだ。
(夏川さん、今日は夜遅いっていってたっけ)
 つい苗字で呼ぶ癖を直せ、と旦那に言われていたことを連鎖的に思い出す。
 ふ、と笑みがこぼれると、自然と心が軽くなった。
(私が心残りなのは、廸子さんのお腹を満たせなかったこと。前の会社のことじゃない)
 前を向く。
 足元をみて、地に足をつけて歩く。
 それを意識するだけで、少し、いや、だいぶ違った。
 どうしても廸子さんの話を頭で思い浮かべると、地に足がついていないような、そんな不安定な感覚に陥るのだ。
(廸子さんは、どうしているんだろう)
(私のことを恨んでいるだろうか)
(助けてもらったのに、申し訳ない)
 帰宅したら調べようと思った。
 彼女のことを調べて、もう一度コンタクトをとる方法を知るのだ。
 そうして、今の私ができうることを、彼女に──。
「あ」
 会社のあるビルから、外へと出たときだった。
 ちょうど出た先に、二人。
 女子高生が歩いていて、片方が、私をみて固まっていた。
「え、なに? 知り合いかよ、天野」
 そんな彼女を不思議そうに、隣を歩いていた金髪の女子高生が覗き込む。
 対照的な二人だった。
 金髪の彼女はとてもヤンチャそうで、その綺麗な髪も短く切りそろえられている。
 私を見る彼女は──黒いセーラー服で、黒い髪で、赤い目で。
 真っ白な肌が、特徴的で。
「うふふ」
 彼女は、あの日のように、にこりと笑う。
「お姉さん、いい顔になりましたね。気まぐれを起こした甲斐がありました」
 そうして、彼女は。
 私ではなく、金髪の彼女の手をひいて、歩き出す。
「あの!」
 なので私は、彼女を呼び止めた。
 沿道の視線が私たちに向く。
 金髪の彼女の顔が、不機嫌そうに歪む。
(ヤンキーっぽい)
 廸子さんと一緒にいることが不自然なほど不釣り合いで、それがこの二人にはよく似合っていた。
 金髪の彼女が何か言う前に、私は喉の奥に突っかかって出てこない言葉を、無理矢理引きずりだして、声にする。
「ありがとう、ございました。……廸子さん」
 言葉を受けて、彼女はとても満足げに微笑んだ。
 そうして、ふと思い出したように口を開く。
 私を見て、こういった。
「ごちそうさまでした。美味しかったですよ、お姉さんを拘束してたもの」
「え……」
 ささ、いきますよ。
 そういって廸子さんは、金髪の彼女の手を引いて歩いて行った。
 残された私は、会社の前で呆然と立ち尽くしていた。
 私を拘束していたもの。
 美味しかったですよ。
 ごちそうさまでした。
 今口にした単語が、私の頭の中で現れては消えていく。
「──ああ」
 そっか。
 と、ふいに溜飲がくだった。

『内部は全焼、かろうじて形は残っているものの中にどれだけの人がいて、どれだけ被害があったかがわからない』

 あの時の言葉が、ふとよみがえる。
 あの会社は。
 火事になったという、高中商社は。
 中身を食われたのだ。と、思った。
「ん、と」
 体を伸ばす。
 両手に抱えた花を左手でがしっとつかんで、太陽を仰ぐ。
 私の心残りなど、あってないようなものだった。
 彼女の腹を満たせていないと思っていたが、なんてことはない。
 廸子さんの腹は、私を自由にすることで満たされていたのだ。
「青野さん? 帰らないんですか?」
 警備員のおじさんが、苦笑いしてこちらを見ていた。
 一部始終見られたのだと思った。
「空が青いですねえ」
「え? ええ」
 少し戸惑ったような声で、おじさんは頷いた。
 まだ太陽は沈まない。
 沈む前に、旦那の、夏川さんと食べる夕食の材料を買って帰ろうと思った。
 そうして産休が明けたなら。
 高山いつこには、こういってやるのだ。
 廸子さんは本当は、女子高生なのよ。と。
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