沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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文芸部室の雑談

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◆文芸部室の雑談

 それから、リョウコという名の女の子に出会うことはなかった。
 昼休み、何度か生協の書店に足を運んだが、見かけなかったし、めぐみという彼女の友人もいなかった。
 そして、徐々に彼女のことは記憶の隅へと追いやられた。

 文芸部では週に一回の読書会が行われたが、それも決して楽しみな時間ではなく、どちらかというと、緊張でドキドキする時間だった。子供の頃で例えれば、運動会や学芸会のようなものだった。
 読書会は、課題の本についての感想を順番に語らなければならない。
 的外れな事を言うと、白い目で見られそうで怖い。前日までに、予め発言する内容を考えておいて皆の前で述べる。だが、逆に質問が返ってくると、しどろもどろになったりする。
 こんな調子では「一か月もつかどうか」とさえ思った。

 部員の中には親しみやすく、かつ変わった男もいた。
 まず小山という男は、愛読書が夏目漱石で、常に鞄の中に「三四郎」を忍ばせているほどの漱石マニアだった。それでついたあだ名が、「小山三四郎」だ。小説の主人公の「小川三四郎」から来ている。
 そのあだ名通り、
「北原くんは、『三四郎』を読まないの?」と、事あるごとに訊ねてくる。
 僕はその都度、「今度、読むようにするよ」と逃げている。どうも漱石は漢字が多くて苦手だったのだ。
 小山は決して悪い奴じゃない。穏やかな感じの男だし、本当の文学青年のように思えた。
 小山は文学部だ。もしかすると、生協の書店で出会った美少女のことを知っているかもしれない。
 その小山とは対照的な男がいる。中垣という男だ。彼は日本文学はまるで関心がなく、ドストエフスキーばかり読んでいる男だ。それ故か、小山が漱石を読んでいるのを見下している節がある。

 ある日のこと、
「日本の文学は、大長編がないと思わないか?」
 いつもの部室の雑談中、中垣はそう言った。
 すると伊藤という部員が「そういや、そうだな。ドストエフスキーやトルストイは、長い小説ばかりだな」と言った。
 伊藤は、小山や中垣と比べるといたって普通の男だ。
「それだけじゃない。プルーストの『失われし時を求めて』は、13巻もあるし、『チボー家の人々』も同じくらいの量だ。「風と共に去りぬ」も何巻もある」
 中垣はそう言って、
「どうしてか分かるか?」と僕や伊藤や小山に向けて訊ねた。
 三人が黙っていると、小山はこう言った。
「つまりは・・体力だよ!」
 つまり、中垣が言うのはこういうことだった。
 日本人には体力がない。だから西洋の小説に比べて日本の小説は短い。
 更に言うなら、心も弱い。川端康成、太宰治、芥川龍之介に三島由紀夫。みんな自殺してしまう。これは西洋と比べて宗教観の違いもあるが、心の弱さが要因なのかもしれない。中垣はそう言った。
 なるほど・・僕はそう思った。今までそんな視点で作家を見たことがなかったので、面白い考え方だと思った。
 当然ながら、中垣は五木寛之を文学とは思っていない。更に中垣は、かなりの右系だった。いつもミリタリー系の服で身を固めているし、愛読雑誌も「丸(まる)」とかいう自衛隊や軍隊の専門誌だった。
これも僕の知らない世界だった。これまで僕は軍備はおろか、政治のことなど考えたこともなかった。

 それまで話を聞いていた伊藤が、
「考えたら、恋愛も体力がいるからな」と話を脱線させた。
「ええっ、そうなのか?!」思わず僕は声を出した。
 恋愛にも体力が必要・・そんなこと、考えたこともなかった。
「すると、体力がない人間は、恋愛には向いていない・・そういうことなのか?」と僕が訊いた。
「向いていないとは言っていない」中垣はそう言って、
「だがよく考えてみろ。恋愛に手馴れている奴が、女に振られて、首を括ったりするか? そんな話、聞いたことがないだろ?」と続けた。
「そういや、そうだな」伊藤が思い当たることでもあるのか頷き、
「俺は、最近、運動不足だからな」とズレたことを言った。
「そういう意味じゃなくて!」中垣は伊藤の言葉を切り、
「簡単に言うとだな、恋に破れて、自殺する人間は心が弱いんだよ」と強く言った。
 恋に破れて死を選ぶ・・
 すると、「中垣くん」と、小山が言った。
「心が弱くても、鈍感な人間もいるし、恋愛上手でも、すぐに心が折れる人間もいるよ」
 小山はそう言って、
「あまり断定するもんじゃないと思うけどなあ」と続けた。
 話が堂々巡りだ。よく分からなくなってきた。けれど、よく分からない会話がこの部室の雑談の面白さとも言えた。

 雑談のメンバーは、一回生から三回生が中心だ。四回生は早々と就職活動となり、あまり部室には来ない。
 雑談の内容は、小山や中垣のように文学に関する話題が少なからずあるが、二回生、三回生になると、本の話よりもどちらかと言うと、遊び方面や就職の話題が多かった。これは推測だが、もう文学とかに興味薄れているのかもしれない。

 そんな感じで部室で雑談をしているのは男ばかりだ。
 部室は、長机が二台、縦に置かれただけの長細く狭い部屋だ。ウナギの寝床のようなものだ。二十人も入れば満杯の状態になる。だが実際には満杯になることはない。四回生は来ないし、幽霊部員もいるから、読書会に参加するのは、常時10人程度だ。
 部室は読書会に使われるだけではない。講義が休講になった時や、空いた時間には部室に来て駄弁るのは通例になっている。

 文芸部と聞くと女性が多いイメージがあるが、実際はそうでもない。
 男女比率は圧倒的に男子が高い。大学の構成も男女比が8対2位だから、自ずから部員もそうなる。
 その中で紅三点、三回生と二回生、一回生に一人ずつ女性がいる。
 三回生の佐伯先輩、二回生の吉原先輩、そして一回生の九条さん。

「あらぁ、またいつものメンバーで駄弁っているのね。みんな揃って休講なの?」
 雑談しているところへ姿を見せたのは、数少ない女性部員の佐伯先輩だ。三回生だ。
 佐伯先輩は女性にしては長身で、頼れる先輩という感じだ。
 男ばかりでむさ苦しい部屋に女性が現れるだけで、一気に部屋の空気が変わる。
「佐伯先輩も休講なんですか?」と小山が言った。
「そ~なのよ。それで暇になって、友だちとお茶をしに行こうと思ったんだけどね。その子が自分の部室に行くっていうから・・」
 佐伯さんは、着飾らない、面倒見のいい先輩だ。あまり難しいことも言わないし、読んでいる本もどちらかというと分かりやすい小説が多い。この前の読書会に選んだ本も曽野綾子の「二十一歳の父」だった。

 佐伯さんは、鞄を置くなり、僕や小山、中垣と伊藤の顔を見渡して、
「ねえ、ラウンジに降りて、みんなでお話をしない? 缶コーヒーで悪いけど、奢るわよ」
「わっ、佐伯先輩の奢りだ!」伊藤が声を上げ、
「じゃ、遠慮なく」と小山が腰を上げた。
「缶コーヒーか・・」と中垣が少し不満そうに言った。
 なんだかんだ言いながら、僕ら五人は、佐伯先輩を先頭にして部室を出た。
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