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2・翼さんと過ごす師走(クリスマス〜)前編
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田町大地は悩んでいた。もう師走に入り、周りがクリスマスだ大晦日だと浮かれている中を一人とぼとぼと歩いている。
大地にはとても大切な同性のパートナーがいる。その名も沢村翼といった。二つ年上でイラストレーターをしている。最近は漫画の連載もしているので、イラストレーター兼漫画家と言ってもいいくらいだ。
大地は整体師をしながら整体院の経営をしている。スタッフは皆、気心のしれた友人たちばかりで、安心して働ける。そんな大地の悩みとは翼とクリスマスをどう過ごそうかという所にある。
翼の誕生日は12/24でちょうどクリスマスと被るのだ。お祝いをしない理由がない。翼と一緒に暮らすようになってもう三年が経過しようとしている。よく夫婦の倦怠期は三年からピークを迎えるというが、翼も大地も基本的に仕事で忙しいせいか、二人の時間の時は大抵イチャイチャしている。
「プレゼントどうしよう。翼さんが喜んでくれるものか」
翼は男性の割には小柄で、可愛らしい部類に入る。そんな翼に大地は毎日、大好きだ。愛してるよと言う。すると、翼は頬を赤らめながら俺もだよと返してきてくれる。
まさに完璧なパートナーである。
可愛すぎると大地は毎日思い、この衝動は一生だろうと覚悟している。
「はぁ…とりあえずクリスマスケーキの予約はしたし帰ろう」
プレゼントは翼にそれとなく欲しいものを聞くことにして、大地は踵を返したのだった。
家に帰ると翼が野菜を切っている。
「お帰り、大地君」
ふわっと可愛らしく笑われて、大地は一瞬浄化されそうになったがなんとか堪えた。
「ただいま。何を作っているの?」
「うん、豆乳鍋だよ。美味しそうなレシピを見つけたの」
これ、とタブレットを見せられて、大地はそのレシピを見た。見出しには、シメまで美味しい満足お鍋特集と銘打ってある。翼は豆乳が好きだ。このレシピを選ぶのも必然だったろう。この豆乳鍋は基本的に鶏ガラスープで味を決めるらしい。他の部分は普通の鍋と同様なようだ。
「俺になにか出来ることある?」
トン、トン、と翼が慎重にゆっくり野菜を切っている姿があまりに愛らしくて大地は見とれながら聞いた。
「うーんと、あ、取り皿を配って欲しいかな」
「了解」
配るとは言ってもたった二人だ。すぐに終わってしまう。翼の一生懸命な姿に、大地は絶対に良いクリスマスにしようと意気込んだ。翼の楽しかった思い出の一つになることを目指して。
「俺、遅いよね。ごめんね、大地君」
翼が落ち込んだように言うので大地は慌てた。
翼は時折自分をものすごく追い詰めて傷付ける癖がある。その傷はなかなか治らない。ふとその傷を思い出して更に抉ると言うのもザラだった。
「翼さんがこうして料理してくれるの嬉しいよ。すごく可愛いし、癒やされる」
「本当?」
大地は頷いた。本当なら自分を傷付けないで欲しいが、翼はかなり鋭い刃を自分に向けて振り下ろしてしまう。他人に向けるよりは良いのかもしれないが、大地からすれば、その刃を地面に置いて、遠くに蹴り飛ばしてほしかった。
それは全て翼が気が付いてやってくれなければ何も変わらない。それとなく言ってみようと大地は思っていた。
豆乳鍋がくつくつといい音を立てている。
「美味しそうだね」
「うん、味も大丈夫だと思うんだけど」
翼がどことなく不安気で大地は気になった。
「何かあった?」
「うん、次の漫画のネタが思い付かなくて」
翼にしては珍しい、と大地は彼を見つめた。月連載も大変だと翼を見て実感している大地である。
「翼さん、明日お休みだよね?マッサージして気分転換しよ?夜も何か外に食べに行こうか」
「いいの?」
「もちろん。根詰めてやって、漫画描くのが嫌になったら困るし」
そうだね、と翼は頷いた。翼は頑張り屋だ。人一倍頑張るからこそ、大地がストップをかける。
豆乳鍋が完成し、二人は今日の出来事を話しながら食事を楽しんでいる。
「あ、あのね、今度絵本の挿絵を描かせてもらうことになったの」
「え、すごいじゃない」
「ちょっといつもより可愛らしい感じで描いて欲しいって頼まれた」
「翼さんの絵は綺麗だもんね。子どもたちも絵に抵抗ないだろうしな」
それに…と大地は続けた。
「今どきの子供たちって所謂、デジタルネイティブだし、翼さんのデザインしたキャラクターで普通に遊んでるんだよな。それどんな絵本なの?」
「うん、それがジェンダーの話みたいで」
大地は驚いた。
「そりゃまた今どきだなぁ。まぁ日本はそういう教育が遅れてるって聞いたことあるし、そういう本なら大人も勉強になるよねえ」
「うん、でもまだ次のネーム描けてないしざわざわする」
翼は相当焦っているようだ。
「大丈夫だよ、一回深呼吸しようか。暗い気持ちより、ポジティブな気持ちでいたほうがいい案が思い浮かぶっていうし、食べたらゆっくりお風呂入ろう?」
