旦那様、私は全てを知っているのですよ?

やぎや

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本編

あの時の奥様は 2

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  奥様が口を開いた。
  旦那様を気遣う、優しい声がする。大切なものに触れるように、そっと話しかけている。
  旦那様を心から愛しているのだろうなぁと漠然と思う。他人事のように、その時だけは自分の立場を忘れてそれを見ていた。

 そうやっていれば、奥様が纏っていた柔らかい雰囲気がピリピリとし始めた。何かに怒っているような、それでいてそれとは少し違うような、そんな声。

「旦那様、私、前に可笑しな夢を見ましたのよ」
 奥様が話を始める。
 そうして奥様の形の良い唇から流れ出る言葉は、刺々しくて痛かった。何かを見据えたように話続ける。奥様は、わかっているのだ。一言一言、その言葉の一字までもが私の心をチクチクと刺激した。責められているような声がして、私は怖くなる。

 でもきっと、奥様はこれを面白がっている。もう逃げ場を失った私たちを見て、にっこりと笑ったのだから。それでも信じていると、そう言ったのだから。
 今までの弱々しい奥様はどこに行ったのだろうか。ここにいるのは、誰か別人なのではないか? 私はそう思った。背筋がゾクゾクと寒くなる。私の目を時々見て、それでも笑みを浮かべる。目が、笑っていない。でも口だけは弧を描いていて、真っ赤な口紅が目立った。

 それでも私たちを信じていると言った奥様は、ただただ恐ろしかった。私たちのする事に気付いているのに、逃げもしないでその事実を受け入れている。自分が死ぬことなんて、考えてもいないようなその表情。もうすぐで自分が死ぬということが分かっているのに、涼しい表情を崩さないで、紅茶の味まで楽しんでいる。カップに着いた口紅を拭って、テラスからの眺めを堪能しているようにも見える。
 旦那様を見て、使用人を見て、今までで一番美しく笑っている。

 今まで怖くなかった奥様が、怖い。
 この人には負けないと……自分の価値はこの人以上だと思っていたのに、ここにいるのは完璧な淑女。完璧なまでの、私が思い描いていたままの女主人。

 美しくて、勇気があって、気高くて。
 そんな人って知らなかった。私が見た奥様はもっと脆くてすぐ壊れる人だった。男が好きそうな庇護欲をそそる女の子だった。こんな人は知らない。こんな立派な人、私は知らない。
 やだ、やだ。私は? 完璧になれる筈の私は? この方が死んだ後に私はどうすればいいの?
 希望が一瞬にして絶望に変わった。この先どうすればいいのかが全くわからない。明るいはずの未来は今、夜の闇のような黒に塗り替えられてしまった。表情だけを変えないでいるのが精一杯だった。頭の中では色々な憶測が飛び交う。

 もしかして、私は……? 

 ああ、信じたくない。信じたくないの、私は信じない。そんなこと信じない。知らない、私は知らない。でも、そう思ったって暴走した私の頭は考えることを辞めてくれない。答えが出てしまう、だめだ。これを知ってしまったら私は!    どうして、どうして、どうしてこんな事になった? 私はただの侍女だった。身分も力も何も持っていない、ただの平民だった。ただの女だった。ああ、やめてくれ。私はこんなことを知りたくない。やめて、やめて、やめて…………。
 ぽっと、その考えが浮かんでしまった。

 私は、に相応しくなかった?

 「菓子を……」

 旦那様の声が聞こえて、やっと考えることを止められた。
 これで奥様は死ぬ。これを食べれば死ぬ。今から奥様は死ぬ。最後に完璧な姿を見せた奥様が死ぬ。死んでしまう。

 それでも、私はもう、戻れないのだ。私はこの劇の幕を上げてしまった。その事実を覆すことは出来ない。私は旦那様の妻になるんだ。奥様ではなく、この私が。だから見届けなきゃいけないんだ。今更気付いたって何もかもが遅すぎた。奥様の本性を見抜けなかった私のせいだ。

 それでも、旦那様は完璧な奥様よりも私を好きだと言った。愛していると、大切だと言った。私は奥様より劣ってはいないのだ。旦那様の中では、私が一番だ。これは必要な犠牲。そう思い込まなくては。

 気付いたって、なんだって言うのだ。何にもならない事に気付いたって、私は何もできない。これを忘れるようにつとめればいい。
 
 大丈夫だ、大丈夫だ、きっと。
 旦那様が私に付いていれば、私はきっと幸せになれるから。








 奥様と旦那様の、最後の会話に耳を澄ませる。
 奥様がマカロンを細くて白い、作り物のような指で唇に運ぼうとしている。
 綺麗なピンク色のマカロン。素敵な色のマカロン。これに猛毒が入っているなんて信じられないほど、美しいマカロン。
 ゆっくりと手が動いて、そして口の前で不自然に止まった。
 下を向いていた顔が、旦那様の顔をしっかりと見れるように正面を向く。

 そうして、閉じられていた唇の形が変わった。

 「わたくし_」

 奥様は何を言おうとしているのだろう。何故か胸が騒ついた。嫌な予感がする。脂汗がふつふつと湧き上がる。

 「_旦那様を愛していますわ。」

 嘘、どうしてそれを言ってしまうの。旦那様、旦那様、大丈夫よね、こんなのに惑わされないで___。

 でもなんで? どうして私を見てくれないの? 旦那様、演技なんかしなくていいのよ。私を安心させてよ。私の目を見てよ。私が大切だって、熱のこもったいつもの目で見て。

 旦那様が激しい音をたてて椅子から離れた。奥様の元に駆け寄っている。1秒でも早く奥様を助けたいと、そう思っているかのように。
 どうして、旦那様。奥様のことはなんとも思っていないんじゃないの? 確かに私はそう言われなかった。でもあなたは奥様を愛してるなんて一回も言ってなかったでしょう? それなのにどうして奥様の名前を呼ぶの? なんで? なんでそんな悲痛な声をあげるの? どうして奥様を抱きしめるの? 私はなんだったの?

