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第一部 俺様騎士と悟りの少女
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中堅クラスの客の部屋といえども、ここは優雅な調度品に包まれている。
そして1階のエントランスホールのすぐ横のラウンジからは、楽団の演奏が続いている。
今宵は上弦の月。ほどよく暗い。
窓のカーテンは開け放たれているので、そこから幻想的な庭の光景が否が応でも入り込む。
そんなお膳立てされたこの空間で、男女のどちらかが天蓋付きのベッドへと誘へば、最高の夜が始まるだろう。
けれど、ティアとグレンシスの間にはそういう雰囲気は皆無。
そして、部屋の空気は、綺麗に二分されている。
一方的な解釈で納得した空気を醸し出すものと、理解できず不機嫌な空気を醸し出すもの。
前者であるティアは、うねりができそうな空気をものともせず、現在、片手で顔を覆って思慮の樹海に入り込んでしまったグレンシスに問いかけた。
「ナフリエ姐さまですか?それともサラ姐さまですか?」
「は?」
「……違いますか。では、アリス姐さまですか?あっユーナ姐さまでしょうか?」
「さっきから、お前は何を言っているんだ?」
覆っていた手を離して顔を上げたグレンシスは、胡乱げな表情をしていた。
そしてそれは、次第に不機嫌さを増していく。
エリート騎士といわれているグレンシスはそこそこ頭が良いし、察しも良い。
けれど、さっきからティアの言っている意味がまったくもって理解できないのだ。
そのことを人並みに空気を読むことができるティアは気付いてしまう。
なによもう。察しが悪いなぁ、こういうことを皆まで言わせないで、とティアは肩をすくめながら心の中で悪態を付く。
そして、やれやれ、と言いたげに口を開いた。
「騎士様は、私のような者に接待を受けるのがご不満なのでしょう?つまり、どなたか、既にお好みのお姐さまをお決めになっておられるのでは?」
「はぁ?」
「あいにく本日は満室御礼となっており、今、申した姐さま達はすでに接客中であります」
「いや、ちょっと待て」
グレンシスは組んでいた足を戻して、中途半端に立ち上がろうとした。
けれど、ティアはそれを遮るようにグレンシスの正面に立ちふさがる。
そして丁寧に頭を下げた。
「ご期待に添うことができず申し訳ありません。ただ、文をしたためてください。私が責任を持ってお姐さまにお渡しします。後日、意中のお姐さまとの席を設けることができるようにします」
ティアはきっぱりと、そう宣言する。
そして、便せん便せんと呟きながら、備え付けのチェストへと移動する。
ただ良く見れば、引き出しを探るティアの小さな手は小刻み震えているし、唇をきつく噛んでいる。
ティアは自分で言ったはずなのに、とても動揺していた。
そして、こんなことで狼狽えてしまう自分が馬鹿みたいだと、笑えてしまう。
グレンシスは、ティアがかつて自分の傷を癒したことを覚えていない。
だから自分達の間柄は、つい10日前に、裏庭でちょっと見かけただけというのは、ちゃんとわかっている。
それにティアは、グレンシスに好きになって欲しいなんて考えてもいない。
だからグレンシスがどんな趣味趣向を持っていてもとやかく言う権利はないのだ。
なのに、なぜこんなに胸が痛いのだろう。
グレンシスに背を向けているティアは、そっと左胸を押さえた。
心の臓と、グレンシスから移した傷跡。
そのどちらが痛んでいるのかわからない。
「──……俺は、そんなつもりでここへ来たわけじゃない」
喉の奥から絞り出したようなグレンシスの言葉に、ティアは、ぱちりと一度だけ瞬きをする。
無表情にしか見えないティアだけれど、今、とても驚いていた。
欲しい言葉を貰えて、歓喜が全身を包む。
とても現金だが、嘘みたいに胸の痛みが消えた。
けれど、疑い深いティアは、まだ手放しに喜ぶことができなかった。
「あら……では、派遣型をご所望でしたか?でも、私にはそんな権限はありません。後ほど──」
「違う!!」
グレンシスは今度はティアの言葉を遮って、窓ガラスが震える程の大声を出した。
どうでも良いことかもしれないが、派遣型とは娼婦を自宅に呼び接客させること。この業界の専門用語でもある。
と、いうのは本当にどうでも良いことで……兎にも角にも、グレンシスは我慢の限界だった。
意味も分からないまま、上司であるバザロフに半ば強引にこんなところに連れ込まれて。
そして年端もいかない小娘と二人っきりにさせられて。
しかもあろうことか、目の前の少女は、勝手に自分のことが気に入らないのだと判断して、業界用語である【チェンジ(他の娼婦を宛がうこと)】をしようとしているのだ。
大変な屈辱であった。
グレンシスには、想い人がいる。
ただ、名前も歳もわからない。どこに住んでいるのかもわからない。
手掛かりは、ほとんどない。けれど、それでもその女性に恋焦がれていた。
グレンシスが恋に落ちたのは、3年前。それからずっとずっと、その人を探し続けている。
だからこそ、グレンシスは余計にティアの言動に苛立ったのだ。
もし万が一、その女性の耳に自分が娼館に通ったなんていう事実が入って幻滅されてしまったらどう責任取ってくれるんだと。
小娘相手にムキになるなともう一人の自分に諫められても、怒りはどうにもこうにもおさまらない。
グレンシスは勢いよく立ち上がると、ティアに詰め寄った。
「何が派遣型だっ。ガキのくせに、そんな言葉を使うんじゃないっ。それに俺は何度も言っているが、仕事でここにきている。女漁りをするためなんかじゃないっ。だいたい、こんなところ、誰が好き好んで足を向けるものかっ」