「ん」
翼は素直な性格だ。大地の声掛けはなかなかに有効である。大地は風呂の用意をした。
翼には熱いお茶を飲みながらテレビを観てもらっている。
大地は翼がリラックス出来るようにラベンダーの入浴剤を入れた。お湯が紫色になりふわりといい香りが広がる。
「よし」
バスタオルを用意して、大地は翼を呼んだ。
「翼さん、お風呂入れるよ」
「大地君は?」
「ん?」
翼が真っ赤な顔で見上げてくる。その表情の真剣さに大地は気圧された。
「一緒に入ったらシちゃうけどいいの?」
「ん、する…」
するんだ…と驚いた大地である。翼はほぼ毎日仕事をしている。きっと疲れているはずだ。
「でも、翼さん疲れてるし」
「する」
翼がこうなると梃子でも動かないことを大地はよく知っている。
「分かった。でも最後まではしないからね」
「ん」
翼が抱き着いてきたので大地は彼の唇にキスを落とした。
「ふぁ、ア…ン」
ぢゅ、と翼の舌を吸うとぎゅっと翼の手に力が籠もるのを感じる。そのまま口内を犯した。手際よく服を脱がせる。
「ア…んん」
「翼さん、好きだよ。愛してる」
自らも服を脱ぎ、キスを解く。
「入ろうか?」
「ん」
翼は照れているのか口数が少ない。そういう所も可愛いと大地はたまらなくなる。
湯船に浸かると翼が抱き着いてくる。よしよしと頭を撫でた。
「翼さん、今日は甘えん坊さんなんだねぇ」
ふふ、と大地が笑うと翼がじいっとこちらを見つめてきた。
「今日は…じゃないよ?」
「そう?」
「うん、俺いつも大地君に甘えてるもん」
「そうだったんだ?」
翼にん、と目を閉じキス待ちされ、大地の中心が反応しないはずがない。
「あ…大地君の…」
かあっと翼が赤くなる。
「翼さん、あんまり言うとあなたに乱暴しちゃうから静かにしてようか?」
「ん」
了解、とばかりに頷かれる。今日も翼は最強に可愛らしい。大地が再びキスをすると翼は一生懸命応えてくれた。
「身体、マッサージしながら洗ったげる」
「え…」
「翼さん、頑張ろうねぇ」
翼を椅子に座らせボディタオルにソープを付ける。それを泡立て、優しくタオルで背中を擦りながら胸の突起を刺激する。
「ん…あ…ふっ」
刺激しているとそこは熟れた果実のようにぷっくりしてきた。きゅ、と更に摘むと、翼が甘い声を上げる。その間にも翼の体中を泡まみれにする。
「っひ…ぎ…んん」
タオルで赤くなった乳首を擦ると翼の腰ががくがくと震えている。泡立ちが感度を上げているのは間違いない。
「翼さん、気持ちいい?」
「ン…きもちい…」
素直に反応してくれる翼が可愛らしい。大地は翼の太ももの内側を触った。びくん、と翼が震える。
「こっちもヌルヌルしてきたかな?」
「ア…や…そこ、は」
翼が嫌だと言うときは大抵いい時である。大地が翼の中心を優しく握り込み泡ごとゆるゆると上下に擦った。
「あひ、や、ら…め、らめぇぇ」
びくびく、と翼はあっけなく達した。はー、はー、と翼は肩で呼吸している。目は焦点が合っていない。相当感じてくれたようだと大地は嬉しくなった。
「翼さん、気持ちよかったね」
「ん。次は大地君の番だよ」
「でも…」
翼の体の調子が大地には心配だった。明らかに彼が疲れていると分かる。
「翼さん、それならクリスマスにシようか?」
そう大地が言うと、翼がキョトンとする。
「そんなに先?あれ?まだ11月だよね?」
いやいやいや、と大地は流石に焦った。翼があまりの忙しさに前後不覚に陥っていると言う事実に今更気が付いた。
「翼さん、クリスマス来週だよー」
「ふぇ?」
翼は固まり、あ!と顔を赤くした。
「そ、そうだよね。なかなか12月にならないなあって思ってた」
「翼さん、忙しかったからねぇ。空いてる時間もアニメの録画めちゃくちゃ見てたし日付の感覚なくなるのも分かる」
「大地君に心配掛けてごめんね」
「俺はいいんだよ。翼さんが辛くなければ」
また翼は顔を赤らめている。パートナーのこんな可愛らしい顔を堪能できるのは嬉しい。しかも翼は滅多に外に出ない。彼の小さな世界に寄り添えることが大地にとっては最大の幸福である。
「大地君はよく呆れたりしないよね」
「翼さんが、こんなに頑張ってるの見てるのに呆れられるわけないよ」
ありがとう、と翼が抱き着いてくる。大地はよしよしと彼の頭を撫でた。
結局翼の着替えまで甲斐甲斐しく手伝ってやり、ベッドに寝かせた翼におやすみのキスをした。翼はすぐ眠ってしまったので行為が負担だったのではないかと大地は不安になったが、もうしてしまったので諦めた。あ…とそこで思い出す。
「翼さんに何が欲しいか聞くの忘れた」
サプライズプレゼントもするが、それとは別に翼の欲しいプレゼントを用意するつもりでいる。
「翼さんの欲しいものかぁ。やばい、全然分からない」
明日直接聞けばいいやと大地は自分の仕事に取り掛かった。整体院の予約が途切れることなく入るのは非常にありがたい。年末年始はがっつり休むつもりでいるので、今は稼ぎ時だとも言える。くまさん整体院の客層は八割が女性だ。女性スタッフが多いこともあるが、ほとんどが大地目当てである。もちろん大地はそういう女性の相手にも慣れている。翼を不安にさせないと決めているからだ。
