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05 丸山
しおりを挟む物心ついたころから、世界はうるさかった。
色や音の洪水に翻弄されるばかりで、小さな俺は、混乱してよく泣いた。
みんなが美しいと言う夕焼けの、氾濫する色が怖かった。
家族で出かけたお祭りで、御輿が近づいてきたときには、音とざわめきと色で殴られ、その恐怖に気絶した。
俺は言葉や文字を覚えるのが、とても遅かったらしい。目や耳から入ってくる膨大な情報の中で、必要なものだけを器用に選びとることができなかった。
親に病院に連れていかれ、出た結果が知覚過敏症だった。
普通の人が見える色が、俺には暴れまくる色が入り乱れ、戦っているかのように見える。
普通の人が聞こえる音が、俺には騒がしい音が渦を巻いて、飲み込もうとするかのように聞こえる。
匂いも、肌の感覚も、世界の全てが俺を攻撃しているかのように感じた。
誰も俺と同じものを、見ることも、聞くこともできないのだ。
そう子供心に気づいた俺は、生きるために情報を遮断することを、少しずつ身につけていった。
そして、絵を描くことと出会った。
たえず色に翻弄される俺が、色を使役して自由にできるのは、とても気持ちよかった。
絵に描いた俺の見ている世界は、他人からは不思議な抽象画に見えるそうだ。大人たちは、俺の描く絵に夢中になった。
「脳が痺れるような奇抜な色彩表現!」「圧倒的エネルギーの奔流に飲み込まれる!」「内面世界、自己表現の境地!」
批評家たちは、高い場所から俺を見下ろして、勝手なことを言った。そんな世界に俺はいて、生まれてからずっと耐え続けているというのに。
世界を遮断して、必要なことだけ抜き取ることができるようになったと自覚したのは、中学生の頃だろうか。
俺は自分が生きるのに精一杯だったので、いつのまにか家族とも距離ができ、学校でも遠巻きにされていた。
人はみな同じように色を放射する塊で、それでも輪郭はわかるのだが、動いて話す生きた記号のような存在だった。
「丸山、おまえは絵を描くのが好きだろ。将来美術大学を目指すといいぞ。そこで、絵を描いて食っていく方法を学べ」
中三の担任の言葉がきっかけで、俺は美大を目指すことにした。絵を描くだけで生きていけるのなら、それは願ってもないことだった。
学校から帰って、母親に話した。
「あのさ、先生が教えてくれたんだけど。俺、美大ってとこに行きたい」
「……そうなの、あなたが、将来のことを考える年になったのね……」
母親は泣いた。
俺がこれからの自分について考えているとは、思いもしなかったらしい。
それがきっかけで、親と話す回数が増え、自分が叱られも怒鳴られもせず生きていられるのは、後からフォローしてまわる親のおかげだったことを知っていく。
いつもつきまとわれて、うざいと思っていた。あれは俺のためだった。知覚過敏がどのようなもなのか、わからないなりに理解しようと努力してくれていた。
初めてありがとうという気持ちを知った。
美大への道は、苦労しかなかった。
勉強ももちろんだが、物をそっくりに描くデッサンというのがうまくできなかった。
俺は自分に見えている情報を抑えて、実際のものに近づける努力をした。
そして、それができるようになった頃から、自分の意識がたまにぶっとんでしまうようになった。おかしなことはしていないつもりだが、その間は、他人から見ればおかしかったらしい。知性を無くした動物のようだとだけ言われた。
俺はそんな弊害を抱えながら、美大に入学することができた。
感動というより、やっと目指す場所にたどり着いた気がして安堵した。
寮に入り、雨漏りのハプニングで、他人と同じ部屋で暮らすことになった。
同室の男は、田中と名乗った。
「オレ、田中リク。よろしく」
小柄なその男は、全ての色や音の乱反射を吸収して、静かにそこにいた。
夜になると、二段ベッド下から、田中の寝息だけが聞こえた。
すーすーと、ゆるやかに聞こえるその音。
俺の初めての静かな空間に、その寝息だけが時間を表すかのように、一定のリズムで響いていた。
こいつのそばに行きたい。
俺はたまらなくなって、ベッドをおりて田中に近づいた。
なにも抑えることをしなくても、田中は田中に見えた。あどけなく口を開き、眠り続けるその寝顔がかわいらしかった。
かすかに匂うシャンプーの香りですら、田中がまとうと俺に攻撃を加えない。
俺は、眠り続ける田中のふとんにそっと忍び込み、ヤツを後ろから抱きしめた。その小柄な体はすんなりと俺の中に収まり、柔らかい寝息をたてた。
静かだった。この不思議な感覚は、今までにないものだった。
安らぎという俺と無縁の言葉があるが、まさしく田中は俺の安らぎだった。
翌朝、田中は一度目覚めたが、また眠ってしまった。力を抜いた体が、さらに俺に馴染んでいく。
そのとき俺の心が、大きく高鳴った。
この気持ちはなんだろう。歓喜?
――描きたい。
俺は言葉をうまく使うことができない。語彙というものがあまりない。人と会話しないからそもそも必要がない。
描くことしかできない――俺は静かに、ふとんから抜け出した。
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