 旦那様が奥様を横抱きにする。そうして呟いた言葉を、私は聞いてしまった。

 「そんな、思い違いだったなんて……。今助けるから、俺の宝物。俺も愛しているよ・・・・・・・・。」

 少し早足で奥様を運ぶ旦那様を追いかける。

 「旦那様、旦那様。」
 声が掠れる。私は、私は? ねぇ嘘だって言ってよ。ねぇ、ねぇ、お願いだから言ってよ。これは嘘だって。本当に愛しているのは私だって。脅かしたかっただけなんでしょう? 今なら許してあげるから、早く本当のことを言って。

 進みながら、旦那様が答えた。
 「邪魔だ、近づくんじゃない。」
 その声は、聞いたことのないほど冷え切っていて、私の心をその冷たさで正気にさせてしまった。今まで幸福に酔っていた私の心は、その声でまともな考えをするようになってしまったのだ。

 それでも、私は旦那様を追いかけた。目からはなにか熱いものがせり上がろうとしている。それでも、これだけは聞いておきたいと、これを聞いたら自分の心が壊れることを知っていながら、私は聞いてしまった。

 「私の事を愛しているんでしょう?」

 酷い声が出た。掠れている上に、聞き取れるか聞き取れないか分からないくらい小さな声。

 それに対して旦那様は眉を寄せて、さっきよりももっと低い声で言った。
 「そんな事一度も言ったことがないだろう。私が愛しているのは妻だけだ。汚らわしい、私のシャーロットに近づくんじゃない。」

 膝に力が入らなくなった。視界が低くなったと思ったが、ただ単に私が床に座り込んだだけだったようだ。
 そうなった私の姿を見もせずに、旦那様は奥様を抱えて歩き続ける。
 私を見てよ、と小さな声で言ったけど、旦那様には聞こえていないでしょうね。
 自分が馬鹿みたいに思えて、思わず笑ってしまった。固まった頰が少し上がって、小さい笑い声が響いた。

 本当は知っていたのに。私に向けた言葉も何もかもが、私以外の誰かを重ねて言っていた言葉だと。あれは私に直接言った言葉ではなかったのだ。私以外の愛しい方に向けているんだって、本当は気付いていたのに。
 束の間の幸福を手に入れた私は幸せだったから、自分の心に魔法を掛けた。信じて、信じて、幸福だと信じ込ませたんだ。
 私を見ながら、誰かを思って言葉を睦いでいたことは少しだけならわかった。
 私の話に上の空なのも、忙しいからだろうと自分に思い込ませた。
 そうしないと自分を保てないから。


 奥様は旦那様の好きな相手じゃないって信じてた。恋愛結婚じゃないと聞いていたから。
 奥様はそうではなかったと…………。
 その相手ではなかったと思ったのに。
 
 それは奥様だったのだ。

 涙など出なくて、ただそのことがぐるぐると頭の中で回っている。
 私は必要のなかった女なんだ、と気づく。一番気づきたくなかった事に気付いてしまった。

 2人でいれば旦那様は好きな人のことなど忘れてしまうと、私がいつかその相手になれるだろうと思っていたのに。それは叶わない事だったんだ。幸せになんかなれないで、女主人にもなれないで、暖かい家庭を築くこともできない。

 この計画に協力してくれたから、私の事を愛してくれるようになったんだって、嬉しかったのに。心の奥の奥で、密かにそう思ったのに。それも気のせい。ただ、奥様が自分を愛してくれていないと思った旦那様が、奥様を殺したんだ。
 でも奥様は旦那様を愛していた。

 邪魔者は、奥様じゃなくて、最初から私だったんだ。

 使用人仲間が、座り込んだ私の事を見ているようだった。
 視線が突き刺さる。駆け寄ってきた友達もいるけれど、その顔の裏にはこの事を面白がっている表情が見えた。急に手のひらを返して、私に向ける目が厭らしい物に変わったのがわかった。今まではキラキラとした目で私の事を見ていたのに。
 友達が差し伸べた手を叩き、床に手をついてふらふらと立ち上がる。

 どんな声も私の耳には入ってこなかった。

 ただ、自分が余りにも憐れで。
 自分が道化師のように思えてきて。

 キリキリと痛む胸を押さえたくなったけれど、そんなことしたらもっと惨めだ。

 近いうちに私はこの屋敷を出て行かなくてはならない。

 愛されなかった女は、身分不相応なものを望んだ強欲な私は、消えなくちゃならない。









 だって、世界にいる必要がないから。












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