「げ、明日奥野さん来るなあ」
その人は大地のことが大好きなマダムである。とにかく大地を推して推して推しまくっているオバチャンだ。ボディタッチも何かと多くやんわりと断っているが、自分は特別と思っているらしい。絶対に聞き入れない。
本来であれば、出禁でもおかしくないのだが大地としては、出来ればお客様として通って欲しい。大地はスマートフォンを手に取った。電話を掛ける。
「もしもし、越野?」
「お疲れ。なにかあった?」
相手はくまさん整体院の副院長を務める越野だ。大地にとっては頼りになる女性の一人である。
「明日の予約、奥野さんでさ」
「もう出禁にすればいいのに。田町はいちいち甘いの。翼さんを不安にさせないんでしょ?」
「う・・その通りなんだけどさ。でも越野が一緒にいれば安心だし」
越野は向こうで溜息を吐いている。
「あたしは構わないけど、今回なにかあったらもうあの人は出禁よ」
「分かった。そうするよ」
「ねえ、今度翼さんのサインくれない?」
「へ?」
「うちの子たちゲームで遊ぶ時、翼さんのデザインしたキャラクターを使うのが好きみたいでね、すごく喜んでるの。どう?フェアな取引だと思うけど」
「ああ、分かった。頼んでみるよ」
越野には日頃から何かと世話になっている。明日、ちゃんと翼に事情を話して頼んでみようと決める。
「田町、あんたクリスマスはスマートに決めなさいよ?翼さんは美味しい油揚げなんだから」
「あ、ああ。ははは、善処する」
大地は苦笑しながらおやすみを言って電話を切った。
「油揚げか。確かに。翼さんは甘そうだな」
自分もそろそろ眠ろうと寝室へ向かう。翼はすやすや眠っている。よしよしと頭を撫でると、翼が笑った。
静かにベッドに滑りこみ目を閉じる。気が付くと6時過ぎだった。いつも走りに行く時間だ。翼の姿はない。慌てて飛び起きて台所に向かうと、翼が鍋をお玉で混ぜている。
「おはよう、大地君」
「うわ・・・」
今日の翼はものすごく可愛らしかった。翼が首を傾げる。
「どうしたの?」
「い、いや翼さんがいつもよりもっと可愛くてびっくりした」
「良く眠ったからかも」
うーんと翼が首を捻っている。
「最近眠れてなかった?」
「眠ってはいたんだけど、疲れてた」
「翼さん、昨日割と激し目にしちゃってごめんね」
「ううん。ずっとシたい気持ちだったの。ありがとう、大地君」
翼が笑うだけでキラキラとエフェクトがかかったように見えるから不思議だ。
「今日、本当にマッサージお願いしていいのかな?」
「もちろん。11時からにしてあるよ」
「ありがとう」
「夕飯は近所のイタリアン行ってみる?」
「わあ、久しぶりだねえ。ピザ食べたあい」
「うん、いっぱい食べようね」
こうして翼と話をしているだけでふんわりした彼に癒される大地である。
「あ、あのね、今日ネーム作るよ」
「え、今日はお休みじゃ・・・」
「思いついちゃって忘れないようにメモしたいの」
「メモかあ。それはした方がいいねえ」
翼のメモが膨大であることは大地も承知している。だが、それで彼が落ち着くのなら止める気はない。
翼は里芋の煮物を作っていたらしい。具だくさんの味噌汁に混ぜられた納豆も用意されている。
「翼さんの作るご飯いつも美味しいよねえ」
「教えてくれたの大地君だしね」
あ、と大地はそこで思い出した。
「越野に翼さんのサインが欲しいって頼まれててさ」
「ん?副院長さんだよね?」
「そう、お子さんが翼さんの描いたキャラ好きなんだって」
翼がそれに固まり、ぽっと頬を赤らめた。
「え、本当に?すごく嬉しい。ご飯食べたら描くね。俺が越野さんに渡していい?」
「その方が喜ばれるよ」
やはり今日も翼はほんわかと可愛らしい。大地は心の中で翼に拝んだ。
いつもなら大地が走りに行っている間に朝食の用意を翼がしてくれているのだが、今日は食べて食休みしてから走りに行くことにした。
「うん、翼さん味付け最高」
「良かった」
二人でこうしてまったり話しながらする食事は大地にとって最高の癒しである。
「翼さん、もうすぐクリスマスだけど欲しいものある?」
翼は少し考えて笑った。
「大地君のマフラー」
「へ?お、俺の?」
「駄目?」
「いや、駄目じゃないけど新しいのだよね?」
ショップに同じデザインが売られているか大地は不安になった。
「違うよ。大地君が使ってるマフラーが欲しいの」
「ええ?でも綺麗じゃないし、洗濯するなら・・・」
「洗濯したらくれるの?」
「うーん、微妙」
大地が顔をしかめると翼がしゅんとした顔をする。
「じゃあ貸してくれるだけでもいいよ」
「そんなに欲しいの?」
驚いた大地に翼は頷いた。
「大地君とどこでも一緒でしょう?」
「わ、分かった。それならあげる」
「本当?じゃあまた大地君の新しいマフラー二人で見に行こうね」
「デートってこと?」
「うん」
「翼さん可愛すぎかよ」
