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2.龍の髭を狙って毟れ!
鳥籠の鍵を開ける
しおりを挟む犯人には呆気なく追いついた。逃走を図ったホシは想像以上に足が遅く、背中を捉えた後はランニング程度の速さにペースダウンしたほどだ。
誰も居ないじめじめとした校舎裏で、欠伸が出るような追走劇はのたのたと続く。されど相手は全速力で逃げているつもりらしく、濡れ羽色のおかっぱと手足を振り乱して必死にドタドタと走る。
ぜー、ひゅー、と聞こえてくる呼吸音が段々可哀想になって来た。これ以上無駄に走らせるのも哀れと思い、相手の名誉の為にも全力で追いかけて捕まえたという体で行くことにした。
「おい、待て!」
「ッ、」
びくりと跳ね上がった華奢な肩を掴んで引き倒す。腕を背中につけさせて柔らかな土の地面に押し付ける。よく刑事ドラマで見る犯人確保のスタイルだ。
思った以上に呆気なく捕まえられてしまって本当に心配になった。地面は土だけど、強くしすぎただろうか。痛くなってなければいいんだが、なんて、水をぶっかけてきた本人だというのに気遣いの方が勝っていく。
「ッ、離せ、離せよ!」
拘束を解こうとめちゃくちゃに暴れ回るその生徒には見覚えがあった。つやつやと輝く濡れ羽色のおかっぱ、新雪のようなきめ細やかな肌、椿のように赤いぽってりとした唇。美少女と見間違うというよりは、丁寧に作られたビスクドールのような硬質な美貌を持つ、一年B組きっての美少年だ。名前を、確か……。
「とり、まる……」
「烏丸だよ! 烏丸凛寿! お前ホンットーに砂盃以外認識して無いんだな、前野信者のノンデリクソ野郎が!」
一を言えば百で噛みつかれてしまった。そうそう、烏丸。ていうかお前、初めて対面して喋ったけど冷淡な美貌にそぐわず凶暴だな。
教室だとほとんど誰とも喋らないから、勝手に物静かで大人しい奴だと思い込んでいた。
「おいおい、いいのかよ。天下の風紀委員様ともあろうものが直々に制裁だなんて。トップの耳に入ったらどうする? ああ、それとも龍宮に伝えてやろうか。アンタんところの親衛隊隊長が、篤志に水をぶっかけようとしましたよって」
わざとらしくそう言ってやれば、烏丸はくしゃりと顔を歪めて憎々しそうに俺を睨む。
そう、風紀。こいつは一年B組の風紀委員長だ。そしてその上——龍宮の親衛隊にも所属している。しかも中々に古株なようで、二番隊の隊長も任されている過激派寄りの生徒だ。二番隊は他のアンチ派閥と比べて直接突っかかってこないから目立ちはしなかったが、ここにきて何故今更。
「っ、うるさい! 委員長も会長も関係ないだろ! さっきのは僕が個人的にむかついてやったことだ! っ離せよ、冷たいんだよお前!」
「いや冷たいのはお前のせいだろ」
絹のような髪を振り乱して叫ぶ烏丸を軽々と抑えながらもおや、と思う。コイツ、他と違うな?
今までも直接ちょっかいをかけてくる奴は一定数居た。だけどとっ摑まえて脅せば、全員が全員口を揃えてこういうのだ。「あの方の為」「あの方の目を覚ます為」、笑っちまうくらいに全員が崇拝対象に己の傷害行為の責任を押し付けていた。
だがこいつはどうだ。こんなにもトロく、絶対に捕まると分かっていてもあの場で行動を起こした。そして今この絶体絶命の状況でも、あれは誰でもない己の意志で行ったものだと叫んでいる。地面に押し付けられ、ブレザーを濡らされ脅されながらも。
これは、他よりも話が通じるかもしれない。
「お前、なんだって急にあんなことしたんだ。親衛隊の中でも二番隊はまだ傍観派だっただろ」
これは純粋な疑問だった。過激派と聞く割に、二番隊の奴らから手を出されることは無かった。砂盃によると烏丸から篤志への接触禁止令が出されていたらしい。むしろ制裁を控えさせるような行動をしていただけに、今回の自発的な行動がどうにも腑に落ちない。
だが、それは逆鱗に触れる問いかけだったらしい。烏丸は耳まで真っ赤にして吼えるように怒鳴った。
「なんで、何でだって?! アイツが、前野が会長に下品なことばかり教えるからだろ! アレと出会ってから低俗なことばかり教え込まれて……! 会長は、もっと高貴で手の届かない場所にいらっしゃるお方なんだ! 庶民と馬鹿な遊びをしてはしゃぐなんてあの方らしくも無い! 楽しそうにされていらっしゃるからと、邪魔をしないようにと気を使った僕が馬鹿だった! 前野は毒だ、下品で低俗で愚かだ! 会長に近寄らせてはいけない人間だった!」
ギリリ、と憎々し気に吐き棄てる烏丸。その空気を震わせるような咆哮を聞いて納得した。
ああ、成程。要するに自分たちが崇拝していた神のような完璧な男が、わたパチ一気食いして悶絶したりメントスコーラやろうとしたりと、そこら辺の学生と同じように馬鹿やってるのが許容できない、と。
……なんだそれ、面倒くさいアイドルのオタクか?
