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しおりを挟むコン、コン
軽くドアを叩く音。
いつもディーは部屋に入ってくるとき、きちんとノックをする。
体が動かないぼくを、対等の人間として接してくれる。こんな状況であっても、ぼくの心がすり減らないでいられるのは、ディーのおかげだった。
ぼくの顔をのぞきこみ、目が覚めているのを確認してから、カーテンを開ける。清浄な朝の光が部屋に差し込んだ。
「おはよう、ノア」
(ディー、おはよう)
ぼくはまばたきで返事をした。
「今日はいい天気だよ。窓を開けるかい?」
質問のときのまばたきは、"はい"なら一回、"いいえ"なら二回。
ぼくは一回まばたきをした。
ディーの口角がすっと上がった。
彼の顔は長い前髪で隠されていて、ほとんど見えない。
ぼくが最後にディーの顔をはっきりと目にしたのは、あの事故のとき。
魔力の起こす風にあおられて、顔全体があらわになったディーは、怒ったような、それでいて今にも泣き出しそうな顔で、唇を噛みしめながら魔法を行使した。
涙で潤む赤い瞳は魔力を帯びて輝き、確固とした意志を感じさせる眉は苦く歪み。長い黒髪が舞い上がった。
婚約してから八年ぶりに見たディーの顔は、はっとするほど研ぎ澄まされた美しさがあった。
ぼくやサフのような見かけの美しさとは次元が違う。ディーは生き物として、その存在こそが、美しかった――
「ノア、風が金木犀の香りを運んできたよ。わかるかな」
窓から入るほのかに甘い花の匂いが、ぼくの鼻腔を満たす。
ぼくは一回まばたきをした。
(わかるよ。いいにおいだね)
窓からは、紅葉した森の木々が見える。チーチーと小鳥の声が聞こえる。
この家は森のそばに建っている。ぼくが知っているのはそれだけ。
ここに来る前のぼくは、病院の病室にいた。
◇
――事故に合い、ディーの魔法で時間を止めて病院まで運ばれたぼくは、医師の治癒魔法によって全ての傷を修復された。家族が駆けつけたときがまさしくその頃だった。
「おい、ノア! 目は覚めているんだろ?」
治ったはずなのにぴくりともしないぼくに苛ついた父が、ベッドに横たわるぼくの体を強く揺さぶった。
勢いで上にかけられていたシーツが剥がれ、キスマークが散らばったままの上半身があらわになる。
「なんだこれは……うちの息子は馬車の事故で運ばれたんだよな」
医師は答えた。
「大きな外傷は全て治しました。スキャン時に、肛門に若干の腫れが見受けられましたが、事件性はないようです。ご子息は、事故の前に合意の上での性交をなさったようです」
「どういうことなんだ、ノア! ふざけるのもいい加減にしろ!」
横向きに寝かされたぼくの口元からは、透明なよだれが尾をひくようにベッドに垂れ続けていた。
それに気づいた母は、小さな悲鳴を上げた。
父と連れ立ってやってきた伯父の顔が、不快そうに歪んだ。小さい頃からとてもぼくを可愛がってくれていた人だ。春に学園を卒業したら、彼の経営する魔道具店で働く予定だった。
「ちっ、お手つきかよ……婚約者は真面目で手も出せないって話じゃなかったのか?」
伯父はぎろりと父の顔を睨む。
今にも倒れそうに顔を青くした母が、医師に尋ねた。
「お医者様、こんなの困るわ……かわいいノアちゃんに戻るんですよね?」
「これも考えてみれば人形みたいでいいんじゃないか。好事家に売れんこともない」
「とにかくうちにはいらん。おまえにやるよ」
「こんなんじゃ、うちの店でも働けないな。それ以外にどう使えと」
母の影に隠れていた、年の離れた弟がぽつりと言った。
「お兄ちゃん気持ち悪い……」
父が大事そうに弟を抱き上げた。
「おまえはああなるんじゃないぞ」
ぼくはこのときほど、自分の目と耳が正常であることを呪ったことはない。
叫びたくても声は出ず、歯を食いしばることもできず、ただ横たわっているしかなかった。
「――少し、よろしいでしょうか」
凛とした声が、病室の空気を切り裂いた。ディーだった。
彼は静かにぼくの家族を見据えると、すっと手を上げた。
「クグロフ家の皆さん、ご無沙汰しております。ノアの婚約者のディラン・アフガルドです。皆さんに代わって、私がノアの生活を支えます」
家族は部屋の片隅に佇むディーの存在にまったく気づいていなかったようだ。いきなりの出現と申し出に取り乱した様子だった。
父がにやりと嫌らしい顔をした。
「うちのノアを傷物にしたのは、君か。責任をとってもらおう。結婚するよな?」
「いえ、結婚についてはノアが話せるようになってから、彼の意思を確認します。私はノアの気持ちを尊重したい」
「きれいごと言って逃げるなよ」
「はい、大事にさせていただきます。……行こう、ノア」
ディーは、ぼくにシーツをぐるぐると巻き付けると、転移の魔法を使った。
その日から、ぼくはこの家にいる。
あれから家族とディーの間でどのような話し合いがもたれたのかはわからない。
ディーと二人きり、誰もぼくを脅かさない日々が始まった。
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