翼がもぐもぐとご飯を食べている。可愛い人だと常々思っているが、この人の可愛さは作ったものではない。翼だからこそ表せる可愛さなのだ。
「大地君は黒が好きなの?」
「ん?好きな色?」
「うん」
そう言えば何色だったろうと大地は考えた。大人になってからそんなことを考える暇もなかった。
「またマッサージの時に教えて」
「分かった。考えとくね」
二人で食器を片付けて大地は走りに行った。いつもの通りだ。
30分程走って戻って来る。そこでシャワーを浴びて身だしなみを整える。それが大地の毎日のルーティンだ。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
翼にキスをして、大地は職場に向かった。
「おはよう、田町」
越野が声を掛けて来る。
「おはよ。今日急だけど翼さんが来るよ」
「ああ、メール見た。翼さんももっとここを利用すればいいのに。あ、独り占め?」
「はは、まあね」
越野がラブラブねえと溜息を吐いている。
「田町おっす」
「おはよう、林」
スタッフは総勢8名いる。一度に施術できるのは最大三人までだ。いつも二人一組で施術は行われる。
朝礼をして業務が始まった。既に待合室で患者が待っている。基本的に予約制だ。初めてくる場合もまずは予約をとってもらう形になっている。
「大地先生、お願いします」
はじめの患者はまだ30代くらいの主婦だった。今日は越野とペアを組んでいる。一人60分という限られた時間でなるべく楽になってもらえるようにと大地は必死だ。
「腰痛そうですね」
「ちょっと重たいもの持ったら急に」
「それは辛かったですね。しばらく安静に出来そうですか?」
「気を付けます」
大地は彼女の腰を念入りに解した。どうやら首から来ている痛みだと睨む。
「スマートフォン見ますか?」
「あ、めっちゃ見ます。でも腰とどういう関係が?」
「繋がってるからどこかで庇っちゃうんですよ」
「わ、そうなんだ。気を付けよう」
施術を終えて台をアルコールで拭き次の患者を待つ。もうすぐ翼が来る頃だと思っていたら翼がふらりと現れた。
「翼さん、今準備するから待合室にいて?」
「うん」
翼は珍しくトートバッグを手にしている。サインが入ってるのだろうと大地は思った。
「翼さん、始めるよー」
翼が緊張したような面持ちで入って来る。
「あの、越野さん、これ」
「え?サイン?すごいいっぱいキャラが描いてあるじゃない」
「それくらいしか出来ないので」
「ありがとう、翼さん。子供たちに見せたら喜ぶわ」
「良かったです」
翼が台にのりうつ伏せになる。
「首と肩か」
大地は人の痛みのある部分を見極めるのが上手い。翼はただでさえ肩こりもちで、猫背だ。痛くなって当然である。
「翼さん、頭から解すね。重たいでしょ?」
「うん、良く分かるね」
大地は翼の頭を指で揉んだ。痛気持ちいいくらいがちょうどいい。
「ん、気持ちい」
「翼さん、なかなか凝ってるねえ」
ぐっとツボを押すと痛かったらしい。翼は呻いている。
頭から首、首から背中、背中から腰とまんべんなくマッサージで解す。
「はい、おしまい」
「好きな色考えてくれた?」
「うん、やっぱり俺は落ち着いた色が好きだなあ」
翼が嬉しそうに笑う。
「じゃお昼休みにしようか」
大地の号令でスタッフはすっかり休憩モードに入っている。
「じゃ、今日は頼むよ越野」
「はいはい」
翼と共にビル三階の居住スペースに戻ってきて、大地は昼食の支度を始めた。
今日はかつ丼にしようと大地は冷凍のカツを揚げてたまごで閉じた。ご飯は翼が炊いていてくれていた。
「翼さん、体どう?」
「うん、すごく軽い。マッサージってすごいね」
「それは良かった」
「大地君、何かあった?」
翼は敏い人である。大地は正直に奥野の話をした。
「ああ、あのやたら触って来るオバチャンかあ」
前に大地が言っていたことを翼は覚えていたらしい。
「そう、だから越野と一緒に施術しようかなって」
「なるほど、だからサイン」
「翼さんを巻きこんじゃってごめんね」
「ううん、全然だよ。俺が役に立てたなら良かった」
にこっと翼が笑う。彼の笑顔は後光が見えるレベルである。
「でも大地君、気を付けてね。大地君はかっこいいんだし」
「俺なら大丈夫。ある意味慣れてるし」
「さすがだなあ」
食事を終えて歯磨きをした大地は翼に行ってきますとキスをして職場に戻った。
午前中のことを振り返り、午後にはそれを活かせるように動く。くまさん整体院というホンワカした名前でもそういう所はきっちりするのが大地の経営方針だ。
それが今に繋がっていると大地は信じたい。
「院長、午後奥野さんすよね?俺代わりましょうか?」
林の言葉は有難い。だがここは指名が出来る。しかも奥野はここでかなり金を落としていってくれる上客でもある。だからこそ出禁にはしたくないという気持ちを他のスタッフも理解している。
「ありがとう林。俺がもう少しうまく声を掛けられたらと思うんだけど」
「田町はアプローチが上手いと思うよ。もう向こうは聞く気なんてないだけよ」
「やっぱりそうなのか」
越野のはっきりしたものいいに大地はくじけそうになったがなんとか自分を奮い立てる。