「僕らは、僕はずっと会長を見てきたんだ。幼稚舎の頃からずっとずっと! あの方は特別だった。誰より賢くて誰より美しくて、この世に二人と居ない完璧なお人。それなのに、今はアイツに惑わされておかしくなってる……! 僕はそれが我慢ならないんだ、会長の前で頭も垂れずに会長の優しさによって対等であると錯覚してへらへら笑う、恥知らずのアイツが! ……クソ、クソが!」
喚き散らす烏丸の後頭部を冷めた目で見下ろす。ああ、そうか、合点がいった。
「……龍宮は」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。あまりにも龍宮が不憫でならない。
優れたものはそれだけでどこまでも責任を取らなければならないのか。周囲が勝手に狂っただけだというのに。
「龍宮は、まだ、十八そこらだろ。なんでそんな、他人からのキショい偶像崇拝を押し付けられなきゃなんないんだ」
龍宮たちが篤志に固執する理由が、少しだけ分かった。コイツらだ。コイツらみたいな、他人を勝手にデコレーションして消耗する奴らしか周りに居ないから、ラベリングされていない自分自身を見てくれる篤志に固執する。
己に救いを見出さない者、どんな己であっても許してくれる者、己のせいで運命が捻じ曲げられない者。
何の責任も感じずに、何を気にすることも無く、ただの一人の人間として在れる篤志の周りはきっと大層心地よいのだろう。息がしやすいに違いない。
篤志は決して特別を作らない。どれだけ優れていようが劣っていようが、あの血族の前には全ての人間が平等だ。その残酷なまでの平等性が、彼らを安心させ、そして渇望させる。他の誰よりも早くアイツの隣に、他の誰よりもアイツの一番近くに。
俺ならばきっと届くはずだと、今まで献上された信仰を根拠として必死になって篤志の特別という居場所へ手を伸ばす。
そしてその膨れ上がっていく複雑に折り重なった感情が、また新たな信仰を生み出していく。かつて唾棄した凡人たちと同じように、選ばれた者たちは篤志を勝手にデコレーションして消耗していく。
デコレーションするのが選ばれた者たちだからこそ質が悪い。彼らが手に持つアクセサリーや称号は、他の者たちから見ればどんな宝石よりも輝き重く見える。前野の一族は、それらの重しをつけられ続ける。
「どれだって龍宮だろ。壇上でスピーチしてる姿も、篤志と馬鹿やってる姿も、全部全部龍宮虎徹だ。もし見たことない顔があるんなら、なんてことはない。ただお前が知らなかっただけだ。十何年見続けたお前が見つけられなかった顔を、篤志が引き出したに過ぎない。他人が思い通りにならないからって喚くな、他人を全部知れてるなんて驕るなよ」
「な、なッ……!」
——そうやって信仰の掃きだまりになった最終地点で、幾多の執着に飲み込まれた篤志がどうなるのか。前野の人間が、どんな末路を辿るのか。
お前は知っているのか、と揺さぶりたくなった。冗談じゃない、お前たちの勝手なエゴの押し付け合いに篤志を巻き込むんじゃない。
「…………いや、違う。そう言う話が、したいんじゃ、ない」
ふつふつと沸騰する臓腑を必死で押さえつける。落ち着け、冷静になれ。俺の吐き棄てた言葉にわなわなと震える烏丸の耳元に口を寄せて、一等優しい声を心がけて語り掛ける。取引を、持ち掛ける。
「それじゃあお前は、会長に篤志を捕まえてほしくないよな」
「ッ……、当たり前、だろ……!」
「なら、取引をしないか」
「何言って、」
「俺は会長を捕まえるつもりだ。それに協力してくれないか」