グレンシスが青筋を立てながらそう叫んだ瞬間、ガチャリと扉が開いた。
そして1階のエントランスホールのすぐ横のラウンジからは、楽団の演奏が続いている。
今宵は上弦の月。ほどよく暗い。
窓のカーテンは開け放たれているので、そこから幻想的な庭の光景が否が応でも入り込む。
そんなお膳立てされたこの空間で、男女のどちらかが天蓋付きのベッドへと誘へば、最高の夜が始まるだろう。
けれど、ティアとグレンシスの間にはそういう雰囲気は皆無。
そして、部屋の空気は、綺麗に二分されている。
一方的な解釈で納得した空気を醸し出すものと、理解できず不機嫌な空気を醸し出すもの。
前者であるティアは、うねりができそうな空気をものともせず、現在、片手で顔を覆って思慮の樹海に入り込んでしまったグレンシスに問いかけた。
「ナフリエ姐さまですか?それともサラ姐さまですか?」
「は?」
「……違いますか。では、アリス姐さまですか?あっユーナ姐さまでしょうか?」
「さっきから、お前は何を言っているんだ?」
覆っていた手を離して顔を上げたグレンシスは、胡乱げな表情をしていた。
そしてそれは、次第に不機嫌さを増していく。
エリート騎士といわれているグレンシスはそこそこ頭が良いし、察しも良い。
けれど、さっきからティアの言っている意味がまったくもって理解できないのだ。
そのことを人並みに空気を読むことができるティアは気付いてしまう。
なによもう。察しが悪いなぁ、こういうことを皆まで言わせないで、とティアは肩をすくめながら心の中で悪態を付く。
そして、やれやれ、と言いたげに口を開いた。
「騎士様は、私のような者に接待を受けるのがご不満なのでしょう?つまり、どなたか、既にお好みのお姐さまをお決めになっておられるのでは?」
「はぁ?」
「あいにく本日は満室御礼となっており、今、申した姐さま達はすでに接客中であります」
「いや、ちょっと待て」
グレンシスは組んでいた足を戻して、中途半端に立ち上がろうとした。
けれど、ティアはそれを遮るようにグレンシスの正面に立ちふさがる。
そして丁寧に頭を下げた。
「ご期待に添うことができず申し訳ありません。ただ、文をしたためてください。私が責任を持ってお姐さまにお渡しします。後日、意中のお姐さまとの席を設けることができるようにします」
ティアはきっぱりと、そう宣言する。
そして、便せん便せんと呟きながら、備え付けのチェストへと移動する。
ただ良く見れば、引き出しを探るティアの小さな手は小刻み震えているし、唇をきつく噛んでいる。
ティアは自分で言ったはずなのに、とても動揺していた。
そして、こんなことで狼狽えてしまう自分が馬鹿みたいだと、笑えてしまう。
グレンシスは、ティアがかつて自分の傷を癒したことを覚えていない。
だから自分達の間柄は、つい10日前に、裏庭でちょっと見かけただけというのは、ちゃんとわかっている。
それにティアは、グレンシスに好きになって欲しいなんて考えてもいない。
だからグレンシスがどんな趣味趣向を持っていてもとやかく言う権利はないのだ。
なのに、なぜこんなに胸が痛いのだろう。
グレンシスに背を向けているティアは、そっと左胸を押さえた。
心の臓と、グレンシスから移した傷跡。
そのどちらが痛んでいるのかわからない。
「──……俺は、そんなつもりでここへ来たわけじゃない」
喉の奥から絞り出したようなグレンシスの言葉に、ティアは、ぱちりと一度だけ瞬きをする。
無表情にしか見えないティアだけれど、今、とても驚いていた。
欲しい言葉を貰えて、歓喜が全身を包む。
とても現金だが、嘘みたいに胸の痛みが消えた。
けれど、疑い深いティアは、まだ手放しに喜ぶことができなかった。
「あら……では、派遣型をご所望でしたか?でも、私にはそんな権限はありません。後ほど──」
「違う!!」
グレンシスは今度はティアの言葉を遮って、窓ガラスが震える程の大声を出した。
どうでも良いことかもしれないが、派遣型とは娼婦を自宅に呼び接客させること。この業界の専門用語でもある。
と、いうのは本当にどうでも良いことで……兎にも角にも、グレンシスは我慢の限界だった。
意味も分からないまま、上司であるバザロフに半ば強引にこんなところに連れ込まれて。
そして年端もいかない小娘と二人っきりにさせられて。
しかもあろうことか、目の前の少女は、勝手に自分のことが気に入らないのだと判断して、業界用語である【チェンジ(他の娼婦を宛がうこと)】をしようとしているのだ。
大変な屈辱であった。
グレンシスには、想い人がいる。
ただ、名前も歳もわからない。どこに住んでいるのかもわからない。
手掛かりは、ほとんどない。けれど、それでもその女性に恋焦がれていた。
グレンシスが恋に落ちたのは、3年前。それからずっとずっと、その人を探し続けている。
だからこそ、グレンシスは余計にティアの言動に苛立ったのだ。
もし万が一、その女性の耳に自分が娼館に通ったなんていう事実が入って幻滅されてしまったらどう責任取ってくれるんだと。
小娘相手にムキになるなともう一人の自分に諫められても、怒りはどうにもこうにもおさまらない。
グレンシスは勢いよく立ち上がると、ティアに詰め寄った。
「何が派遣型だっ。ガキのくせに、そんな言葉を使うんじゃないっ。それに俺は何度も言っているが、仕事でここにきている。女漁りをするためなんかじゃないっ。だいたい、こんなところ、誰が好き好んで足を向けるものかっ」
グレンシスが青筋を立てながらそう叫んだ瞬間、ガチャリと扉が開いた。
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