「今日も特に気を付けてみる」
「出禁だってこと忘れないでね」
越野にそう釘を刺されて大地は頷いた。
大地にはとても大切な同性のパートナーがいる。その名も沢村翼といった。二つ年上でイラストレーターをしている。最近は漫画の連載もしているので、イラストレーター兼漫画家と言ってもいいくらいだ。
大地は整体師をしながら整体院の経営をしている。スタッフは皆、気心のしれた友人たちばかりで、安心して働ける。そんな大地の悩みとは翼とクリスマスをどう過ごそうかという所にある。
翼の誕生日は12/24でちょうどクリスマスと被るのだ。お祝いをしない理由がない。翼と一緒に暮らすようになってもう三年が経過しようとしている。よく夫婦の倦怠期は三年からピークを迎えるというが、翼も大地も基本的に仕事で忙しいせいか、二人の時間の時は大抵イチャイチャしている。
「プレゼントどうしよう。翼さんが喜んでくれるものか」
翼は男性の割には小柄で、可愛らしい部類に入る。そんな翼に大地は毎日、大好きだ。愛してるよと言う。すると、翼は頬を赤らめながら俺もだよと返してきてくれる。
まさに完璧なパートナーである。
可愛すぎると大地は毎日思い、この衝動は一生だろうと覚悟している。
「はぁ…とりあえずクリスマスケーキの予約はしたし帰ろう」
プレゼントは翼にそれとなく欲しいものを聞くことにして、大地は踵を返したのだった。
家に帰ると翼が野菜を切っている。
「お帰り、大地君」
ふわっと可愛らしく笑われて、大地は一瞬浄化されそうになったがなんとか堪えた。
「ただいま。何を作っているの?」
「うん、豆乳鍋だよ。美味しそうなレシピを見つけたの」
これ、とタブレットを見せられて、大地はそのレシピを見た。見出しには、シメまで美味しい満足お鍋特集と銘打ってある。翼は豆乳が好きだ。このレシピを選ぶのも必然だったろう。この豆乳鍋は基本的に鶏ガラスープで味を決めるらしい。他の部分は普通の鍋と同様なようだ。
「俺になにか出来ることある?」
トン、トン、と翼が慎重にゆっくり野菜を切っている姿があまりに愛らしくて大地は見とれながら聞いた。
「うーんと、あ、取り皿を配って欲しいかな」
「了解」
配るとは言ってもたった二人だ。すぐに終わってしまう。翼の一生懸命な姿に、大地は絶対に良いクリスマスにしようと意気込んだ。翼の楽しかった思い出の一つになることを目指して。
「俺、遅いよね。ごめんね、大地君」
翼が落ち込んだように言うので大地は慌てた。
翼は時折自分をものすごく追い詰めて傷付ける癖がある。その傷はなかなか治らない。ふとその傷を思い出して更に抉ると言うのもザラだった。
「翼さんがこうして料理してくれるの嬉しいよ。すごく可愛いし、癒やされる」
「本当?」
大地は頷いた。本当なら自分を傷付けないで欲しいが、翼はかなり鋭い刃を自分に向けて振り下ろしてしまう。他人に向けるよりは良いのかもしれないが、大地からすれば、その刃を地面に置いて、遠くに蹴り飛ばしてほしかった。
それは全て翼が気が付いてやってくれなければ何も変わらない。それとなく言ってみようと大地は思っていた。
豆乳鍋がくつくつといい音を立てている。
「美味しそうだね」
「うん、味も大丈夫だと思うんだけど」
翼がどことなく不安気で大地は気になった。
「何かあった?」
「うん、次の漫画のネタが思い付かなくて」
翼にしては珍しい、と大地は彼を見つめた。月連載も大変だと翼を見て実感している大地である。
「翼さん、明日お休みだよね?マッサージして気分転換しよ?夜も何か外に食べに行こうか」
「いいの?」
「もちろん。根詰めてやって、漫画描くのが嫌になったら困るし」
そうだね、と翼は頷いた。翼は頑張り屋だ。人一倍頑張るからこそ、大地がストップをかける。
豆乳鍋が完成し、二人は今日の出来事を話しながら食事を楽しんでいる。
「あ、あのね、今度絵本の挿絵を描かせてもらうことになったの」
「え、すごいじゃない」
「ちょっといつもより可愛らしい感じで描いて欲しいって頼まれた」
「翼さんの絵は綺麗だもんね。子どもたちも絵に抵抗ないだろうしな」
それに…と大地は続けた。
「今どきの子供たちって所謂、デジタルネイティブだし、翼さんのデザインしたキャラクターで普通に遊んでるんだよな。それどんな絵本なの?」
「うん、それがジェンダーの話みたいで」
大地は驚いた。
「そりゃまた今どきだなぁ。まぁ日本はそういう教育が遅れてるって聞いたことあるし、そういう本なら大人も勉強になるよねえ」
「うん、でもまだ次のネーム描けてないしざわざわする」
翼は相当焦っているようだ。
「大丈夫だよ、一回深呼吸しようか。暗い気持ちより、ポジティブな気持ちでいたほうがいい案が思い浮かぶっていうし、食べたらゆっくりお風呂入ろう?」
「ん」
翼は素直な性格だ。大地の声掛けはなかなかに有効である。大地は風呂の用意をした。
翼には熱いお茶を飲みながらテレビを観てもらっている。
大地は翼がリラックス出来るようにラベンダーの入浴剤を入れた。お湯が紫色になりふわりといい香りが広がる。