烏丸がとんでも無いものを見るような目で俺を見上げる。お、関心がこちらに向いたな。もう暴れはしないと判断して、腕の拘束は解いてやった。まだ上から退くことはしないが。
「バッ………………カじゃないの、お前ごときに、会長が」
「それでもお前よりは勝算があるだろ」
「仮にお前が摑まえられたとして、僕の旨味が殆ど無い!」
「言っただろ、取引だって」
ぐい、と地面に押し付けて、一つ一つ見せびらかすようにして言葉を紡いだ。出来るだけ魅力的に聞こえるように、悪魔の囁きに聞こえるように。
「もしも俺が会長を捕まえられたら、後夜祭の部屋はお前と交換してやるよ」
ビクン、と華奢な肩が跳ね上がる。俯いた少年の双眸は見えないが、きっとぶら下げられたニンジンを前に戸惑っているに違いない。
船の中全てに監視カメラが付けられている訳でも、見張りがついているわけでもないだろう。点呼の先生の目さえ誤魔化せれば、部屋を取り換えることなど容易なはずだ。実際に事前に取引をして当日部屋を取り換える生徒も、多くは無いが居るには居ると聞いた。
喉から手が出るであろう、崇拝対象との一夜。会長だって俺なんかより親衛隊の顔見知りと同室の方がまだいいはずだ。
「その代わり、会長の位置が分かったら逐一教えて欲しいんだ。どうせお前らはサポート役として声がかかってるんだろ?」
龍宮は親衛隊を使ってくるだろう、というのは砂盃の予想だ。八個もある親衛隊総出で追い掛け回されたらひとたまりもない。古参メンバーに名を連ねる烏丸を味方につけられれば、かなり痛手になるのではないか。
「ぼ、く、は…………」
烏丸が呻くように呟く。もうすっかり少年のブレザーも湿ってしまっていた。
「——あかんやろ、こないなムードも何もない場所で盛って。『セックスは合意の上で』、これ人間の常識なんやけどワンちゃん分かる?」
ザク、と土を踏みしめる音と共にそんな声が聞こえてきて顔を上げる。そこには眉を顰めた鶴永が立っていた。目を細めて薄らと笑っているが、その瞳の奥には鋭い光が見える。
冤罪をかけられているのかと少し焦ったが、口ぶりとは反対に動く気配はないので、どうやらきちんと分かってはくれているようだ。とは言え俺が身内に手を出しているのが許せないってところか。
「……すみません、あんまりにも可愛くて、つい」
「お凛に可愛いは禁句やで。……冷たいやろ、もうええよ。お行き」
随分と柔らかな声音におや、と思う。身内にはうんと甘いタイプのようだ。ジロリと睨まれて観念して上から退く。少年はのろのろと立ち上がって制服に付いた土を払った。
「……ありがとうございます。失礼、します」
「烏丸、また、教室で」
俺の言葉に眉を顰めた烏丸は、舌打ちを一つだけ零すと艶やかな黒髪を翻して去っていった。無視するこたねぇだろ、まあちょっと制服びちゃびちゃにしたが。そもそもびちゃびちゃにしたのはそっちだ。
「主も主なら従者も従者やね。誰にでも尻尾振るんや?」
「協力してくれそうなら誰にだって媚び売りますよ。あの龍と鳳凰を相手にするんだ」
「……あ、っそ」
すう、と目を細めた鶴永をじっと見つめる。わざわざこんな校舎裏まで、散歩でやって来たという言い訳は少々厳しいものがある。ならば、騒ぎを聞きつけて俺を追いかけてきたのだろう。と、いうこと、は。
「色よいお返事を、期待しても?」
俺の少し浮かれた声音にピクリと眉を跳ね上げる。心底不服そうだ。だが、明確な否定の言葉も帰ってこないし、立ち去る気配もない。だったら、つまり、ということは!
