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03:十二時までに帰してやれない
水底でワルツを 3
しおりを挟む流石に女は男子トイレまで追いかけては来なかった。当たり前だ、そこまで来たら普通に通報案件なので。
逃げ込んだ先でついでに用を足した明呉は、こういう店はトイレの中も装飾が凝ってるんだなあなんて呑気なことを思いながら手を洗って外に出る。
きっとさっきの女はまた別の人間にちょっかいをかけているか、或いは渡來本人に接触しようとしているだろう。膝や肩が触れ合うような距離で、猛禽類の様な瞳を笑顔の下に隠しながら。
のし上がる為に必死なのは芸能界ばかりかと思っていたが、こういった界隈でも名をあげる為にそれぞれがそれぞれなりにアプローチしているんだなと思い、最早感心さえもしながらホールへと戻ろうとしたとき。
「あ……ダメ、誰か見てるかも……」
「皆自分で手一杯だよ」
甘ったるく溶かしたような声が聞こえてきて息を呑む。どうやら従業員入り口に繋がる方のドア付近で睦みあっているようだった。こんないつ誰が通るか分からない場所で、と思いながらも、会場の暗さが明呉の好奇心を増長させる。
見てはいけないと思いながらも、隠れながら恐る恐るそちらへ視線を向けた。
「んふふ、悪い子」
「あとでいっぱい叱ってよ」
目に鮮やかな黄色のタイトドレスの女性。太ももまで鋭く入ったスリットから伸びるしなやかな足が、目の前の男に絡み付いている。女は窘めているようではあるが、その言葉に真剣さはない。全てはスパイスとして、二人の逢瀬に刺激的な味付けをしているようだった。
女がスーツ姿の男に壁に押し付けられている。女はその首に腕を回して項の髪を指先で遊んでいた。男の血管の浮いた大きな掌は、生白い太腿を獲物を喰らう捕食者のように熱く撫でまわしている。まるで洋画のワンシーンのようだ。
囁き合う言葉の合間に濡れた音とリップ音が聞こえるが、一際大きくなった会場のサウンドのせいで気づく人間はいないだろう。盗み見て口をあんぐり開ける明呉以外。
――あれ、どう見ても、珠莉さんだろう。
見覚えのある横顔と声にじんわりと耳が熱くなってしまう。見知った人の、しかも友人の母親の女性としての面はどうにも面映ゆい。
ということはあれが旦那様で、渡來の父親か。やっぱり父親も若くてカッコイイんだな、あの男はなるべくして成った美形なのだと残酷な現実に悲しい顔をしていると。
「ッ、明呉!」
随分と焦った声で名前を呼ばれて、弾かれたように振り返る。同時にドア付近の方でもガタリと音がした。気づかれてしまった。
「渡來」
「なんで居なくなってたの! 探した……」
「いや、ごめん、便所……」
「違う、他の人から聞いた。ちょっと絡まれたんでしょう? 嫌な思いさせてごめん」
いつも通りの明呉に安心したような渡來が、珍しく息を荒げながらその場にしゃがみ込む。
「絡まれたってわけじゃ……。お前こそ良かったのか、お仕事の話だったんだろ」
「もう終わったよ、十分働いた。帰ろう、やっぱりここは明呉の教育に悪い」
「お前は俺の親権を持ってるのか?」
同じようにしゃがみ込んで下から覗き込めば、不愉快そうに顔を歪めた渡來が吐き捨てる。明呉としては今後一生関わり合わないような世界と人種を見れたから、別につまらなかったわけではないのだが。
「翼、皆にちゃんと挨拶した?」
後ろから声をかけられてドキリとする。渡來は心なしか冷たい声で「した」とだけ短く答えた。
油の切れたロボットのように振り返る。きっと明呉が盗み見をしていたことはバレてしまっただろう。気まずくて仕方がない。
「こんばんは明呉君、楽しんでる?」
「あ、はい、あの、飯美味いです」
「あははは! こんな店に来てまでご飯? ピュアすぎて可愛い~!」
カラカラと笑う珠莉は以前見た時と全く変わらない。ドレスだって乱れたところは一つもなく、その後ろにはやっぱり乱れたところが一つもないスーツ姿の男性が穏やかに佇んでいた。
まるでさっき見た光景は、本当にフィクションの一部だったみたいに。アルコールなんて一滴も飲んでいないのに酔ったのかとさえ疑った。
「……もう帰る。挨拶回りしたし、いいでしょ」
「ええ~、早くない? 翼と話したいって子沢山いるんだけど」
「今度でいいでしょ。明日も学校だし……、明呉連れて帰らなきゃ」
「そっか明日学校かあ。ごめんねこんな時間まで。今度は普通に遊びに来て!」
「はい。こちらこそお呼びいただきありがとうございました」
挨拶もそこそこに渡來に腕を引かれる。珠莉は無邪気にドレスの布地をひらめかせながら天真爛漫に「またねー」と手を振っていた。父親は小さく会釈をしてくる。
頭が痛くなるような爆音は未だ鳴りやまない。グラスを持って談笑する人々の間を通り抜けながら、渡來は明呉の腕を強く強く握って離さない。
長い足とのリーチの違いに転びそうになりながら明呉が少し大きな声で言った。
「お父様、綺麗な人だな! 流石だ!」
渡來が振り返って立ち止まる。色素の薄い目を大きく見開いていた。
明呉はその表情の意味が分からずに首を傾げる。その様子を見て何か悟ったのだろう、また前を向いて歩き出した渡來が、やっぱり少しだけ大きな声で言った。
「あれ、父親じゃないよ」
音が消えた気がした。
明呉のえ、という小さな言葉はあっという間に喧騒の中に紛れていく。
腕を握りしめる力がより一層強くなった。それ以上何も言えなくなった明呉は、引きずられるようにしてクラブの外へと連れて行かれた。
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