「よし」
バスタオルを用意して、大地は翼を呼んだ。
「翼さん、お風呂入れるよ」
「大地君は?」
「ん?」
翼が真っ赤な顔で見上げてくる。その表情の真剣さに大地は気圧された。
「一緒に入ったらシちゃうけどいいの?」
「ん、する…」
するんだ…と驚いた大地である。翼はほぼ毎日仕事をしている。きっと疲れているはずだ。
「でも、翼さん疲れてるし」
「する」
翼がこうなると梃子でも動かないことを大地はよく知っている。
「分かった。でも最後まではしないからね」
「ん」
翼が抱き着いてきたので大地は彼の唇にキスを落とした。
「ふぁ、ア…ン」
ぢゅ、と翼の舌を吸うとぎゅっと翼の手に力が籠もるのを感じる。そのまま口内を犯した。手際よく服を脱がせる。
「ア…んん」
「翼さん、好きだよ。愛してる」
自らも服を脱ぎ、キスを解く。
「入ろうか?」
「ん」
翼は照れているのか口数が少ない。そういう所も可愛いと大地はたまらなくなる。
湯船に浸かると翼が抱き着いてくる。よしよしと頭を撫でた。
「翼さん、今日は甘えん坊さんなんだねぇ」
ふふ、と大地が笑うと翼がじいっとこちらを見つめてきた。
「今日は…じゃないよ?」
「そう?」
「うん、俺いつも大地君に甘えてるもん」
「そうだったんだ?」
翼にん、と目を閉じキス待ちされ、大地の中心が反応しないはずがない。
「あ…大地君の…」
かあっと翼が赤くなる。
「翼さん、あんまり言うとあなたに乱暴しちゃうから静かにしてようか?」
「ん」
了解、とばかりに頷かれる。今日も翼は最強に可愛らしい。大地が再びキスをすると翼は一生懸命応えてくれた。
「身体、マッサージしながら洗ったげる」
「え…」
「翼さん、頑張ろうねぇ」
翼を椅子に座らせボディタオルにソープを付ける。それを泡立て、優しくタオルで背中を擦りながら胸の突起を刺激する。
「ん…あ…ふっ」
刺激しているとそこは熟れた果実のようにぷっくりしてきた。きゅ、と更に摘むと、翼が甘い声を上げる。その間にも翼の体中を泡まみれにする。
「っひ…ぎ…んん」
タオルで赤くなった乳首を擦ると翼の腰ががくがくと震えている。泡立ちが感度を上げているのは間違いない。
「翼さん、気持ちいい?」
「ン…きもちい…」
素直に反応してくれる翼が可愛らしい。大地は翼の太ももの内側を触った。びくん、と翼が震える。
「こっちもヌルヌルしてきたかな?」
「ア…や…そこ、は」
翼が嫌だと言うときは大抵いい時である。大地が翼の中心を優しく握り込み泡ごとゆるゆると上下に擦った。
「あひ、や、ら…め、らめぇぇ」
びくびく、と翼はあっけなく達した。はー、はー、と翼は肩で呼吸している。目は焦点が合っていない。相当感じてくれたようだと大地は嬉しくなった。
「翼さん、気持ちよかったね」
「ん。次は大地君の番だよ」
「でも…」
翼の体の調子が大地には心配だった。明らかに彼が疲れていると分かる。
「翼さん、それならクリスマスにシようか?」
そう大地が言うと、翼がキョトンとする。
「そんなに先?あれ?まだ11月だよね?」
いやいやいや、と大地は流石に焦った。翼があまりの忙しさに前後不覚に陥っていると言う事実に今更気が付いた。
「翼さん、クリスマス来週だよー」
「ふぇ?」
翼は固まり、あ!と顔を赤くした。
「そ、そうだよね。なかなか12月にならないなあって思ってた」
「翼さん、忙しかったからねぇ。空いてる時間もアニメの録画めちゃくちゃ見てたし日付の感覚なくなるのも分かる」
「大地君に心配掛けてごめんね」
「俺はいいんだよ。翼さんが辛くなければ」
また翼は顔を赤らめている。パートナーのこんな可愛らしい顔を堪能できるのは嬉しい。しかも翼は滅多に外に出ない。彼の小さな世界に寄り添えることが大地にとっては最大の幸福である。
「大地君はよく呆れたりしないよね」
「翼さんが、こんなに頑張ってるの見てるのに呆れられるわけないよ」
ありがとう、と翼が抱き着いてくる。大地はよしよしと彼の頭を撫でた。
結局翼の着替えまで甲斐甲斐しく手伝ってやり、ベッドに寝かせた翼におやすみのキスをした。翼はすぐ眠ってしまったので行為が負担だったのではないかと大地は不安になったが、もうしてしまったので諦めた。あ…とそこで思い出す。
「翼さんに何が欲しいか聞くの忘れた」
サプライズプレゼントもするが、それとは別に翼の欲しいプレゼントを用意するつもりでいる。
「翼さんの欲しいものかぁ。やばい、全然分からない」
明日直接聞けばいいやと大地は自分の仕事に取り掛かった。整体院の予約が途切れることなく入るのは非常にありがたい。年末年始はがっつり休むつもりでいるので、今は稼ぎ時だとも言える。くまさん整体院の客層は八割が女性だ。女性スタッフが多いこともあるが、ほとんどが大地目当てである。もちろん大地はそういう女性の相手にも慣れている。翼を不安にさせないと決めているからだ。
「げ、明日奥野さん来るなあ」