「よっっっっしゃあ!!!」
僅かに残った水分を撒き散らしながらその場で飛び跳ねて喜んだ。これでヒノキの棒の勇者パーティーは卒業だ、明確に勝てる「かもしれない」ルートが見えてきた。
鳳凰院の方に左程人員を裂かなくていいとなれば、篤志とリカルド先輩に付ける護衛も増やせる。これは作戦を練り直さなければならないな。
一通り喜んだあとで、じっと俺に突き刺さる視線に気が付いた。どうせいつも通り「何はしゃいどるん、みっともな」とか思ってるんだろう。
しかし、目が合った鶴永はいつものような厭味ったらしい表情を浮かべてはおらず、それどころか僅かに口を開けて驚いているような顔をしていた。
「……何スか」
「……いや、別に。……いつも、しかめっ面か澄ました顔しかしとらんやろ。まさか、こんなことでそないにはしゃぐなんて、思わんくて」
「『こんなこと』ォ?」
聞き捨てならない台詞に声を荒げてしまう。鶴永先輩が仲間に加わってくれたことを、『こんなこと』なんて言葉で片付けないで欲しい。
「な、なんやの、別に大したことじゃ、」
「あーあーあー、これだから鳳凰院先輩のハイスペックっぷりに慣れきった人は! いいですか、アンタは風紀委員会副会長で、剣道部の副部長でもある。どっちも鳳凰院先輩の次に偉い、つまり強いって周りから認められてるってことだろ。そんな校内でも有名な有能な人を味方に引き込めたんだ。めちゃくちゃ喜ぶに決まってるだろ」
家柄が特に重視されるこの学園で、従者という立場にありながらその地位に立ち続けられているのは、それらのマイナス要素を跳ねのけてしまう程の本人の有能さによるものだろう。
家柄と金に縛られる盲目な奴らでさえも、それらを差し置いてでも評価せざるを得ない程の逸材。それが鶴永誠だ。
「アンタ、あんまり自分自身の事舐めない方がいいですよ」
過ぎたる謙遜は毒である。それは己を愛してくれる人を貶め、いつかその謙遜通りの人間になってしまう。自分で自分の杭を打つ必要なんてどこにもないのだ。
「…………ん、ふっ…………。ふ、ははッ」
鶴永がくしゃり、と顔を歪めて笑った。今度は俺がぽかんと口を開けて驚く番だった。今のどこに笑う要素があっただろうか、というより笑った顔結構幼いな、え、いつも悪人面しか見て来なかったから凄い衝撃、うわ、可愛い。
「俺が、俺の事舐めてる。ああ、そや、そやね、そやったかも」
「す、すごい笑う……」
「アホやなあって思って。偶にはむつかしい事考えんのも止めんとなァって思たわ」
「それ、言外に俺が難しい事考えてないって言ってません?」
「言っとる」
「言ってるんかい」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を指先で拭って、いつも通りの厭味ったらしい笑みを浮かべた鶴永は言う。
「じゃあ、ま。そんな有能な俺が仲間になってやったんやから、開始五秒で全滅なんて無様晒さんでな」
「勿論です! ……あ、俺たちのグループLINEあるんスよ、招待していいですか」
「あー、おん」
取り出したスマホを操作して鶴永先輩と友達になり、そのまま流れでグループに招待した。
「…………アリーズ……」
「いいでしょ。なんだっけ、ほらあの、龍の髭を蟻が毟るみたいなやつから取りました」
「『龍の髭を蟻が狙う』、やろ。早速後悔してきたな……」
「何でですか!」
突然の鶴永の投入に何人かが戸惑いの反応を見せる。よしよし、戦力増強だ。これで烏丸も釣れれば理想だが、まあ贅沢は言うまい。
「うおっ、すいません、ちょっと失礼します」
満足げに眺めていたスマホが突然震えだす。砂盃からの着信だった。鶴永先輩に断りを入れて通話ボタンをスライドする。
「もしもし? 砂盃、用事終わったの——」
『宗介何やってんの?! お前はホンットちょっと目を離したらすぐどっか行く! 用事終わって合流したらリカルド先輩と前野がオロオロしててさぁ、話聞いたら水ぶっかけた犯人追って消えてったって? 猪じゃないんだからさあ、あーもう!』
一を言ったら百を返された。デジャビュである。そう言えば、元々は烏丸を追う為にリカルド先輩に篤志を任せて走り出したんだったっけ。
「悪い悪い、今は、ええと」
『あーいいいい、居場所は分かるから。宗介濡れてんでしょ。ジャージでも持ってそっち行くから、そこで大人しく待ってて』
「えっなんで分かるんだ」
『お前ねえ、あのアプリ誰が開発したと思ってんの。気になるもんがあってもついてかないでね! あと拾い食いもしないこと!』
「しねえよ」
プツリ、と音を立てて通話が切れる。今更ながらに自分の一部が濡れていることを認識してちょっと寒くなってくる。五月も半ばではあるが、流石に濡れっぱなしは肌寒い。
「……じゃ、とりあえず俺はこれで」
「あっ、はい。すいません。作戦練りたいんで、近いうちに声かけていいですか」
「おん。明後日はオフやからええよ」
「了解です」
鶴永が踵を返して去っていく。……あの笑顔、可愛らしかったなあ。
もう一度見たいななんて思うけど、多分あの人が俺にあんな笑顔を向けてくるのはあれが最初で最後だから、無い物ねだりは止めにしておいた。
それよりも馬鹿みたいな作戦が現実味を帯びてきたことの方が、俺に取ってはずっとずっと大事だった。
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