その人は大地のことが大好きなマダムである。とにかく大地を推して推して推しまくっているオバチャンだ。ボディタッチも何かと多くやんわりと断っているが、自分は特別と思っているらしい。絶対に聞き入れない。
本来であれば、出禁でもおかしくないのだが大地としては、出来ればお客様として通って欲しい。大地はスマートフォンを手に取った。電話を掛ける。
「もしもし、越野?」
「お疲れ。なにかあった?」
相手はくまさん整体院の副院長を務める越野だ。大地にとっては頼りになる女性の一人である。
「明日の予約、奥野さんでさ」
「もう出禁にすればいいのに。田町はいちいち甘いの。翼さんを不安にさせないんでしょ?」
「う・・その通りなんだけどさ。でも越野が一緒にいれば安心だし」
越野は向こうで溜息を吐いている。
「あたしは構わないけど、今回なにかあったらもうあの人は出禁よ」
「分かった。そうするよ」
「ねえ、今度翼さんのサインくれない?」
「へ?」
「うちの子たちゲームで遊ぶ時、翼さんのデザインしたキャラクターを使うのが好きみたいでね、すごく喜んでるの。どう?フェアな取引だと思うけど」
「ああ、分かった。頼んでみるよ」
越野には日頃から何かと世話になっている。明日、ちゃんと翼に事情を話して頼んでみようと決める。
「田町、あんたクリスマスはスマートに決めなさいよ?翼さんは美味しい油揚げなんだから」
「あ、ああ。ははは、善処する」
大地は苦笑しながらおやすみを言って電話を切った。
「油揚げか。確かに。翼さんは甘そうだな」
自分もそろそろ眠ろうと寝室へ向かう。翼はすやすや眠っている。よしよしと頭を撫でると、翼が笑った。
静かにベッドに滑りこみ目を閉じる。気が付くと6時過ぎだった。いつも走りに行く時間だ。翼の姿はない。慌てて飛び起きて台所に向かうと、翼が鍋をお玉で混ぜている。
「おはよう、大地君」
「うわ・・・」
今日の翼はものすごく可愛らしかった。翼が首を傾げる。
「どうしたの?」
「い、いや翼さんがいつもよりもっと可愛くてびっくりした」
「良く眠ったからかも」
うーんと翼が首を捻っている。
「最近眠れてなかった?」
「眠ってはいたんだけど、疲れてた」
「翼さん、昨日割と激し目にしちゃってごめんね」
「ううん。ずっとシたい気持ちだったの。ありがとう、大地君」
翼が笑うだけでキラキラとエフェクトがかかったように見えるから不思議だ。
「今日、本当にマッサージお願いしていいのかな?」
「もちろん。11時からにしてあるよ」
「ありがとう」
「夕飯は近所のイタリアン行ってみる?」
「わあ、久しぶりだねえ。ピザ食べたあい」
「うん、いっぱい食べようね」
こうして翼と話をしているだけでふんわりした彼に癒される大地である。
「あ、あのね、今日ネーム作るよ」
「え、今日はお休みじゃ・・・」
「思いついちゃって忘れないようにメモしたいの」
「メモかあ。それはした方がいいねえ」
翼のメモが膨大であることは大地も承知している。だが、それで彼が落ち着くのなら止める気はない。
翼は里芋の煮物を作っていたらしい。具だくさんの味噌汁に混ぜられた納豆も用意されている。
「翼さんの作るご飯いつも美味しいよねえ」
「教えてくれたの大地君だしね」
あ、と大地はそこで思い出した。
「越野に翼さんのサインが欲しいって頼まれててさ」
「ん?副院長さんだよね?」
「そう、お子さんが翼さんの描いたキャラ好きなんだって」
翼がそれに固まり、ぽっと頬を赤らめた。
「え、本当に?すごく嬉しい。ご飯食べたら描くね。俺が越野さんに渡していい?」
「その方が喜ばれるよ」
やはり今日も翼はほんわかと可愛らしい。大地は心の中で翼に拝んだ。
いつもなら大地が走りに行っている間に朝食の用意を翼がしてくれているのだが、今日は食べて食休みしてから走りに行くことにした。
「うん、翼さん味付け最高」
「良かった」
二人でこうしてまったり話しながらする食事は大地にとって最高の癒しである。
「翼さん、もうすぐクリスマスだけど欲しいものある?」
翼は少し考えて笑った。
「大地君のマフラー」
「へ?お、俺の?」
「駄目?」
「いや、駄目じゃないけど新しいのだよね?」
ショップに同じデザインが売られているか大地は不安になった。
「違うよ。大地君が使ってるマフラーが欲しいの」
「ええ?でも綺麗じゃないし、洗濯するなら・・・」
「洗濯したらくれるの?」
「うーん、微妙」
大地が顔をしかめると翼がしゅんとした顔をする。
「じゃあ貸してくれるだけでもいいよ」
「そんなに欲しいの?」
驚いた大地に翼は頷いた。
「大地君とどこでも一緒でしょう?」
「わ、分かった。それならあげる」
「本当?じゃあまた大地君の新しいマフラー二人で見に行こうね」
「デートってこと?」
「うん」
「翼さん可愛すぎかよ」
翼がもぐもぐとご飯を食べている。可愛い人だと常々思っているが、この人の可愛さは作ったものではない。翼だからこそ表せる可愛さなのだ。
「大地君は黒が好きなの?」
「ん?好きな色?」
「うん」
そう言えば何色だったろうと大地は考えた。大人になってからそんなことを考える暇もなかった。
「またマッサージの時に教えて」
「分かった。考えとくね」
二人で食器を片付けて大地は走りに行った。いつもの通りだ。
30分程走って戻って来る。そこでシャワーを浴びて身だしなみを整える。それが大地の毎日のルーティンだ。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
翼にキスをして、大地は職場に向かった。
「おはよう、田町」
越野が声を掛けて来る。
「おはよ。今日急だけど翼さんが来るよ」
「ああ、メール見た。翼さんももっとここを利用すればいいのに。あ、独り占め?」
「はは、まあね」
越野がラブラブねえと溜息を吐いている。
「田町おっす」
「おはよう、林」
スタッフは総勢8名いる。一度に施術できるのは最大三人までだ。いつも二人一組で施術は行われる。
朝礼をして業務が始まった。既に待合室で患者が待っている。基本的に予約制だ。初めてくる場合もまずは予約をとってもらう形になっている。
「大地先生、お願いします」
はじめの患者はまだ30代くらいの主婦だった。今日は越野とペアを組んでいる。一人60分という限られた時間でなるべく楽になってもらえるようにと大地は必死だ。
「腰痛そうですね」
「ちょっと重たいもの持ったら急に」
「それは辛かったですね。しばらく安静に出来そうですか?」
「気を付けます」
大地は彼女の腰を念入りに解した。どうやら首から来ている痛みだと睨む。
「スマートフォン見ますか?」
「あ、めっちゃ見ます。でも腰とどういう関係が?」
「繋がってるからどこかで庇っちゃうんですよ」
「わ、そうなんだ。気を付けよう」
施術を終えて台をアルコールで拭き次の患者を待つ。もうすぐ翼が来る頃だと思っていたら翼がふらりと現れた。
「翼さん、今準備するから待合室にいて?」
「うん」
翼は珍しくトートバッグを手にしている。サインが入ってるのだろうと大地は思った。
「翼さん、始めるよー」
翼が緊張したような面持ちで入って来る。
「あの、越野さん、これ」
「え?サイン?すごいいっぱいキャラが描いてあるじゃない」
「それくらいしか出来ないので」
「ありがとう、翼さん。子供たちに見せたら喜ぶわ」
「良かったです」
翼が台にのりうつ伏せになる。
「首と肩か」
大地は人の痛みのある部分を見極めるのが上手い。翼はただでさえ肩こりもちで、猫背だ。痛くなって当然である。
「翼さん、頭から解すね。重たいでしょ?」
「うん、良く分かるね」
大地は翼の頭を指で揉んだ。痛気持ちいいくらいがちょうどいい。
「ん、気持ちい」
「翼さん、なかなか凝ってるねえ」
ぐっとツボを押すと痛かったらしい。翼は呻いている。
頭から首、首から背中、背中から腰とまんべんなくマッサージで解す。
「はい、おしまい」
「好きな色考えてくれた?」
「うん、やっぱり俺は落ち着いた色が好きだなあ」
翼が嬉しそうに笑う。
「じゃお昼休みにしようか」
大地の号令でスタッフはすっかり休憩モードに入っている。
「じゃ、今日は頼むよ越野」
「はいはい」
翼と共にビル三階の居住スペースに戻ってきて、大地は昼食の支度を始めた。
今日はかつ丼にしようと大地は冷凍のカツを揚げてたまごで閉じた。ご飯は翼が炊いていてくれていた。
「翼さん、体どう?」
「うん、すごく軽い。マッサージってすごいね」
「それは良かった」
「大地君、何かあった?」
翼は敏い人である。大地は正直に奥野の話をした。
「ああ、あのやたら触って来るオバチャンかあ」
前に大地が言っていたことを翼は覚えていたらしい。
「そう、だから越野と一緒に施術しようかなって」
「なるほど、だからサイン」
「翼さんを巻きこんじゃってごめんね」
「ううん、全然だよ。俺が役に立てたなら良かった」
にこっと翼が笑う。彼の笑顔は後光が見えるレベルである。
「でも大地君、気を付けてね。大地君はかっこいいんだし」
「俺なら大丈夫。ある意味慣れてるし」
「さすがだなあ」
食事を終えて歯磨きをした大地は翼に行ってきますとキスをして職場に戻った。
午前中のことを振り返り、午後にはそれを活かせるように動く。くまさん整体院というホンワカした名前でもそういう所はきっちりするのが大地の経営方針だ。
それが今に繋がっていると大地は信じたい。
「院長、午後奥野さんすよね?俺代わりましょうか?」
林の言葉は有難い。だがここは指名が出来る。しかも奥野はここでかなり金を落としていってくれる上客でもある。だからこそ出禁にはしたくないという気持ちを他のスタッフも理解している。
「ありがとう林。俺がもう少しうまく声を掛けられたらと思うんだけど」
「田町はアプローチが上手いと思うよ。もう向こうは聞く気なんてないだけよ」
「やっぱりそうなのか」
越野のはっきりしたものいいに大地はくじけそうになったがなんとか自分を奮い立てる。
「今日も特に気を付けてみる」
「出禁だってこと忘れないでね」
越野にそう釘を刺されて大地は頷いた。
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